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"1984年" 感想・考察 -ウィンストンの病理


とんでもない本を読んだ。

"1984年"は「英語で書かれた20世紀の小説ベスト100」、「史上最高の文学100」に選出されたディストピア小説である。

世界観、ストーリー、登場人物のどれも魅力的で、本の世界に引き込まれたし、「二重思考」「ニュースピーク」「二分間憎悪」「愛情省、真理省、平和省、豊富省」などの発想には感動すら覚えた。

というのも、ウィンストンと自分を重ねざるを得なかったからであり、多分、著者のジョージオーウェルとも思想的に何かしら共通する部分があったからではないかと思う。

反共小説と言った部分とは別に、ある意味で"青臭い小説"と言えるのではないだろうか。

そんな、反抗期のウィンストンの心的世界を勝手に推測して、愛ある?死を遂げるまでの考察をしていこうと思う。


反抗と依存

反抗と依存は表裏一体である。

ウィンストンは党という権力に立ち向かいながらも、その絶対的な力に服従し、どこか崇拝さえしていた。

その象徴として現れたのがオブライエンだ。

ウィンストンは、自らの知性を全て内包し理解を示すオブライエンに対して反抗のポーズは取っていたものの、その強靭な知性に自分をまるごと委ねてしまいたい感覚すら覚えていた。


そして、オブライエンの反抗心の残り香として現れたのもまた、ウィンストンである。

オブライエンもかつてはウィンストンと同様、党の中層に属しており、党の上層に反抗すると同時に、強い憧れを抱いていたと思われる。

結果として党の上層に所属することになるのだが、つまり、オブライエンはウィンストンの心理状況を一度経験したことのある人間だった。

だからウィンストンが考えることに対して、全て先読みして回答する事ができた。ウィンストンの持つ反抗心と権力への憧れを自覚し、自身は権力を志向したのだった。

あくまで推測に過ぎないが、"二重思考"を持ってしてもなお消えないオブライエンの若き日の記憶を成仏させるために、ウィンストンという存在を見出したのではないだろうか。


たったの一瞥で惹かれあってしまうくらい、二人は似ているのだ。

オブライエンは党の権力に服従し、権力によって支配する立場であったが、ウィンストンもまた、党への服従を甘んじ、自身の権力によって支配しようとした。その相手がプロールやジュリアである。


男と女/ロマンチストとリアリスト

ウィンストンは自身の支配したい欲求を、下層に属するプロールたちと、自身に好意を示したジュリアへ向けた。

ウィンストンは反抗/依存的な人間なので、プロールたちに党打倒の希望を見出しつつも軽蔑しており、直接コンタクトを取って具体的なアクションを起こす気配はなかった。

そしてまた、若く美しい肉体を持ち、党に服従している(と思っていた)ジュリアをはじめは軽蔑していた。しかし、ジュリアから"あなたが好きです"との告白を受けてからは、一転、支配できる性の対象にした。


党打倒を夢見ていたウィンストンはロマンチストである。反面、ジュリアは徹底的にリアリストとして描かれている。男女の基本的な性質はこうなのではないか。

ジュリアは党支配の構造をどうこうしようとは考えない。社会的立場として職務を全うし、個人的欲求を満たすために行動できる人だ。

ジュリアにとって"二重思考"など、校則のようにただ存在するだけのものであり、我欲を満たすために、徹底して校則を守っているかと思えば、華麗にスルーすることもできる。自立した人間だ。

しかし、ウィンストンと恋仲になってからは、化粧したり女性らしい格好をしたりと、情が出始める。一度男女の行為を通過すると、女性は男性を好きになってしまうなんて話もあるが、その辺はやはり"自身の子を宿す"という女性の本能によるものなのだろうか…。

最終的に二人は、心の中にあるお互いへの想い共々、党の力に屈服してしまう。


ウィンストンの病理

なぜウィンストンは党へ反抗し続けたのか。

理由は二つあると考える。

一つ目は母と妹に対する"罪の意識"
二つ目は父親的存在に対する"渇望"だ。


罪の意識

ウィンストンの過去の回想シーンで、お腹を空かせた妹を差し置いてチョコレートを横取りし、母と妹を困らせたきり二人は戻ってこなかった。

自分の我儘のせいで二人は消えてしまったのではないか…という罪の意識、自身の動物性/男性性への嫌悪の象徴として登場するのがラットである。

ウィンストンはありとあらゆる拷問よりも、ラットを嫌悪した。101号室には一体何が…!?と思っていたから、ちょっと拍子抜けだ。

ウィンストンはどんな拷問よりも、ラットという"自身の身勝手さ"に直面させられる事に苦痛を感じたのである。

この、自身の動物性/男性性に対する反抗や軽蔑が、党への反抗やプロールへの軽蔑として投影されたと考えられる。また、抑圧された男性性というものは一層自身の男性性を認めていることでもあり、それがジュリアへの欲望に投影されているのではないか。


