見出し画像

第77回:「喜び」を循環させて生きる

今回は、「喜び」を循環させて生きる、ということを書いていきます。

私たちは、生命エネルギーを循環させて生きていているものであり、この生命エネルギーを常に循環させていないと、停滞という不都合が起こってしまいます。

では、停滞という不都合とは何かというと、生命としての進化が止まってしまうということです。そこで、この生命としての進化を止めないようにするためにも、普段から「喜び」の感情を使って生命エネルギーを循環させていくことが大切だったりします。

「私」がここに存在する理由

私たちは、自分が生まれ持っている可能性を知り、その可能性を発揮して自分自身を成長させるために生きています。

現在は、精神の大切さに気づき始めている人が増えていることから、「自分を知って自分を成長させる」ということを自覚しながら生きる人も今後、増えていくことでしょう。

では、この「成長」が何を意味するかというと、自分の中から自然と生まれ出る想いを、何かしらの形にして表現していくということであり、表現を通じて自分を知ることができるようになります。

たとえば、今、私は文章を書くということで、私の想いを形にするということを行っていますが、私は日々文章を書くことで自分自身を知ることができるようになっています。

もちろん、何を表現しそれをどのような形にしていくかは、人それぞれ異なるものであり、その対象は千差万別です。

しかし、何かを生み出すという行為の陰には必ず「喜び」の感情があり、この「喜び」の感情をエネルギーにして日々を楽しんで過ごしていけるようになると、自分の中から新しい「何か」を生み出すことができるようになっていきます。

また、楽しみながら何かをしていると、自然とそれが上手になって行くものであり、その楽しみがまた新たな楽しみを生み出していくため、必然的に出来ることが増え可能性も広がっていくものです。

こういったことから、「喜び」の感情を普段から意識して感じ、それを循環させていくことが欠かせないものなのです。

「夢」が教えてくれた循環の大切さ

昨日、私は、聞いても聞こえない言葉を受け取る、という記事の中で3つの「夢」を書きました。

実は、昨日書いたこの夢の内容が「エネルギー」を循環させるということだったということに気づきました。

その夢の内容がこちらです。

【夢①】
熟れた桃の匂いがした。
若い女が二人、滝壺で水浴びをしていた。
水を掛け合ったり、滝壺にもぐったりしながら、
僕には理解できない言葉で大声ではしゃいでいる。
二人は細長い流体の雲のような衣をまとっている。
羽衣だろうか?
僕は目を凝らす。
その羽衣らしきものは、時折、虹色に輝く。
あ、あれは羽衣ではない。龍だ。
二人の女と二体の龍が滝壺で遊んでいる。
一人の女がこちらを見て手招きする。
どうやら、僕がいることに気づいたようだ。
僕は起きあがって、滝壺の中に飛び込んだ。
滝壺は思ったよりも深く暗く、温かかった。

【夢②】
蝉が鳴いている。
汗が頬を伝う。
僕はノミを手にして、仏像を彫っている。
手に握れるくらいの小さな仏像だ。
仏の顔の頬の丸味を薄皮を削ぐようにノミを這わす。
丁寧に丁寧に、ゆっくりゆっくりノミを這わしていく。
もう少しで完成だ、そんな思いがよぎる。
ゆっくりゆっくり、丁寧に丁寧に。
そんな言葉が木霊する。
仏は笑っているのか、怒っているのか、それとも泣いているのか。
自分で創った仏なのに、その気持ちを読み取ることができない。
一旦ノミを置き、僕は手の中にある仏像と気持ちを重ね合わせることにした。
彼は泣いてもいないし、怒ってもいなかった。
笑ってもいないし、ただ、そこに存在しているだけだった。

【夢③】
小川の水を田へと引き終えると、陽は頭上で輝いていた。
二人の幼い息子が田の中で水遊びをしている。
私は畔に腰を下ろして、追いかけ合う息子達の姿を眺めていた。
田植えをするこの頃の季節が一番いい。
毎年そんなことを考える。
風が薫る。
田に張った水が陽の光を浴びて輝いている。
田植えが終わるとすぐに梅雨が来る、
夏が来て秋が訪れ稲を刈る、そして今年も終わる。
そんなことを幼い頃から繰り返してきた。
きっと、これからも、
あの子らが大きくなって、
この田をまかせられるようになっても、
毎年、この季節が一番いい、と思うのだろう。
それから、あの子らに子ができて、
その子らがはしゃぎまわっている姿をみながら、
やはり、この季節が一番いいと思うのだろう。
そうやって人生を終えていくことだろう。

この3つの夢の話は、ほとんど即興で書いたもので、記事を書く前に、決めていたことは「桃源郷」と「奈良時代頃の仏師」、「江戸時代の農夫」というイメージだけでした。

そんな中、思いつくまま文章を書いていったわけですが、今朝、布団の中で、半分寝ている状態でぼんやりとしていると、この3つの話はエネルギーを循環させるという意味だったということに気づきました。

