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『BLEACH』に影響を受けた私が、いま『少年ジャンプ』に思うこと

私はもう十数年、週刊少年ジャンプを購読しており、ジャンプという雑誌自体に愛着がある。そしてなにより、そこに掲載されている漫画に心揺さぶられ育った人間だ。 

特に思春期に『BLEACH』に出会った時の衝撃は忘れられない。『BLEACH』の魅力は何時間あっても語り尽くせないが、何よりもまず、個性豊か、という言葉では足りない程の、 強烈な存在感を持ったキャラクター達が登場することにある。

それぞれ確固たる信念や思想を持ち、悩み、ぶつかり合い、躍動する。その中でもまだ十代初めだった私が出会い、衝撃を受けた女性キャラクターがいる。四楓院夜一(しほういん・よるいち)である。

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圧倒的強さと、言葉すら不要なカリスマ性

四楓院夜一は初め、黒猫の姿で登場し、物語の途中で女性の姿となる。初めて主人公の黒崎一護(くろさき・いちご)に人間の姿を見せるシーンは、全裸の夜一が立っている一枚絵となっている。この後、 ジャンプの「お約束」に従うならば、全裸の女性はキャーと声を上げながら顔を赤らめるだろう。当時の私もそう思った。

しかし夜一はそうしなかった。顔色ひとつ変えず、平然としていた。一護に「服着ろ ー!!!」と指摘されても顔色変えず「すまんすまん」「服なぞ久しく着ておらんかったものじゃからついの」と受け流しつつ、更に「女子の肌を直に見るのは初めてか?」と一護をからかいまでするのである。

今読むと、このシーンは一護に対するハラスメントであり、決して手放しで賞賛出来るものでは無いが、夜一のこの態度は、私には同じ雑誌に掲載されている他の漫画の女性達とは全く違うものに写った。

「ラッキースケベ」というお約束に流される客体化された女性キャラクターとは違う。モノのように扱われる女体とは違う。女の裸体は必ずしもエロくていやらしいものでは無い。 彼女の身体は彼女のものであり、彼女が肌を見せることを些末な事と感じれば、それは些末な事なのだ。

また、夜一は四大貴族のひとつである四楓院家の当主であり、軍の最高司令官であった過去を持つ。 当時の部下であった砕蜂(そいふぉん)は、夜一を神のように崇拝していた。その夜一が突然 失踪したことに裏切られたと感じ、敵として再会した折に、刃を向け殺そうとする。

夜一は優しく説き伏せるのでも、過去の行為の弁解をするのでもなく、ただ圧倒的な力の差を見せつけ、勝利する。その姿を見た砕蜂は、捨てられずにいた夜一への敬愛を、涙を溢れさせ吐露するのである。当時の私は、夜一の圧倒的な強さと、言葉すら不要にする人を惹きつけるカリスマ性に強烈に魅せられた。

家を捨て、立場を捨て、人を惹きつける魅力を持ち、自由気ままに、生き生きと戦い輝く夜一の姿は、当時の私の周りに溢れる女性像とは全く違っていた。夜一の、どこにも所属しない身軽さ、奔放さ、強さ、カリスマ性。どれもが新鮮で、幼かった私は四楓院夜一を見て、「こうやって生きてもいいんだ」とひとつのロールモデルを提示され、背中を押されたような気さえする。

現実の私は強くないし、世間のしがらみに雁字搦めになっているのだが、不敵な笑みを浮かべ、腕を組み、仁王立ちで立つ彼女の姿はいつも私の心の奥底にある。

無意識に主人公を信頼していた理由

私が強く感銘を受けたのは夜一であるが、『BLEACH』には女性キャラクターが数多く登場し、その多彩さは枚挙にいとまがない。

『BLEACH』を語る上で欠かせない女性キャラクターである朽木ルキア(くちき・るきあ)は、所謂「囚われの姫」役をする事もあったが、一護と恋愛関係にならずに、お互いに信頼し合い、一護に対して厳しい口調で死神としての矜恃を教え、奮い立たせ、また自らも一護と共に戦う。