父/権力への渇望

ウィンストンの回想の中では父親の記憶は薄い。母と妹のシーンでも父親は登場しない。そして著者のジョージオーウェルもほとんど母子家庭で育ったという。

もしも、ウィンストンが妹からチョコレートを奪った場面で父親がいたら、叱ってもらえたに違いない。むしろ父親不在のため、そんな風に我儘な行動をとってしまったのかもしれない。

あの時父親がいてくれたら、と、自身の罪を父親の所為にしたい気持ち。父親不在のために、父親を欲し、憎んでいた。

この満たされない想いもまた、権力への反抗、権力への依存となって、彼の心的世界を構築していたのではないだろうか。

党に対する絶対服従を誓えば、愛情省は文字通りの愛情省である。心の奥底から党に忠誠を誓うことができる。

ウィンストンの素直になれない想いが、愛情↔︎拷問、平和↔︎戦争、真理↔︎虚偽、豊富↔︎欠乏というダブルバインドを生み出した。

最終的に、オブライエンの拷問によって、自身の素直な気持ち、権力への服従を認めて愛へ還っていった。記憶の真偽は定かではないが、母親と妹との幸せな記憶を創り出すこともできた。


まとめ -心と社会

あくまで心理学的に考察をすれば、ウィンストンは心から党を、そして自分を、愛することができてハッピーエンド!になるのかもしれない。

しかし、社会学的に考察をすればあまりにも間違っている。まず党の権力が絶対的すぎるし、某国でこんな風に一人の男が洗脳されていたら大問題である。

戦争は平和なり、自由は隷従なり、無知は力なり———

党のスローガンを地で行く事になったウィンストン。歪んだ世界に歪められ適合することこそが最適解。洗脳はこのようにして行われる。

個人的には、もう少し党の力を弱めて、ゴールドスタインの組織と合流して内戦を繰り広げて欲しかったところだ。

党を絶対的に描くこと、ウィンストンに勇気ある行動を起こさせなかった事に、作者の何かしらの意図、もしくは心理が働いているのだろうか。


もう一つの醍醐味

自分がこの小説で面白いなと思ったのは、人間の心の仕組みが、唯識論的に詳細に描かれていた事だ。


「過去を支配する者は未来まで支配する。現在を支配する者は過去まで支配する」

という言葉の通り、歴史記録を改ざんし、言論統制ならぬ言語統制を行い、過去すらコントロールしてしまう試みは面白い。


思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

そしてこのマザーテレサの格言通り、まずコントロールすべきは思考なのだ。


初めに言葉ありき———

聖書の格言だ。思考は言葉によるものなので、使用する言語と目にする言葉の根本を変えていった。

この辺りはセルフコントロールに当たっても有名な話だろう。

そしてまた、オブライエンが宙に浮かべると言って、それをウィンストンが信じれば、オブライエンは宙に浮かべるのだ。

"宙に浮かぶ"は極論かもしれないが、あらゆる宗教や洗脳が同じ仕組みで行われている。これも認識論の面白いところである。


党にも著者にも誰にもわからないこと

数々のマインドコントロールを施してきたさすがの党も、思想が発現する根元にあたる部分までは、手入れできなかったようである。

ここではそれを、"神"である、としておく。

党は"神"の概念を削除しようとしたが、それでも神は居る。巻末の「ニュースピーク」の諸原理では、党の崩壊を示唆している。思想や言葉の力では計り知れない何かが働いたのだろう。

思想の根元にあるもの、神や潜在意識といった概念は、未解明である。

この考察が、ウィンストンの、ジョージオーウェルの、そして自分の意識を解明する一端になっていればいいなと思う。


なんだか自分の恥部を曝け出したような気がしなくもないが、こう言う話の原型って、神話とかを探せば出てくるような気がする。

全体主義に対する考察は一切できないが、この小説は、反共的な部分や青臭い部分、唯識論的な部分など様々な要素が絡み合って、広く長く読まれる魅力的な小説に仕上がっているのだろう。

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