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ドストエフスキーの『アンナ・カレーニナ』批判―『作家の日記』より⑬―

再び『アンナ・カレーニナ』について

『作家の日記』1877年7月・8月号において、ドストエフスキーは、全三章のうちの第二章及び第三章をトルストイの『アンナ・カレーニナ』に対する批評に費やしている。

ドストエフスキーは、既に『日記』1877年2月号で、未だ連載途上だったこの長編小説について熱を込めて論じており、それについては、以前の投稿「ドストエフスキーと『アンナ・カレーニナ』」でとりあげた。

その後の同年4月、『アンナ・カレーニナ』はついに完成するのだが、その最後の部分である第八編は、それまでこの長編を連載していた雑誌『ロシア報知』から掲載を拒否されたため、単行本として刊行された。
ドストエフスキーは、『日記』1877年5月・6月号を発行した後に新聞広告でこれを知り、早速この本を購入して読んだと書いている。

そして、ドストエフスキーは、長編全編を読了したうえで、『日記』7月・8月号で改めてこの作品を俎上に載せるのだ。

最大級の賛辞

ひとことで言えば、ドストエフスキーは、この長編小説に最大級の賛辞を贈っている。
その賛辞において、とりわけ「ドストエフスキーらしい」と思われるのは、これを、「ロシアの天才が生み出したヨーロッパに誇りうる文学作品」として捉えている点である。

……『アンナ・カレーニナ』は、ちょうどいい時期に現れた芸術上の完璧(かんぺき)であって、現代ヨーロッパの文学中、なにひとつこれに比肩することのできないような作品である。第二に、これはその思想からいって、それこそロシヤ的なあるものである、われわれ自身の血肉に通ずるなにものかである。これは実に、ヨーロッパ的世界に対するわれわれの独自性、まぎれもなくわれわれの国民的な「新しい言葉」、少なくともその根源となるものなのである、――その新しい言葉は、ヨーロッパではまったく聞くことのできないものであるが、そのかぎりなき慢心にもかかわらず、彼らにとってはこのうえもなく必要なものなのである。(岩波文庫版『作家の日記』(五)、一八七七年七月・八月、第二章。米川正夫訳、以下同じ)

ドストエフスキーがここで言う「われわれの国民的な「新しい言葉」」とは、『アンナ・カレーニナ』の全編を貫く「人間の罪悪性と犯罪性に対する見解」を意味している。

……悪は人類の中に、社会主義の医者どもが考えているよりもはるかに深く潜んでいて、いかなる社会組織にあっても、悪を避けることはできず、人間の魂はどこまでも同じままであり、アブノーマルと罪悪は人間の魂から直接発生するものであり、かくして人間精神の法則はいまだにまったく不明であって、科学にとっても未知のままで、あまりにも茫漠(ぼうばく)として神秘的であるがゆえに、まだ医者が存在し得ないのはもちろん、最後的な司法官すら存在することができず、唯一の裁き手は、「復讐はわれにあり、われこれを与えん」と言った者よりほかにない、こういった意味が、一目瞭然、まざまざと感じられる。ただこの最高の存在にのみ、この世の秘密全部と人間の終局の運命が知られているのである。……(同上。強調部分は本文では傍点、以下同じ。)

「復讐はわれにあり、われこれを与えん」という語句は、『アンナ・カレーニナ』全編の冒頭にエピグラムとして掲げられているものであり、その出典は、新約聖書の『ローマ人への手紙』である。「われ」とは「神」であり、すなわち、悪徳を裁き、これに報いる役割を果たしうる者は唯一「神」のみである、ということを意味している。

引用文中の「悪」とは、まさに主人公のアンナが陥った悪徳であり、全存在を悪によって束縛された「人間の精神が堕ちて行く陰惨な、恐ろしい光景」、「悪の神秘な宿命的不可避性」がアンナの悲劇的な運命に託して描かれている、というのがドストエフスキーの解釈であるようだ。

これらの見解に対する筆者の個人的な意見はともあれ、ここで強調したいのは、ドストエフスキーが、作品に意図されたこのような思想をロシアの優れた独自性であると評価し、この作品が書かれたことが、そうした独自性をヨーロッパに対して証明するものであると主張している点である。

