見出し画像

ドストエフスキーのプーシキン論―『作家の日記』より⑯―

『作家の日記』は1877年12月号をもっていったん休刊し、作家は1878年から最後の大作『カラマーゾフの兄弟』に集中することとなる。以後、『日記』の刊行は1880年に一度だけ発行された特別号と1881年1月の復刊第一号との二号分を残すのみである。

前回の投稿(『ネクラーソフの死』―『作家の日記より』⑮―)の末尾に、筆者は上のように記した。
今回は残された二号のうちのひとつ、休刊中の1880年8月に刊行された特別号(臨時号)をとりあげる。

臨時号が刊行される契機となったのは、同年6月にモスクワで開催されたプーシキン記念祭だ。
プーシキン(1799-1837)は、ロシア近代文学を創始したとされる詩人、作家である。
『エヴゲーニー・オネーギン』『スペードの女王』『大尉の娘』等の代表作は、日本人にもなじみ深い。

1880年の祝典では、モスクワの中心部(現在のプーシキン広場)に建設されたプーシキンの銅像の除幕式を始めとして、講演や劇の上演等の一連の行事が行われたようである。
ドストエフスキーは、ツルゲーネフらと並んで、当時のロシア文壇を代表する一人として登壇し、プーシキンを記念する講演を行った。
訳者の米川正夫によれば、この講演が「全会衆というより全ロシヤ知識階級の血をわかしたので、その内容を完全に知りたいという読書階級の要望にこたえるため」、同講演を再録した『作家の日記』の臨時号が刊行される運びとなった。

プーシキンの意義に関する四カ条

同臨時号は、三章構成であり、第一章が「序文」というにはやや長めの作家自身による講演の解説、第二章が講演全文、さらに第三章として同講演に批判的な立場からなされたある論評に対するかなり激烈な反論が収められた。

第一章では、講演の要点として、「ロシヤに対するプーシキンの意義」を四カ条に整理している。この作家自身による要約が、講演の概要を把握する上で最も便利だと思われるので、以下に四カ条の中心となる文章をそれぞれ引用する。

一、プーシキンは、その深い洞察力をもった天才的な知性と、純ロシヤ的な感情によって、社会の地盤から歴史的にもぎ離され、民衆を高みから見おろしているわがインテリゲンチヤの、最もおもなる病的現象を発見し、指摘したところの第一人者である。(岩波文庫版『作家の日記』(六)、一八八〇年八月、第一章。米川正夫訳、以下同じ。)
二、彼は直接、ロシヤ精神から生まれ、民衆の真理の中に、われわれの地盤の中に現われ、みずから発見したロシヤ的美の芸術的典型を、われわれに与えた最初の人である。
私がプーシキンの意義について指摘しようと思った第三の点は、彼をのぞいてはどこのいかなる作家にも見いだすことのできない特殊な芸術的天才の一面、――すなわち全世界的共鳴の才能、他国の天才に完全に同化する才能である。
四、この才能は、完全にロシヤ的な、国民的な才能であって、プーシキンはただそれをわが全民衆と共有しているのであり、完全無欠な芸術家として、この才能の最も完全な表現者だからである。

このように四カ条を抜き出してみると、『作家の日記』の読者は、おのずと「あること」に思い至るのではないだろうか?

それは、すなわち、ドストエフスキーがプーシキンの意義として挙げたこれらの点は、いずれも、ドストエフスキー自身が、ロシアの知識階級について、ロシアの民衆について、あるいはロシアの国民性について、『日記』の中で繰り返し述べてきた思想とそのまま重なるものだ、ということである。

順を追って見て行こう。

ロシアの知識階級の病理

一、プーシキンは、その深い洞察力をもった天才的な知性と、純ロシヤ的な感情によって、社会の地盤から歴史的にもぎ離され、民衆を高みから見おろしているわがインテリゲンチヤの、最もおもなる病的現象を発見し、指摘したところの第一人者である。

第一に、「祖国の地盤から切り離されたロシアの知識階級の病理」が指摘される。

ピョートル大帝の改革以来、ロシアの上層部は旺盛にヨーロッパに学び、ヨーロッパ文明の摂取に努めた結果、歴史と大地に根差した民衆の精神から遊離してしまったという議論は、『日記』において度々繰り返されてきた。
このような祖国や民衆との決裂のひとつの表れが、例えば、知識階級によるロシア語の軽視であるとされた。

