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ネクラーソフの死―『作家の日記』より⑮―

奇妙な追悼文

『作家の日記』1877年12月号には、詩人のネクラーソフを追悼する文章が掲載されている。

N・A・ネクラーソフ(1821-77)は、19世紀ロシアを代表する詩人であり、農奴解放前後の時期の農民の悲惨な境遇をしばしば題材としたことから、「民衆の苦しみの歌い手」として知られる(中村喜和ほか編『ロシア文学案内』朝日出版社, 1977)。

最初に断わっておくと、私は、ネクラーソフの詩をほとんど読んだことがない。原典はもちろん、数点出版されている邦訳詩集さえも手に取ったことがない。
大学の授業で読んだロシアの代表的な詩作品の中に、おそらく一篇か二篇、ネクラーソフの詩もまじっていたと思うが、その題名すらも覚えていない。
もともと私は詩を味わう感受性が貧弱な人間で、ロシア文学に対しても、興味はもっぱら「詩」より「散文」に向いていた。そんな私の記憶にも、ネクラーソフの名前は、帝政ロシアの偉大な詩人のひとりとして刻み付けられている。

ネクラーソフは、ドストエフスキーの処女作『貧しき人々』の原稿を批評家のベリンスキーに取り次いだことで、その華々しい文壇デビューの立役者となった人物でもある。この経緯については、ドストエフスキーが自ら『日記』1877年1月号で振り返っている。

このような縁もあり、同年生まれの二人の作家と詩人は、以来三十年余にわたり、穏やかな交友関係を結んだようだ。

ドストエフスキーは、『日記』の中で、ネクラーソフの葬儀に参加したこと、大勢の参列者に交じって追悼演説の一つを行ったこと等を始めとして、故人をしのぶ文章を綴るのだが、その内容がどうも奇妙なのだ。

端的に言えば、ドストエフスキーは、ネクラーソフの詩人としての業績を非常に高く評価する。ネクラーソフは、「新しき言葉」を持って現れた詩人の列に連なり、「プーシキン、レールモントフの直後に立つべき人」であるとまで称揚する。

しかし、ドストエフスキーの追悼文を読むと、ネクラーソフの優れた詩的才能・資質は、絶対的な、無条件のものではなくて、留保のついた、不完全な、むしろ卑俗さと裏腹のものであったような、そんな印象を受けるのだ。

といっても、例によって、ドストエフスキーの文章は、一筋縄では行かない、分かりにくいものである。
ドストエフスキーの「ネクラーソフ論」の本意はどこにあったのか?
最初から整理してみることとした。

ネクラーソフの不幸な生い立ち

ドストエフスキーは、すでに若き日々の交流の中で、ネクラーソフの「本質的な精神の一面」に触れ、そこに「生涯の出発点に傷つけられた魂」を直覚したと書いている。
そして、この「傷つけられた魂」との直接的な因果関係をほのめかすものとして言及されるのがネクラーソフの不幸な生い立ちである。
ドストエフスキーは、ネクラーソフが、眼に涙を浮かべながら「自分の幼年時代や、彼を苦しめた両親の家庭における醜悪な生活や、自分の母のことなど」を語って聞かせたと、証言している。

ネクラーソフが育った不遇な家庭環境とは、具体的にどのようなものだったのか?

ドストエフスキーは詳細には何も説明していないので、手っとり早く、ロシア文学史の概説書を参照することにする。そこには、ネクラーソフの略歴に関して、次のような興味深い記述がみられる。