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一護の同級生である井上織姫(いのうえ・おりひめ)は、所謂ヒロイン然としたキャラクターであり、可愛くて明るく優しく、少しおっとりしたような雰囲気の女性である。彼女はその気質や能力から後衛に周り、回復役を務めることが多い。彼女は自らが戦う力に乏しい事に悩むが、他のキャラクターから彼女自身を肯定され、彼女なりに前に進もうとするのである。

戦う女、戦わない女、変わる女、変われなかった女、勤勉、怠惰、傲慢、お淑やか、強い、 弱い、様々な女が登場する。私と同じように『BLEACH』に出会った人であるならば、その女性キャラクター達の姿に、自信や勇気を貰った人も多いだろう。

少し話は逸れるかもしれないが、この企画の話を頂いた時に、改めて『BLEACH』を読み返した。幼い私の視点を今の私が言語化する気持ちで読み進めていったのだが、今の私でなければ気づかなかった点がひとつある。それは主要な男性キャラクター、特に主人公の黒崎一護が積極的に女性キャラクターを、過度に性的客体化しなかった点である。

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勿論、所謂スケベなキャラクターは何人か登場し、性的客体化をするような行いが全くなかった訳では無い。しかし、主人公や女性キャラクターの傍にいる主要な男性キャラクター達は、少なくとも女性キャラクターをひとりの人間(またはひとりの死神)として、仲間として、友人として、上司として、部下として見ていた。

一護は女性キャラクターに突然抱きついた男性キャラクターを咎めすらした。私はその面で、一護を無意識に信頼していたように思う。だからこそ、女性キャラクターを憧れの存在として、生きる上でのロールモデルとして素直に受け取ることが出来たようにも感じる。

「PTAがケチをつけている」に思うこと

特に紙媒体のジャンプ読者にはお馴染みの、アンケートハガキというものがある。雑誌についているハガキに、掲載されている漫画の中から面白かったものを上位三つを記入する。 編集部はそのアンケート結果を、どの漫画を継続させるか、はたまた打ち切るかを決定する ひとつの判断材料とする。

私は面白い漫画に出会えば、長く続くようにと、アンケートハガキを出すようにしている。もちろん、『BLEACH』のこともアンケートハガキに書いてきた。

先日、『ジャンプルーキー!』掲載の対談記事における、ジャンプ編集長の「今の時代だと女性読者もいる」「しかし、少年をターゲットにした漫画雑誌でありつづけたい」といった趣旨の発言がSNSで物議を醸した。

アンケートハガキには名前、住所、年齢、そして性別を記入する欄がある。ハガキが五十円で出せた頃から、アンケートハガキの性別欄は女に丸をし、ポス トに投函している。少なくとも、ここに一人長年ジャンプを購読している女性読者がいると、 編集部には伝わってるはずなのだ。

また、近年、ジャンプをはじめとする漫画雑誌の描写に批判の声があがると、「フェミやポリコレ厨が騒いでいる」という意見を見かけることが増えた。その際に、思い出すことがある。

私が十代の頃、ジャンプ作品をはじめとする漫画が批判対象になると、「また PTA が漫画にケチをつけている」というような話をよく聞いたような気がする。

「PTA」という言葉からは、子供の親、学校、教育組織、そして母親というイメージが 連想され、漫画が想定している対象の外側の存在である、という意味が含まれていたように思う。つまり、そこには漫画の事をよく知らない外野が、漫画に訳の分からないクレ ームをつけている、というニュアンスがあった。

これは完全に私の憶測の域を出ないが、果たして PTA は本当に PTA だったのだろうか、 という疑問が浮かぶ。元々いた読者を、外野というレッテルを貼り、「仮想敵」として扱う為に PTA という言葉を使ったのではないか。

今はめっきり、PTA という言葉を見かけなくなった。代わりに登場したのは、前述の「フェミ」 や「ポリコレ厨」という言葉である。しかし、SNS を見渡せば、フェミもポリコレ厨も、普段から漫画に親しみ、そして問題があると感じた時に声を上げているように思う。

フェミもポリコレ厨も、決して外野の存在ではない。それは他の読者も、そして編集部も気づいているのではないか。

執筆=とら子
画像=1枚目Unsplash

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