トーラス構造と人体

よく人のエネルギーは身体を中心にトーラス状(ドーナツの表面のような曲面)にエネルギーが流れているといわれていますが、夢①の中で出てきた二人の女性は、からだの左右を表していて、二体の龍はその左右に流れるエネルギーなんだということに気付きました。

また滝壺というのは身体の中心、丹田のあたりから湧き上がるエネルギーのことであり、二人の女性が遊ぶことでエネルギーが湧き出すという意味であり、楽しみながらエネルギーを循環させる場所が「桃源郷」という意味だと解釈できたのです。

同様に夢③の二人の子供というのも「左右」という意味であり、二人が遊ぶという内容も夢①と同じ構造であり、「田」という場所が身体を意味しています。そして、毎年、田植えをし稲を刈るという行為や、目の前で遊んでいる子が大きくなってさらに子供ができるということも「循環」を意味していていて「田」という場所が生命の土台となっています。

夢②の「僕」は仏像を彫っていて、「仏像」は「桃源郷」や「田」と同じ意味で「身体」を意味していると同時に、理想の場所を意味しています。また完成間近の仏像は、エネルギーを循環させることで完成を得る、ということを意味していて人としての「存在」を意味している思いました。

そこで、この3つの夢から『聞いても聞こえない言葉を受け取る』ならば、「喜び」でエネルギーを循環させることができるようになると、人としての理想に近づけるという意味があったのではないかと思ったのです。

もちろん、このことは自分で勝手に書いた夢の話を自分なりに勝手に解釈しただけでしかありません。

しかし、「喜び」という感情エネルギーを心にも身体にも循環させていけるようになると、人生という「場」を完成させられるのではないかと思います。

いずれにせよ、何かに夢中になって「喜び」の気持ちを循環させていけるようになると、人としての可能性を広げていけるようになり、生きることそのものを楽しめるようになるのではないかと思います。

我を忘れるとエネルギーの循環が起こる

では、何かに夢中になって「喜び」を感じらえるようにするためには、どうすればいいかというと、「我を忘れる」という状態になればよかったりします。

そして、我を忘れて夢中になって何かをしているとき、「喜びのエネルギーの通りがよくなっていきます。

そこで「我」を忘れるために有効なのが身体を使うということです。特に丁寧さを要するようなことをすると、意識をそこに集中させなければならないので我を忘れることができるようになります。

この「我を忘れる」ということを別な表現にすると、心も身体も「今」におくということです。

たとえば、ネガティブに感じてしまうような感情のほとんどは「過去」の出来事に対する思いだったりしますが、そういった負の感情はエネルギーの通りを悪くするものです。

しかし、身体を使って夢中になって何かをすると、心も身体も「今」に集中できるようになるり、エネルギーの通りがよくなっていきます。

多くの人が、頭を切り替えるために運動を、頭を切り替えるために運動を利用します。ヨーガやフェルデンクライス法や太極拳は、人格を鍛え、リラクゼーションと成長につながる、驚くべき道具になります。競技出ないスポーツもまた、あなたをからだの内側へ戻し、左脳マインドから解放する大きな手段となります。自然の中を散策し、歌い、創造し、音楽を演奏し、芸術に没頭することにより、視野をたやすく現在の瞬間に戻すことになります。

これは、「奇跡の脳」という本からの引用ですが、負の感情は左脳のリフレインによって行われます。しかし、「今」に没頭できることをしていると、そういった負の感情もやがて感じなくなっていきます。

もちろん、身体全体を使わなくても、手先を使うことをすることでもいいし、日本の茶道や書道、弓道など「道」が付くことも自分を今に戻してくれます。

料理をすることも自分を「今」に置くことができるようになります。料理は様々なことを同時進行で行わなければならないため、必然的に意識を今に置くようになるものです。また、実際に料理したものを誰かに食べて貰って褒められると「嬉しい」気持ちになって「喜び」も大きくなります。

他にも「奇跡の脳」の引用に書かれているような「芸術」に関わることをすると、意識を「今」におくことができるようになります。

また、どんなことするにしても達成感を味わうことも大切であり、達成感から生まれる「喜び」は、負の感情を一気に軽減させるため、「負の感情の詰まり」を取り除いてくれたりします。

「喜び」がアートになる時代

私たちが、今後、「喜び」で生命エネルギーを循環させていけるようになると、生活そのものが創造的になって芸術になっていくのではないかと思います。

これまでの人類の長い歴史は「食べる」ために生きるということが主だったかもしれません。しかし、これからは「喜び」の感情を循環させて生命エネルギーを大きくしていく時代になるのではないかと思います。

「喜び」の感情は「美しさ」に繋がっているため、自分の内側から湧き上がる「喜び」の感情を表現するだけで芸術になると思いえます。

そのためにも「喜び」の感情を日々循環させ、自分の中の可能性を拡大させて生きていけるようになると、生きることそのものを楽しめるようになることでしょう。

「喜び」を表現して生きると、自分だけではなくこの世界も変えることができるようになると思います。







いつもサポートありがとうございます。感謝ですー😆👍💓