 ニコライ・アレクセーヴィチ・ネクラーソフ(一八二一~七八)はヴォルガ川上流の中地主の家に生まれた。父は狩猟と酒宴と女色にふけることしか知らない粗暴で圧制的な男だったのに対して、母はポーランド系の美人で、教養のある、心の清らかな女だった。彼女は、大酒のみで残忍な夫が農奴を虐待するのを見かねて農奴の味方をしたために、菩提樹ぼだいじゅにしばりつけられて折檻せっかんされたこともあったという。詩人の、農奴制秩序に対する憎悪と農民に対する深い同情は、すでにこうした環境の中で芽生えていたのだ。ネクラーソフは中学卒業後、幼年学校へ入れようとした父親の考えに逆らって、ペテルブルク大学の聴講生になろうとしたため、家からの送金を絶たれ、以後三年間文字どおり乞食の生活を送った。しかし、手紙の代筆やポスター書きや家庭教師などの仕事をしながら、木賃宿や安下宿をさまよい歩くうちに、都会の下層民の生活をつぶさに観察したこともむだではなかった。それが、のちに知り合ったベリンスキイからの強烈な影響とともに、彼の民主的な詩風やテーマの傾向を形づくったからである。……(木村彰一ほか編『ロシア文学史』明治書院, 1972。なお、没年が「七八」年とされているのは西暦に基づくものであり、当時ロシアで使用されていたユリウス暦では1877年の12月末にあたる。)

ドストエフスキーも、また、ネクラーソフの不幸な生い立ちと、その作品に現れる虐げられた者への深い同情とを結びつけている。彼は墓前で自身が述べた追悼演説について『日記』に次のように記している。

……私はまず開口一番、彼が生涯癒ゆることなき痛手を受けた心の持ち主であったこと、わがロシヤの女性、ロシヤの家庭における幼児、しばしば悲惨な運命におかれているわが民衆、暴力と残酷放縦な意志のために苦しんでいるすべての者に対する、苦しいほど熱烈なこの詩人の愛も、要するにこの痛手を源泉としていることなどを語った。……(岩波文庫版『作家の日記』(六)、一八七七年十二月、第二章。米川正夫訳、以下同じ。)

ドストエフスキーは、また、ネクラーソフが「自己の全存在をもって民衆の真理に頭を下げ、かつこれをおのれのすぐれた作品の中で証明した」詩人であるとして、この点において、彼をプーシキン、レールモントフと同列にあるものとみなすのだ、とも述べている。
しかし、全体としてネクラーソフを賛美する文章のところどころに、その流れに水を差すような調子が混じるのである。たとえば、次のような部分。

 ネクラーソフは、なみなみならぬ透徹した、素晴らしい頭脳にもかかわらず、本格的な教養に欠けていた。少なくとも大した教養をもっていなかった。彼は一生ある種の影響を脱しなかった。……

「ある種の影響」とは何を意味するのだろうか? 教養云々については、故人がかならずしも十分な学歴を得られなかったことを指すのであれば、不幸なめぐり合わせによるものであったとしても、まだ「客観的な事実」と言えるのかもしれない。
それでは、次のような指摘はどうだろうか?

……その人は自分の富をのがれ、自分の貴族生活の罪深い誘惑からのがれて、ただ自分で苦しくてたまらない時に、民衆のもとへやって来ては、民衆に対するやむにやまれぬ愛の中に、自分の悩み疲れた心をきよめるという、ただそれよりほかに、なに一つ良い分別のつかなかった人である。なぜなら、ネクラーソフの民衆に対する愛は、自分自身の悲愁のはけ口に過ぎなかったのだから……(強調は本文では傍点)

民衆への愛が「自分自身の悲愁のはけ口に過ぎなかった」とは、いったいどういうことなのか?
民衆に対する同情や愛を決定づけたものが自身の幼少時の不幸な家庭環境だったとしても、そのこと自体に、ネクラーソフが負い目や罪悪感を持つ筋合いはあるまい。
また、なぜことさらにネクラーソフにおいて、「富」や「貴族生活の罪深い誘惑」が問題とされなければならないのか?
これでは、追悼文を綴り、弔意を述べながらも、どこか中傷じみているではないか!