ドストエフスキーは、知識階級と民衆という「二つの層」が再び結合するために、まずロシアの知識階級が民衆の前に屈して、民衆の真理を自分たちの真理と認めなければならないとし、一方で民衆の側も、知識階級がピョートル大帝以後の百五十年を通じて獲得し、拡大してきた視野を共有すべきである、と唱えた。
そして、そのような結合こそが、ロシアの全世界的使命、すなわちロシアの「宝である正教」を全人類への奉仕に適用し、人類を「最後的一致団結」に導くという使命の実現に至る道であることが示唆された。(ドストエフスキーのメシア思想―『作家の日記』より⑤―

臨時号の講演要約においても、ドストエフスキーは次のように述べている。

彼(プーシキン)はこの(インテリゲンチヤの)病気が致命的なものでなく、もしも民衆の真理と結合するならば、ロシヤの社会は全治して、更生し、復活することができるという、偉大なる希望を与えたのである。

ロシアの民衆の真理と美

二、彼は直接、ロシヤ精神から生まれ、民衆の真理の中に、われわれの地盤の中に現われ、みずから発見したロシヤ的美の芸術的典型を、われわれに与えた最初の人である。

二つ目は、ロシアの民衆の中に完全に保持された真理と美についての指摘である。

ドストエフスキーの神秘的とも言える民衆愛、民衆信仰については、ここまでの一連の投稿の中で、すでに何度も言及してきた。
不幸な流刑の数年間に経験した民衆との「同胞としての結合」は、彼の思想上の「転向」さえもたらしたと作家自身が振り返っている。

ドストエフスキーは、ロシアの民衆を論じる場合には民衆の中から「美を拾い出す目」がなければならないと論じる。そして、その際には、民衆の現在の姿や行いに基準を置くのではなく、彼らが「かくありたいと望んでいるところのもの」、彼らが「常に憧憬している偉大にして神聖なる事物」に準拠しなければならないと主張した。(ドストエフスキーの民衆論―『作家の日記』より③―

民衆の「真理」については、上で述べたように、ドストエフスキーは「知識階級は民衆の真理の前に跪くべきである」という信念を、繰り返し強調している。
そして、ドストエフスキーが自ら所属すると宣言した「スラヴ主義者」のグループが信ずるところによれば、ロシアが全人類に向って、その「世界同胞的な結合」のために発するであろう「新しき言葉」の根源は、「主として偉大なるロシヤ民衆の精神に蔵されている」のだとされる。(ドストエフスキーの『アンナ・カレーニナ』批判―『作家の日記』より⑬―

この第二条について、臨時号の要約には次のようにも記される。

「民衆の精神を信じ、ただそれのみに救済を期待せよ、しからば救われん」と。プーシキンの精神に徹すると、こうした結論をしないわけにはゆかないのである。

他国の天才に完全に同化する才能

私がプーシキンの意義について指摘しようと思った第三の点は、彼をのぞいてはどこのいかなる作家にも見いだすことのできない特殊な芸術的天才の一面、――すなわち全世界的共鳴の才能、他国の天才に完全に同化する才能である。

世界で唯一プーシキンにのみ認められる天才とドストエフスキーが指摘したこの同化・共鳴の才能とは、「完全に他の国民性に融合し、変態する」ことができたというプーシキンの特性を指し示すものだ。

プーシキンが、「ファウスト」や「ドン・ジュアン」などに題材をとり、異国を舞台として創作した多くの詩作品において、作者の筆は異国人によるものとは到底思えないほど各国の国民性に完全に融合している、とドストエフスキーは述べる。
ドストエフスキーによれば、そのような才能は、シェークスピア、セルバンテス、シルレルといった巨大な天才にすら見ることのできないものであって、例えば、シェークスピアが描いたイタリア人は、ほとんど全部がイギリス人であると指摘している。

プーシキンの才能は別格であるとしても、ドストエフスキーが、このような共鳴性・同化性をロシアの国民に特有の才能と見ていたことは間違いない。
例えば、ロシア人はディケンズをロシア語訳で読んで、ほとんどイギリス人と同じように理解するのに対して、ヨーロッパ人はプーシキンもゴーゴリも全く理解できないに違いない、とドストエフスキーは断言する。(ドストエフスキーの絵画論―『作家の日記』より①―