 もしわれわれにかくまで力強い思想と、完成みをそなえた文学作品があるとすれば、後日いつか自分自身の科学や、経済的・社会的問題に関する自分自身の解決も、あり得ないというはずはないではないか、ヨーロッパがわれわれの独立性や、自分自身の言葉を認めないというはずはないではないか、――これが今おのずと生じてくる疑問なのである。……(同上)

リョーヴィンの「信仰」の否定

このように、ドストエフスキーは、『アンナ・カレーニナ』が、ヨーロッパ文学にも比肩するものがないほどの力強い思想と高い完成度を備えた文学作品であることをきっぱりと宣言する。
それほどまでに高く称揚しつつ、その上で、作品上のある一点をめぐって、容赦のない痛烈な批判を展開するのである。

ドストエフスキーは書いている。

 私が自分の感想を表明した今となったら、これほどの作家が、ロシヤの偉大なる一般的功業から離れて孤立した事実と、単行本として発行されたその不幸な第八篇において、彼が民衆に浴びせた逆説的な虚偽とが、私にいかなる印象を与えたかを察してもらえると思う。彼は無造作に、民衆から最も貴重なものを奪い、その主要なる人生の意義を剥奪(はくだつ)しているのである。……(同上)

ドストエフスキーがこのように書くのは、ある登場人物の言動を特に問題としているのだ。
その人物とは、『アンナ・カレーニナ』のもう一人の主人公であり、その人物造形に作者のトルストイ自身が投影されているとされる若い地主貴族のリョーヴィン(『作家の日記』の表記では「レーヴィン」)である。

上記の拙稿「ドストエフスキーと『アンナ・カレーニナ』」でもとりあげたように、リョーヴィンは、第八編において重要な転機を経験する。領地の百姓の何気ない言葉から啓示を受け、神への信仰を取り戻すのだ。
だが、ドストエフスキーはリョーヴィンの「信仰」を決して認めようとしない。

……しかし、これがはたして信仰だろうか? 彼は自分でもこの疑問を喜ばしげに発している。「はたして、これが信仰だろうか?」と。まだそれは信仰でない、と想像しなければならない。のみならず、レーヴィンのような人間には、最後的な信仰がありうるかどうかおぼつかない。<中略> 私が言いたいのは、こうしたレーヴィンのような人たちは、いくら民衆とともに、あるいは民衆のかたわらに暮らしたところで、完全な民衆になりきれないばかりでなく、多くの点において、彼らを理解することは、いつになってもまったく不可能なのである。単なるうぬぼれや、意志の力ばかりでは不十分である。ましてその意志が、ただなりたくなったからすぐ民衆になる、といったような気まぐれであってみれば、なおさらだめにきまっている。……(同上)

リョーヴィンのいったい何が問題なのか?

スラヴ民族運動論争

ドストエフスキーは、半年前の『日記』1877年2月号で『アンナ・カレーニナ』を論じた際に、もっぱら、ある一場面(百姓屋敷の納屋の乾草の上で交わされた論争)を題材として議論を展開した。
実は、今回も、ドストエフスキーの批判は、最終編(第八編)で描写されている、ある一場面に集中するのだ。

その一場面とは、上で述べたリョーヴィンにとっての重要な転機である「信仰の回復」の直後に描写される情景である。

屋敷に戻ったリョーヴィンは来客を知らされる。異父兄で著名な作家であるコズヌイシェフと古い友人の大学教授カタワーソフである。
早速、彼らの間である議論が始まる。そのテーマは、当時(正確には第八編が発表された年の前年である1876年)のロシアにおける国民的な運動、すなわち、オスマントルコの支配下にあったスラヴ系住民に対する非人道的な圧政に抗議してトルコに宣戦した同じくスラヴ系のセルビアとモンテネグロを支援するために、義勇兵が志願され、義援金が集められた幅広いスラヴ民族運動である。

論争は、この民族的運動を擁護し、讃える側のコズヌイシェフ及びカタワーソフと、これに懐疑的な見解を抱くリョーヴィン及びその義父の老公爵との間でたたかわされる。

コズヌイシェフは、ロシアの全土から馳せ集まり、「自分の貧しい義捐金を持って来たり、あるいは自分で出征したり」するのは、「正しき事業に奉仕するため」という民衆全体の明確な意思表示である、と主張する。

