見出し画像

つまづいても大丈夫。ゆっくりでも大丈夫。そんな勇気をくれる一冊――漫画『スロウスタート』感想文



高校一年生になった少女『一之瀬いちのせ 花名はな』には秘密がある。
それは「同級生たちよりも、ひとつだけ年上である」という秘密だ。

一年前、高校入試の直前に〝おたふく風邪〟を患って受験できず、完治したときには卒業式すら終わっていたため同級生たちと一緒に進学することができなかった花名は、つまるところ一浪して高校に入学したのである。

小動物のように怖がりで悲観的な性格ゆえ、受験の失敗以降、同級生と会いたくない、学校にも行きたくない、外にも出たくない……と泣き続けていた花名は、母親からの提案で実家を離れ、従姉が管理人をしているアパートでの一人暮らし(実態としては従姉との二人暮らし)をはじめた。そして一年間の引き籠もり生活を経て、ようやく女子校の一年生となった。

自分のことを知る人がいない新天地での高校生活。不安と孤独を感じながら年下のクラスメイトたちに混ざった花名は、声を掛けてくれたクラスメイトたち――明るく人懐っこい性格のムードメーカー百地ももちたまて、大人っぽい雰囲気と高いコミュ力で多くの友人をもつ十倉栄依子とくらえいこ、幼い外見とマイペースな言動で周囲からマスコットのように可愛がられている千石冠せんごくかむりらと行動を共にするようになる。

自分が浪人していたことは明かせないまま――。


というわけで、妹さんの感想文#06。
今回は、私がとても気に入っている漫画のひとつ。
篤見唯子先生の『スロウスタート』について少しだけ書いてみたい。




TVアニメ


漫画について語る前に。
本書『スロウスタート』は2018年にTVアニメ化されている。

主人公である花名の声を担当しているのは近藤玲奈さん。
今や『アイドルマスター シャイニーカラーズ』の風野灯織や『ブルーアーカイブ』の陸八魔アルなどでも人気を集めている声優さんだが、実はTVアニメにおける初主演作品が、この『スロウスタート』であるらしい。

アニメのクオリティーが高いことは言わずもがな、主要キャラクター四人の声優さんたちが歌っているOP楽曲『ne! ne! ne!』も、三月のパンタシアさんが担当しているED楽曲『風の声を聴きながら』も、いずれもヘビロテ不可避の楽曲である。漫画と並行してTVアニメ版もオススメしたい。





〝 しあわせは、ゆっくりはじまる。 〟


この漫画の魅力を語るための言葉として、TVアニメ版公式サイトで使われている〝しあわせは、ゆっくりはじまる。〟というキャッチフレーズを紹介しておきたい。これはとてもシンプルな一文ながら、作品の魅力をぎゅっと集めた優秀なキャッチフレーズであるように思う。

元より積極的に友人を作れるような性格ではない花名は、一年遅れの高校生活だったからこそ出会うことができた友人たちとの関係に特別で大切なものを感じ、これまでの自分では勇気がなくて踏み出すことができなかったようなことにも踏み出してゆく。

そして花名以外の登場人物たちも、密かに積み重ねてきたものが報われるような出来事を経験したり、過去の自分が手放してしまった人間関係や伝えられなかった想いとの再会を果たしたりする。

ただ〝失った時間を取り戻す〟というだけではない。
これから歩きはじめてもいい。
一度は手放して時間が経ったからこそ実感できる幸せもある。
皆がバラバラのスピードで進んでいてもいい。
焦る必要なんてない。

そうした前向きなメッセージを真正面から伝えてくれる。
春風のように優しく、新しい一歩を踏み出す勇気を与えてくれる。
気障な表現になるが、それこそ、私が本書を読んで感じた最大の魅力だ。



妙技


本書の魅力は何か――と問われたならば、上のように〈前向きなメッセージを伝えてくれる優しさと力強さ〉を挙げたいが、私は同時に〈メッセージの伝え方〉にも魅力を感じている。

花名にとって「浪人した」という事実は極めて重大な問題である。それこそ不登校&引き籠もりというような未来しか選択肢がなくなってしまうほどの問題として認識されている。

しかし、花名の両親も、花名と一緒に暮らす従姉も、悲観的な考えばかりを巡らせてしまう花名に対して優しく楽観的な態度で接する。花名の担任教師も花名の事情を知っているハズだが、花名を特別に守ろうとすることも腫れ物扱いすることもない。

また、花名が暮らすアパートには、大学の入試に失敗して浪人生をしている女性万年はんねん 大会ひろえが暮らしている。大会は高校時代に生徒会長を務めていた優等生であり、外見も性格も周囲から慕われていたが、事故により大学受験に失敗。自身を尊敬してくれる後輩たちからの視線に怯えるようになり大学を二浪……というか受験することすらできていない状態。いまや常に灰色のスウェットを着用し、ゴミ捨てのときくらいしか部屋から出てこない、事実上の引き籠もりとなっている。

さらに言えば、花名と仲良くなる少女たちにも〝一般的な家庭とは少し違う家庭事情〟がある。例えば、ムードメーカーである百地たまては両親が仕事の都合で国外に住んでいるため二人の祖母と暮らしており、預かった食費をやりくりしながら自分で食卓を支えている。彼女の人懐っこい性格は祖母やご近所さんたちとの付き合いのなかで育まれたものだ。

優しく楽観的な態度をとる身内。花名を特別扱いしない教師。そして(言い方は悪いが)花名よりも切羽詰まった状態である大会お姉さん。自分とは大きく異なる事情を抱えながら楽しく暮らしている友人たち――。

そうした登場人物と接するなかで、花名は「自分が抱えている事情は、本当はそこまで珍しいものではないし、絶望するほど大変なことじゃない」というメッセージを受け取り続け、少しずつ「自分が浪人していることを明かしても、友人たちは受け入れてくれるのかも」と考えるようになってゆく。

でも、もし、受け入れてもらえなかったら――。

本書は、クスッとできるような少しの毒とかわいい絵柄に癒やされながら読むことができる四コマ漫画だ。つまり〈花名たちの日常生活〉が描かれ続ける漫画である。

しかし、だからこそ、読者は自分が物語を読んで獲得した登場人物たちへの理解から、花名が感じる「この友人たちは浪人について打ち明けても受け入れてくれるだろう」という確信めいた期待に共感し、また、どうしても考えてしまう「もし受け入れてもらえなかったら……」という不安と恐怖にも共感してしまう。

つまり本書は、花名に対する読者の共感を丁寧かつ的確に誘発してくれるのである。このテクニックはまさに〝妙技〟という他なく、本書における明確な魅力であろう。


といったあたりで、今回の感想文は〆とする。
私がこれを書いている2024年5月現在では第11巻まで発売されている本書だが、いくつかの節目を迎えつつも、物語はまだ終わっていない。個人的には20巻でも30巻でも続いてほしいくらい気に入っている作品であるため、これからの展開も楽しみだ。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?