ディケンズの例に限らず、ヨーロッパの詩人、思想家の著作はことごとくロシア語に翻訳しうるのに対して、ロシアの文学作品のきわめて多くがヨーロッパ語に訳しきれずにいることは厳然たる事実である、とドストエフスキーは指摘している。(ドストエフスキーの「ロシア語のすすめ」―『作家の日記』より⑥―

このようなロシア人の国民性は、直接、次の第四条に関わるものである。

ロシア人の国民性としての共鳴性・同化性

四、この才能は、完全にロシヤ的な、国民的な才能であって、プーシキンはただそれをわが全民衆と共有しているのであり、完全無欠な芸術家として、この才能の最も完全な表現者だからである。

実は、この第四条の一文は、文章の途中から中途半端に引用したものであって、次のような前半部分から続いている。

……私は他国民の天才に同化しうるプーシキンの天才力を強調するにあたって、シェークスピアやシルレルの世界的価値を侵犯するつもりはなく、ただわれわれにとって偉大な予言的指示を、この能力の中に闡明せんめいしたいと思ったに過ぎない。なぜならば……

すなわち、プーシキンがロシアの国民と共有している共鳴性・同化性の才能のうちに、ドストエフスキーは「偉大な予言的な」意味を読みとっている、ということらしい。

「偉大な予言的指示」とは何だろうか?

講演本文を参照すると、プーシキンの「世界的共鳴の天才」は、ロシアの国民的な力の表現であり、民衆の力に触れることで、プーシキンはその偉大なる未来の使命を予感したのだ、と述べられている。

以下、講演本文から、重要と思われる部分を数か所抜き書きする。

……しかり、ロシヤ人の使命は、疑いもなく全ヨーロッパ的であり、全世界的である。真のロシヤ人になること、完全にロシヤ人になりきることは(この点をはっきり銘記していただきたい)、とりもなおさず、すべての人々の同胞となることである。<中略> 真のロシア人にとってはヨーロッパも、アリアン人種全体の運命も、ロシヤそのもののごとく、わが生みの国土の運命のごとく尊いものである。なぜなら、われらの運命は全世界性だからである。……」(岩波文庫版『作家の日記』(六)、一八八〇年八月、第二章。以下同じ。)
……私はかたく信ずるが、後日われわれは、いや、もちろんわれわれではなく未来のロシヤ人は、すべて一人のこらず悟るであろう。――すなわち、真のロシヤ人になることは、とりもなおさず、ヨーロッパの矛盾に最後的な和解をもたらし、一切を結合する全人間的なおのれの魂の中に、ヨーロッパの悩みのはけ口をさし示し、同胞的な愛をもってすべての同胞をその中に収め入れ、ついにはおそらくすべての民族を、キリストの福音にしめされた掟によって完全に結合さすに足る、偉大なる一般調和の決定的な言葉を発するという、かかる目的に向って努力することを意味するのである!……
……少なくともわれわれはすでにプーシキンと、その天才の全世界性・全人類性を指示することができるのだ。事実、彼は他国の天才をさながら肉親のもののごとく、自分の魂に収め入れることができたではないか。……

これらの議論は、ロシアこそが、「世界同胞的な結合」のために「新しき言葉」を発し、全人類を「最後的一致団結」へ導くという全世界的使命を担うものである、とするドストエフスキー自身の思想の直接的な表現にほかならない。

講演の反響

冒頭に記したとおり、訳者によれば、このドストエフスキーの講演は「全ロシヤ知識階級の血をわかす」ほどの反響をもたらしたとされる。

これについては、講演会場での具体的な状況をドストエフスキー自身が妻のアンナに詳しく伝えた手紙が残っており、小林秀雄が『ドストエフスキイの生活』の中で紹介しているので、以下に引用する。
若干長くなるが、非常に興味深い文面なので、ぜひ読んでほしい。