ネクラーソフの「実際性」

ドストエフスキーは、さらに、ネクラーソフの死に関する諸新聞の論評の中に「一つの興味ある性格的な事情」を見いだして、ことさらにそこに読者の注意を促そうとする。

 どの新聞もどの新聞も、ネクラーソフの死と葬儀の後に彼のことを筆にし、彼の意義を決定せんとしはじめるが早いか、さっそく一つとして例外なしに、なにかしらネクラーソフの「実際的な性質」について、彼の有する欠点というよりも、むしろ悪徳について、彼が死後に残して行った面影に、ある二重性の存することについて、若干の考察をつけ加えたものである。……

諸新聞が論評した故人の「実際的な性質」とは、「ビジネスにおける実務的な能力・才覚」を意味するものであるようだ。
事実、ネクラーソフは詩人としての才能を開花する以前に、雑誌の編集者、発行者として頭角を現し始めたようであり、上で引用した『ロシア文学史』にも、すでに二十代の頃から「ジャーナリストとしての驚くべき才腕」を発揮したことが記されている。

ネクラーソフの死にまつわる多くの論評が、故人の「実際的な性質」について、あたかもそれが彼の弱みであったかのように言及しつつ、「彼は環境にむしばまれ、多くの苦しみをなめた人であったがゆえに、『実際的』にならざるを得なかったのだ」というような調子で、しきりに弁護に努めている、そのように、ドストエフスキーは指摘している。

しかし、なぜ「実務的な能力」が弱点と見なされねばならないのだろう?
ドストエフスキー自身も、わざわざ「実際性」を持ち出しては、それを「寛恕」する、すなわちいわば「情状酌量」しようとするような諸新聞の論調に対して異を唱える。

……私の見るところでは、ネクラーソフはかような寛恕を必要としない。このような問題に関する寛恕は、常に何かしら相手を卑しめるようななにものかを含み、寛恕される人の姿がほとんど凡俗的になるほど曇らされ、矮小化されるものである。……

ネクラーソフは「芸術のための芸術の代表的詩人」などではなく、真に「民衆の悲しみの哀泣者」であった、ドストエフスキーは、そのようにネクラーソフを擁護する。
そして、ネクラーソフのような卓越した人物には、当然敵もあっただろう、些細な事実も針小棒大に取り上げられただろう、と理解を示しつつも、次のように付け加えるのだ。

……しかし、それを頭においても、やはり何かしらあとに残るものがある。いったいそれは何だろう? なにかしら陰鬱な、暗い悩ましいもの、それは議論の余地がない。……

ドストエフスキーの追悼文は、紆余曲折を経て、ここでようやく核心に触れる。
すなわち、ネクラーソフの人間像に「陰鬱な、暗く悩ましいもの」があったというのだ。

「陰鬱な、暗く悩ましいもの」の正体

この「陰鬱な、暗く悩ましいもの」とは何なのか?
ドストエフスキーは、その本質を、ネクラーソフが草稿として書いた「最も初期に属する詩の一つ」の中に見いだしたとして、次の詩を『日記』にかかげている。

 夕べの灯火は点ぜられ
 風が吹き、雨はしとどに降っていた
 私がポルタワ県の田舎から
 首都の街へと入った時のこと

 手にはいとも長い杖を持ち
 そのさきにはむなしいふくろ
 肩には羊の毛皮のぼろ外套
 かくしには二コペイカ銅貨だまが十五枚

  金もなければ、家柄も身分もなく
 背は低く、おかしな様子をしていた私
 それが四十年たったときには
 かくしにうなる百万の金

はじめて首都の街に立った孤立無援の田舎者のわびしさ、心細さが身に染みるような詩でありながら、最後の二行に、若者らしい負けん気、野心、不屈さがみなぎり、悲哀と同時に力強さも感じられる。
詩的感受性に乏しい筆者の感想はその程度だ。

