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"高慢と偏見"考察—高慢とは、偏見とは何か


この小説がたいそう評価されているのは、ジェイン・オースティンの綴る流れるような小気味よい文章もさることながら、"高慢と偏見"というインパクト満載のタイトルによるものであろう。


作家モームは「世界十大小説」の中で本作を二作品目に挙げ、夏目漱石は「ジェーン・オースティンは写実の泰斗である」とその文章力を絶賛した。

登場人物から繰り出される、嫉妬や軽蔑、皮肉にまみれた演劇調の台詞回しにぐんぐん惹きこまれ、19世紀イギリスの片田舎で繰り広げられる上流階級社会の結婚・相続バトルが脳内に鮮明に描かれた。


しかし合わないのだ。上品で洗練された小説世界と、"高慢と偏見"というタイトルが。もちろん"高慢"の象徴として描かれたダーシーと"偏見"の象徴として描かれたエリザベスをタイトルに持ってきていると言うのはわかる。

そんな思いで巻末の解説を読んでたら、ジェイン・オースティンがこう語っていた。

「自分や他人を笑うようなことを書いてはいけないと言われるのなら、最初の一章を書き終えないうちに絞首刑にされた方がましです。」

なるほど納得のタイトルであるし、「高慢と偏見」がテーマの喜劇だったのだと腑に落ちた。


今回は、主役であるエリザベスとダーシーについての感想・考察と、生きている間地獄のように付きまとってくる"高慢"と"偏見"という性質について考えてみる。



エリザベスとダーシーは、サツキとカンタである


近頃ジブリ映画が再び流行っている。金曜ロードショーで再放送されたり映画館で懐かしのジブリ映画を大画面で観ることができた。

流行りに乗ってエリザベスとダーシーの関係を、上品という言葉の意味すら知らない田舎坊主のカンタとサツキになぞらえて考えてみた。


カンタとサツキ(ダーシーとエリザベス)が結ばれるまでの流れはこうだ。

1.気になる子にとりあえずちょっかい出す

カンタ1


2.だけど好きだから不器用に気持ちを伝える

カンタ2


3.それでも好きだから相手のために行動して結ばれる

カンタ3


ダーシーの場合
1.はじめて出会ったパーティーで寂しいブスと罵倒
2.好きな気持ちとプライドがごちゃ混ぜになった手紙で告白
3.それでも好きすぎてエリザベスの姉と妹のために尽力


上記の例えからわかるように、二人の恋愛は王道ラブストーリーなのだ。
別に貴族でも金持ちでもイケメンでもないカンタだって、男子特有のプライドを持ってる。

いわゆる「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」ってやつだ。

ダーシーにはこの二つのワードが非常にぴったり合う。


ダーシーとエリザベスは結婚を通じて変わったか


この小説が評される際に、エリザベスとダーシーの恋愛・結婚を通して、お互いの性質を改めていく成長物語と語られていることがあるが、自分は半分同意しかねる。

最も偏った見方でみるならば、恋愛で脳内お花畑になった男女が、善人のフリして社会に適合して結婚までこぎつけただけである。恋愛スイッチが切れた後が心配だ。

…と、ここまで言うと言い過ぎな感があるので、ダーシーとエリザベスの性質について考えていく。


ダーシーについて


ダーシーは自分に正直で不器用な男だ。

上流階級で金持ち、イケメンで知性と品性を兼ね備えている。その高すぎるスペックゆえに基本的に人のことを見下して生きているが、彼はそれを自覚しているし、その態度を貫き通すことに彼なりの美学を感じる。

初見でエリザベスが抱いた印象の通り一見嫌な奴に見えるが、その品性の高さから真っ当な優しさを持っていて、人を騙したり陥れる様なことは絶対にしない。身内にはとても丁寧で誠実である。


ダーシーはエリザベスとの恋愛・結婚でどう変わったのか。

物語を通じて、彼の持つプライドの高さが改善された、という印象はない。

ウィッカムについて自分の品性を保つために悪く言うのを避け続けたし、リディアの駆け落ち事件解決のために金銭的な支援をしたことも黙っていた。

たとえ他人の為だとしても、上記の行動が自身のプライドの高さから来るものだということは、自身も自覚していることを話している。


では何が変わったのか。

再び中島敦の山月記から引用すれば、ダーシーは自身の内に潜む『臆病な自尊心』『尊大な羞恥心』という虎を飼い慣らしたのだ。

エリザベスへの告白の手紙の中で彼女の両親と妹をボロクソに批判しているが、結婚が決まった後、彼らに歩み寄って誠実に接している。

これまでのダーシーであればできなかった事だ。自分が馬鹿にしている人間に対して自ら歩み寄って接することは、それこそ相手を馬鹿にしており、自分に嘘をつく卑しい生き方だ、と感じていたはずだ。