これに対してリョーヴィンは、何のための支援か分かっている百姓は千人に一人くらいに過ぎず、残りの八千万は「何について自己の意志を表示しなければならぬのか、その観念すら持って」いないので、これを「民衆の意志」であると言ういかなる権利もわれわれにはない、さらに、集団的な熱狂の中で、喜んで出征していくような「あばれ者」はいつの世にもいる、と反駁する。

当然ながら、ドストエフスキー自身は、コズヌイシェフの側についている。

ドストエフスキーは、「スラヴの同胞」の救済を目的とした民衆運動が十分に自覚的に行われたことについて、えんえんと自説を展開するのだが、ここでは、簡潔に、その議論の一部のみを引用するにとどめたい。

……わが民衆はほとんど全部、でなければ圧倒的な大多数が、マホメットの迫害を受けている正教のキリスト教徒たちが、苦しい辛い目を見ていることや、エルサレムとかアトスとかいうこのうえもない神聖な土地までが、異教徒の手に属していることを、ちゃんと聞いて知っているのである。……(同上、第三章)
……少なくとも、多数の義勇兵とそれを見送った民衆は、良き動機から行動したのであり、良き事をなそうと考えていたのである。(この点には同意しないわけにはゆかない!)してみると、いずれにしても、彼らは民衆の良き代表者であったのだ。もちろん「文化」に輝いてこそはいないけれども、決して社会から見捨てられた、やくざなあばれ者でもなければ、あぶれ者でもない。それどころか、ことによったら、民衆の中でもすぐれた人々であったかもしれない。これくらいのことは、レーヴィンもさとることができたはずである。……(同上)

「スラヴ民族の迫害」に対する感情の欠如

ドストエフスキーにとって、とくに看過できなかったのは、リョーヴィンが、自分は「スラヴ民族の苦悶に対する同情」という直接的な感情を持たないと表明し、しかも「民衆の一人」として感じないと断言した点であった。

論争の続きにおいて、コズヌイシェフとリョーヴィンとの間で次のようなやり取りが交わされる。

コズヌイシェフ: 正教を奉ずる同胞であるスラヴ民族が殺されているとすれば、義憤に駆られて立ち上がるのは、ただ人間的・キリスト教徒的な感情の表現があるばかりだ。往来を歩いていて、酔っ払いが女か子供をなぐっているのを見たら、君は、暴漢におどりかかって行って侮辱されている者を守ってやるはずではないか。

リョーヴィン: もし僕がそのような暴行を見たら自分の感情に身をまかせただろう。しかし、スラヴ民族の圧迫に対しては、そのような直接の感情はないし、あり得ない。

コズヌイシェフ: 君にはないかもしれないがほかの者にはあるのだ。民衆は同胞の苦しみを聞いて、声をあげているのだ。

リョーヴィン: そうかもしれないが僕には見えない。僕自身が民衆だが、僕はそれを感じない。

このようなリョーヴィンの口ぶりは信じがたいとでも言うように、ドストエフスキーは、前年以来のトルコ人によるスラヴ民族迫害という「周知の事実」について、訴えかけるように綴っている。

……人間の殺戮が幾千、幾万となく行われているのである。拷問の方式の凝りに凝っていることは、かつてわれわれがその例を聞かないほどのものである。子供の見ている目の前で親の生き皮をはいだり、母親の眼前で、幼児を宙へほうりあげて、銃剣で受け留めたり、婦女を強姦して、その凌辱(りょうじょく)の瞬間に短剣で刺し殺したりするのだが、何より恐るべきことは、幼児を責めさいなんで、彼らを凌辱することである。ところが、レーヴィンは、何にも(!)感じないと言うのだ。そして、スラヴ民族の迫害に対する直接の感情は、ありもしないし、またあり得ないと、意地になって断言するのだ、……(同上)

ドストエフスキーは、こうした事実を全て知りうる立場にありながら、ただ「瞑想にふけりながらたたずんでいる」リョーヴィンを皮肉るように、以下の文章で『アンナ・カレーニナ』批判を締めくくっている。

 「キチイ(リョーヴィンの妻)は、今日たいへん食事が進んだ。赤ん坊には湯を使わせてやったが、もう僕の顔がわかるようになった。だから、別の半球でなにがおこっていようともそれが僕になんの関係がある。スラヴ民族の迫害に対して、直接の感情はありもしないし、またあり得ないのだ。なぜなら、僕はなに一つ感じないから。」
 これで、レーヴィンは、自分の叙事詩を終わったのだろうか? はたして作者は、彼を誠実で、潔白な人間として、われわれに示そうとしているのだろうか?『アンナ・カレーニナ』の作者のごとき人物は、社会の教師であり、われわれの教師であって、われわれはただその弟子にすぎない。それなのに、彼らはなんということをわれわれに教えるのだろう!(同上)

トルストイの真の意図は?