果たしてドストエフスキーがこの詩に何を見いだしたというのか?
詩の直後の文章を引用しよう。

 百万の金、――これがネクラーソフのデモンなのである! いったい彼はそれほど黄金、奢侈しゃし、快楽を好んだのか、それをうるために「実際性」にしがみついたのか? いな、むしろそれは別種のデモンであった。それは最も陰鬱な、人を卑しくするデモンであった。それは傲慢と、自己安定に対する渇望のデモンであった。堅固な城壁を築いて、自己を他人からさえぎり、彼らの悪意と威嚇を平然として、悠々と眺めていたい欲求のデモンである。このデモンは、彼がほとんど父のもとを出奔するようにして、ペテルブルグの舗道の上に立った時から、すでに十五歳の少年の心に食い入ったのだと思う。……

ドストエフスキーがネクラーソフの中に見ていた「陰鬱な、暗く悩ましいもの」の正体とは、「傲慢と、自己安定に対する渇望のデモン」であった。

ドストエフスキーは、初めてネクラーソフと知り合った当時から、この「陰鬱な、気むずかしい、孤独な自己安定の渇望」を感じとり、「その後ずっとそういう気がしていた」と書いている。
そして、ネクラーソフは、結局この「卑しいデモン」に打ち克つことができず、その代りに「生涯を通じての苦悶で償った」というのだ。

しかし、ドストエフスキーのこのネクラーソフ評は公正なものであると言えるだろうか? 偏見にとらわれた、言いがかりではないだろうか?

ドストエフスキーは「はたして暴力の情景や、ついで淫楽・遊蕩の渇望が、あれほどの人の心に住むことができたのだろうか?」とまで書く。
しかし、ネクラーソフの生活のどこが、どのように「暴力の情景や、淫楽・遊蕩の渇望」と結びついていたのかについては、何も明らかにしない。
これが意地の悪い、悪質な中傷でないとしたら何なのだろう?

三十年来の友人であった故人に対して、公の刊行物の誌面で、どうしてこのようなむごい人物評ができるのだろう? しかも、その相手は自分の文壇デビューを決定的に後押ししてくれた恩人ともいうべき人なのだ! それこそ「卑しいデモン」の仕業ではないのか!!

少し取り乱してしまったようだ。
気を取り直して、先に進むことにしよう。

ネクラーソフの民衆への愛

ドストエフスキーの追悼文は、饒舌さを保ちつつ、なおも続いていく。
その本意は、必ずしもネクラーソフを貶めようとするものではないようにも読める。

ドストエフスキーは、ネクラーソフが、その堕落やデモンも含めた自身の真実を、すべて自ら詩において明らかにした事実を指摘し、そうであれば、ネクラーソフは人が言うほど「実際的な人間ではなかったのかもしれない」と言う。

ドストエフスキーが繰り返し強調するのが、ネクラーソフの偽らざる民衆への愛である。
しかし、ドストエフスキーにとって特に重要なのは、どうやら、その「動機」であるらしい。

……私にとっては、なぜネクラーソフがあれほど民衆を愛したのか、なぜ生涯のなやましい瞬間に、その方へ心をひかれたか、なぜ彼が民衆の方へおもむいたか、また何をそこに発見したかということが、明瞭にわかっているのである。ほかでもない、前に述べたとおり、民衆に対する愛は、ネクラーソフにとっては、自分自身に関する彼の苦悩の、いわばはけ口だったからである。これを仮定して受け入れたならば、詩人としての公民としてのネクラーソフは完全に明瞭になってくるだろう。おのれの心情と才能による民衆への奉仕の中に、彼は自分自身に対する自己浄化を見いだしたのである。……
……最も肝要なことは、彼が自分を取り囲む人々の間にも、彼らがあがめ跪拝きはいするものの中にも、愛の対象となすに足るものを発見しなかったことである。ふだん、心弱くも、悪と知りつつ身をまかせていた生活に、嫌悪を感じた瞬間、彼はこれらの人々から身をもぎ放して、はずかしめられ、虐げられ、苦しんでいる、素朴なる人々の方へ立ち去ったのである。<中略> 民衆に対する愛の中に、彼は何か確乎不動のものを見いだした。自分を苦しめているいっさいのものに対する、ゆるぎなき神聖な救いを見いだしたのである。……