しかし遂に、そのプライドの高さ故の思想・矛盾を乗り越え、エリザベスの家族に真摯に接して誠意を示すことができた。

自らの思想を——虎を檻へ封じ込め、行動と社会的規範を優先した。


自分が思うに、ダーシーの虎は居なくなったりはしていない。今後いつでも虎が檻から飛び出してくる危険はあるだろう。

今回の事だって、最初に曲解した通り、恋愛と結婚という圧力が加わって虎が追いやられただけとも捉えられる。

しかし彼の、ウルトラハイスペックなプライドという虎を檻に押し込められたのは、エリザベスの明るく溌剌な性格のお陰と考えた方が気持ちが良い。

思いを切ったダーシーの行動は、やがて思想を、性格を変えるかもしれない。虎が猫に化けるかもしれない。


エリザベスについて


エリザベスは恵まれた容姿や地位に似つかわしくない雑草魂を持つ女性だ。

彼女の性格がそうなった理由はいくつか考えられる。

・自分より美しく上品なジェインが姉であり勝てないと思っていたこと
・自分の殻に閉じこもるメアリ、脳内お花畑のキティとリディアを妹に持ち、救いようがないと思っていたこと
・娘を金持ちと結婚させることしか頭にない近視眼的かつヒステリックな母親と、多少の資産と教養があるのに人の批判にしか用いない父親に対して、嫌気がさしていたこと
・自分の家系が上流階級でも下層に位置しており、ダーシーやビングリーには勝てないと思っていたこと

自分の家族に対して反発していたので上昇志向が強く、ジェインの存在によって女性としての自分にそこまで自信が持てず、あえてどこか投げやりに、活発に振舞っていたようにも見える。

そのため人を批判的に見る目は養われており、その"偏見"の習慣が彼女のプライドだった。


初見でダーシーを"高慢"で嫌な奴だと断じていたが、その偏見の根っこにあるのは上流階級への強い憧れだったのだろう。

ある意味出会った時点で二人は結ばれていたとも考えることができる。

エリザベスはダーシーの地位やスペックに、ダーシーはエリザベスの雑草魂に、互いに無いものを見出し、それらが共通のプライドで結ばれていた。


エリザベスはダーシーとの恋愛でどう変わったのか。

彼女の"偏見"の癖が無くなった訳ではないと思う。というかそもそも"偏見"と呼べるほど彼女の人を見る目は偏っていなかっただろう。

しかしエリザベスは別視点から人を見る目を養うことができた。

人あたりの悪いダーシーにはその裏側の品性や知性、誠実さを
人あたりの良いウィッカムにはその裏側の狡猾や打算、不誠実さを

エリザベスも自らの"高慢"が原因で安易に人を決めつけてしまっていた、という自身の裏側を自覚した事で得られたものだ。

そう考えると、"偏見"とは見方の偏りが不自由であるというより、一方向からしか見ることができない不自由なのかもしれない。


まとめ 〜高慢と偏見とは〜


"高慢"と"偏見"は誰しも陥る意識の罠であり、もう一度よく考えてみたい。

"高慢"は自らが採用する価値観を通して、「他者からどう見られるか」という"偏見"から生まれ

"偏見"は自らが採用する価値観を通して、「他者をどう見るか」という"高慢"から生まれる。

その採用する二元論的価値観は、果たして正しいだろうか。


人間誰しも、その日の気分や現在置かれている状況、誰とどこで何をしているかで、多少なりとも性質が変化すると思う。

そういった様々な表情の中心にその人の本質のようなものがあって、おそらく言語化できないものだ。

安易な二元論に頼らず、自分のそのままを表せるような"高慢"を、相手のそのままを引き出せるような"偏見"を磨いていきたい。


「自分や他人を笑うようなことを書いてはいけないと言われるのなら、最初の一章を書き終えないうちに絞首刑にされた方がましです。」

皮肉にもこの"高慢と偏見"によって後世に残る文学作品が生まれたのだ。

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