「おしまいに僕が人類の世界的統一を叫んだ時、満場の聴衆は皆もうヒステリイのようであった。演説が終った時の昂奮こうふんした人々の絶叫をどう話していいか分らない。知らない聴衆同士が相抱いてすすり泣き、お互にこれからよい人間に成ろう、人々を憎まず愛する事にしよう、と誓うのであった。席などはもう滅茶々々で、皆どっと演壇に押し寄せた。貴婦人も学生も役人も学生も(ドストエフスキイは余程逆上して書いている)みんな僕を抱いて接吻せつぷんした、みんな、文字どおりみんなうれし泣きに泣いていた。三十分も彼等は僕の名を呼びハンケチを振り続けた。二人の老人が突然私を引き止めて言った。『我々は二十年間喧嘩けんかしていてお互に物も言わずに来たが、今抱き合って和解したところです。我々を仲直りさせて呉れたのは貴方あなただ。貴方は我々の聖人です、予言者です』。すると予言者、予言者と言う叫びが群集の中から起った。<中略> いよいよはげしくなる抱擁と啜り泣き。講演会は一時停止となった。僕は楽屋に逃げ込んだが、人々は後を追って雪崩なだれ込み――特に婦人達だが――僕の手に接吻する騒ぎでひどい目に会った。学生の一団がけ込んで来たが、その中の一人はヒステリイの様に泣き乍ら床の上に倒れるとそのまま気絶してしまった。勝利だよ、完全な勝利だよ」(一八八〇年、六月八日、モスクヴァより妻宛)(小林秀雄『ドストエフスキイの生活』新潮文庫)

途中端折った部分には、ツルゲーネフら文壇の重鎮たちの熱狂ぶりが記されている。
一言で言えば、すさまじい熱烈な反響を呼び起こしたわけだ。小林秀雄も「殆ど信じがたい場面だが、彼の描写に少しの誇張もない。事実、騒ぎはこれよりも甚だしかったのである」と書いているほどだ。

このような聴衆の熱狂が真実であったとすれば、それが意味するものは、おそらくドストエフスキーの講演の内容それ自体にもまして、彼の口調や身振り手振り等の語り口、そして言葉に込められた熱量が、聴衆を激しく揺さぶり、その愛国心に強烈に訴えかけた、ということではないだろうか。

小林秀雄も、上の引用に続けて、ドストエフスキーの講演内容をごく短く要約したうえで、次のように記している。

……演説の論旨は要約すればそういう事になる。ただ人々を動かしたものは要約ではない。彼の肺腑はいふからほとばしった確信の叫びである。泣き乍ら彼の手を握ったツルゲネフは、後で、あの時はドストエフスキイの催眠術のような言葉に正気を失ってしまったが、彼の感情と自分の感情とは全く相反するものだと述懐した。演説の燃え上る様な言葉が一度新聞の活字になると、恐らく多くの人々は夢から覚めたような気がしたのである。……(同上)

どうやら、ドストエフスキーは並外れて非凡な演説の達人だったようだ。

ドストエフスキーの講演の意味

最後に話を元に戻そう。

ドストエフスキーがその晩年に行ったプーシキンに関する講演は、まさにロシア文学史上の一大事件となった。

この投稿の主旨は、「ロシアに対するプーシキンの意義」をテーマとしたその講演の内容が、それまで『作家の日記』をとおして一貫して主張されてきたドストエフスキー自身の思想とそのまま重なるものであった、ということだ。

そうだとすれば、ドストエフスキーのプーシキン観は、単に自身の思想にひき寄せてプーシキンを解釈した結果に過ぎなかったのだろうか、あるいは、プーシキンは彼の思想の核心部分を形成するに至る源流そのものであったと信じるべきだろうか?

おそらく、真実は前者と後者の中間にあるのだろう。あるいは、前者も後者もともに真実であるというべきかもしれない。

一見すると素朴で明快に感じられるプーシキンの世界に比べると、ドストエフスキーの作品世界は、人間の心理そのままに、複雑で、不条理で、振幅が大きく、矛盾に満ちたものだ。
しかし、そのような広大な世界を構築したドストエフスキーの思想の根底には、まぎれもなく、プーシキンの存在が極めて重要ないしずえとして横たわっている。

われわれは、そのことをドストエフスキーの講演から読み取るべきなのだろう。

※画像は、ロシアの画家オレスト・キプレンスキーの「アレクサンドル・プーシキンの肖像(部分)」(1827)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?