10.「幸せ」は冷静と情熱の間に
昨日、「情熱という強度のある欲求」を持っていると幸せになれるということを書いた。
しかし、情熱はあまり熱が上がりすぎると、冷静さを失わせる可能性がある。
だから、ほとばしる欲求を冷静に見つめる視点が必要だったりする。
例えば、過度の情熱は盲目さを生んでしまうことになり、その一心さゆえに、他者に厳しくしてしまうことがある。
情熱を持って夢中になってやっているからこそ、自分が正しいという考えを持ってしまう。
こういった正義感は危険だ。
自分の思いと他者との思いには必ず温度差があるものだ。
同じことに情熱を向けている人同士でさえ温度差は存在する。
だから、何かに夢中になることは大切だけけれど、その夢中さを正当化していないか客観視する冷静さが必要だったりする。
人は油断をするとエゴが出てしまうものだ。
そういったエゴに気づく冷静さが欠かせなかったりする。
また情熱が強すぎるあまり、ついつい結果ばかりを意識してしまい行動が空回りしてしまうこともある。
何かに情熱を向けることと、結果を出そうとすることは微妙に意味が異なる。
いい結果が出ることは、もちろん喜びであるけれど、結果に執着しすぎてしまうと「なぜそれをするのか」という目的の部分での履き違いが生まれてしまう。
例えば、美味しい料理を提供することと、料理で賞を受賞するのとでは意味が異なる。
美味しい料理を作るという目的は一緒だが、目の前のお客さんに向けて料理を作るのと、何かの大会で審査員に向けた料理を作るのでは、目的が異なるのだ。
もちろん賞を取ることに情熱を向けることが目的ならば問題ない。
ただ情熱を持ちすぎることで、目的と結果という出発点と着地点が食い違ってしまっては、情熱が空回りすることになる。
例えば、美味しいという評判を得ることで何かの賞をとるのならそれが順当な流れなのだ。
賞はあくまでも結果であり、目的の本質ではない。
賞を狙って頑張っていても、賞が取れない状況が続くといつしか苦しくなってしまい、やがて情熱が消えてしっまったりする。
だからこそ、今ここにある情熱をどこに向けているのかと考える、冷静さが必要になる。
最後にもうひとつ。
強く情熱を持ちすぎ過ぎてしまうと、何かを達成したときに燃え尽きてしまうことがある。
このため意図して力を抜くという冷静さも欠かせなかったりする。
燃え尽き症候群は、頑張りすぎた反動で生まれる。
夢中になっているときは気が付かないけれど、情熱を傾けることで身体にかなりの負担をかけていたりする。
無意識に掛けた負担の反動が、燃え尽き症候群の原因といってもいい。
だから、いい意味で力を抜くことも大切だったりする。
人はリラックスしているときほど、いい結果を出せるものでもある。
つまり、情熱を傾け夢中になることの中に、力を抜くという要素が欠かせないのだ。
ゴリゴリで攻めるのではなく、しなやかに攻める。
しなやかさは、冷静さがもたらす。
自分を客観的に見る冷静さが軽さを生み出す。
何かに夢中になっているときほど、情熱を感じながらもその熱を冷やしていくような「冷静さ」が欠かせない。
いずれにせよ、何をするにも楽しんですることが大切なのだ。
楽しんでいるとリラックスできるものである。
自分の正当性を主張したり、結果ばかりを気にしていては楽しめない。
気楽に楽しむことができれば、燃え尽きることもないだろう。
「幸せ」はどんなときでも中間に存在する。
どちらかの極に偏り過ぎると、不思議と苦しさが生れるものである。
中庸という言葉があるけれど、調和が取れてこそ上手くいくものである。
幸せとは、冷静と情熱の間に存在する。
幸せは静かに燃えるものなのだ。
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