ネクラーソフの日常を指して「心弱くも、悪と知りつつ身をまかせていた生活」とドストエフスキーは書く。別の箇所では「一生彼を征服していたデモンである物欲」とまで書いている。
ドストエフスキーは、ネクラーソフと知り合った当初から「陰鬱な、暗く悩ましいもの」を感じとったと書いている。実際に、ネクラーソフは癒しがたい「憂愁」を身にまとう人物だったのかもしれない。
しかし、その憂愁が「デモンである物欲」に征服されていた証拠であるなどと、果たして、少年時代に初めて書いた一篇の詩のみを根拠として断定することができるだろうか?

しかも、ネクラーソフは貴族階級に生まれながら、親からの援助を絶たれてまでも自分の行きたい道を果敢に貫き、自分の力だけを頼りに人生を切り開いた人物だったのではないか? その結果なにがしかの物質的な成功を得たとして、どこにうしろめたいことがあるだろうか?

ドストエフスキーは、自身の評価としてネクラーソフを「民衆の真実を認めた詩人たちの列」に加えることに繰り返し言及し、次のように結論する。

……この真実の絶え間なき探求、それに対する永久の渇望は、内部の要求、――何より高遠な要求が、彼を民衆の方へひきつけていたことを、明白に証明するものである。したがって、この要求はまた、彼の内部に絶えずひそんでいた悩み、――いかなる誘惑のさかしらな論証によっても、いかなる逆説によっても、いかなる実際的な弁明によっても、癒されない不断の悩みを、証明せざるを得ないのである。こうしてみると、彼は生涯くるしみ通したのだ……こうしてみると、そもそもわれわれなどが彼の審判者となりうるだろうか? かりに審判者であるとしても、非難者ではない。

要するに、ネクラーソフの民衆への愛、その真実に対する要求こそが、彼の内なる「デモン」のまぎれもない証拠であると言っているわけだ。
何というむちゃな言いがかりだろう! 「非難者でない」と言いながら、故人に鞭打つようなとんでもない誹謗中傷ではないか!!

死者に鞭打つ者は……

ドストエフスキーのネクラーソフ評の妥当性やその文学的意義は、あるいは学術的な研究テーマとなりうるものかもしれない。
もしかしたら私が読み誤っている部分があるかもしれないし、ドストエフスキーがあえて具体的に触れなかった様々な事実があったのかもしれない。

たとえそうであるとしても、また、ドストエフスキーの真意がどこにあったにせよ、今回紹介した『日記』の追悼文は、三十年来の友人であった人物をしのぶ文章として、いちじるしく誠実さを欠くものではなかったかと、私には思えてならない。

この追悼文を読んで、どうしても思い出さずにはいられなかったのは、ドストエフスキー自身が、死後に知人や友人にどのように評されたかということだ。

以前に投稿した記事でも触れたのだが、ドストエフスキーに対する同時代人の評価は決して芳しいものではなかった。

例えば、二十年来の友人であったストラーホフという人物は、ドストエフスキーの死後、トルストイに宛てた手紙の中で故人を「意地の悪い、嫉妬深い、癖の悪い男」だったと評したとされる。

ドストエフスキーの人間性の問題はひとまずおくとして、もし、故人となってから友人・知人に悪口を言われたくなかったら、まず自身が死者を鞭打つようなことは慎むべきだ、そんな教訓を読みとりたいところだ。

もっとも、自分が死んだ後で何を言われようとまったく意に介さないという人にとっては、どうでも良いことかもしれないが。

*     *     *

『作家の日記』は1877年12月号をもっていったん休刊し、作家は1878年から最後の大作『カラマーゾフの兄弟』に集中することとなる。以後、『日記』の刊行は1880年に一度だけ発行された特別号と1881年1月の復刊第一号との二号分を残すのみである。

※画像は、ロシアの画家イワン・クラムスコイの「『最後の詩』の頃のネクラーソフ(部分)」(1877-78)

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