ドストエフスキーは、『アンナ・カレーニナ』に対する賞賛と不満とで真っ二つに引き裂かれているかのようだ。

「スラヴ民族の迫害に対して直接的な感情は持たない」などというドストエフスキーを激昂させるような文句を、なぜトルストイはリョーヴィンに言わせたのだろうか?

リョーヴィンは、「戦争というものは、動物的な、残酷な、ひどいものであるから、それに責任を負えるものは国家(政府)のみであって、個人が勝手に参加すべきものではない」という趣旨の意見も述べている。
戦争という「悪」には、いかなる事情があろうと、個人として積極的に加担すべきでないという立場が、リョーヴィンにとっての直観的な行動規範であったのかもしれない。

あるいは、リョーヴィンの言葉には、後に「トルストイ主義」と呼ばれるトルストイの社会思想の一側面である無抵抗・非暴力主義がすでに反映されていると見るべきかもしれない。

あるいは、単に、リョーヴィンが「弱点」と自覚する自身の性格、ついつい議論に熱くなったり、不必要に自分の思想を表明したりする悪癖の「克服しがたさ」が、コミカルに描かれただけであったのかもしれない。

トルストイの真の意図について、残念ながら、ここではそれら以上に明確なことは何も言うことができない。

いずれにしても、ドストエフスキーにとっては、作品中で最も肯定的な人物であるべきリョーヴィンによるこれらの不用意な「言葉」は、スラヴ主義者としてのドストエフスキー自身の信念の否定であるのみならず、ドストエフスキーが何よりも重んじたロシアの民衆の偽りのない純粋な心情に対する許し難い冒とくにほかならなかったのだろう。

スラヴ主義者ドストエフスキーの信条告白

ついでながら、ドストエフスキーは、今回とりあげた文章の中で、スラヴ主義者を三つの類型に分けて、それぞれ興味深い定義を行っている。

第一類型のスラヴ主義者にとっては、「スラヴ主義はただクワスと大根でしかない。」として、「ベリンスキイは事実、スラヴ主義の解釈において、それよりさきに進まなかった。」と述べる。

次に、スラヴ主義者の大多数を占める第二類型の人びとにとっては、スラヴ主義は「ロシヤを最高盟主とする全スラヴ民族の解放と、合同を目ざす運動」であると定義づける。

そして、自身が属する第三類型について、次のように述べる。

……最後に、第三の人々にとっては、スラヴ主義は、ロシヤを盟主とするスラヴ民族の結合という以外に、統一されたスラヴ民族の頭に立つわが偉大なるロシヤが、全世界に向って、全ヨーロッパ人類に向って、彼らの文明に向って、おのれの新しくして健全な、前代未聞の言葉を発するであろうと信じているすべての人々の、精神的同盟を意味するのである。この新しき言葉はまぎれもなく、全人類の世界同胞的な新しい結合のために発せられるのであって、その根源はスラヴ民族の天才、というより、主として偉大なるロシヤ民衆の精神に蔵されているのである。ロシヤ民衆はかくも長い間苦しんで、長い世紀の間沈黙の運命をになわされていたが、しかし常に西ヨーロッパ文明の苦渋な、最も宿命的な疑惑の数々を、将来闡明(せんめい)し、解決すべき偉大なる力を秘めていたのである。かく確信し、信仰している人々の部類に、すなわち私は属しているのだ。(同上、第二章)

いつもながらの「ドストエフスキー節」であるとしても、スラヴ主義者としての自身の信念・信条を、なんら遠慮も迷いもなく、真っ直ぐに告白したものとして、貴重な証言と言えるのではないだろうか。

※画像は、ロシアの画家イリヤ・レーピンの「畑を耕すレフ・トルストイ」(1887)

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