見出し画像

瞑想が「思いやり」を通して自制心を高める。 『なぜ「やる気」は長続きしないのか』 2

前回は『なぜ「やる気」は長続きしないのか』(白揚社)を取り上げ、長期的な成功のためには感情、特に<感謝>に注目であると述べましたが、今回は、瞑想が「思いやり」を通して自制心を高めるということについてです。


目の前の大事な仕事や勉強をこなさなければならないのに、SNSの通知が気になったり、買ったばかりの新作ゲームをしたくてたまらなかったりする、もしくは、明日食べるために買っておいた甘いお菓子を、そばに置いておくとすぐに食べてしまう……そういう場合に必要なのは「自制心」です。

(目の前の誘惑に抵抗する能力を測ることに関しては「マシュマロ・テスト」が有名ですが)『なぜ「やる気」は長続きしないのか』で取り上げられていることは、この「自制心」はどうすれば高められるのかということなのです。

しかしながら、仕事にしろ勉強にしろ、そもそもやりたくないことをやっている場合、「意思」の力だけで目の前の誘惑に抵抗し、自分をコントロールするというのは、正直なところ、かなり難しいのです。

心理学者のデイヴィッド・デステノ氏は、『なぜ「やる気」は長続きしないのか』のなかで、以下のように述べています。

ほぼ半世紀にもわたり、私たちは科学に基づいて、未来の目標を達成するための戦略を開発してきた。ところが目の前の欲求を我慢する能力は、一九六〇年代と比べてさほど高くなったわけではない。それどころか、平均すると人々の我慢がきかなくなり、すぐに快楽を得ようとする欲望はかえって高くなっている。個人としても社会全体としても、人間は予期せぬ事態や老後の生活などに備えて貯蓄するより、衝動買いや便利さのためにお金を浪費してしまっている。大切なスキルを学び、磨くことに重点を置かずに、スマホのゲームやソーシャルメディアの方に気を逸らせている。私たちは甘いものを食べてたちまちウエストを太くし、目の前の快楽のために将来の健康をひどく損ねている。

『なぜ「やる気」は長続きしないのか』 デイヴィッド・デステノ 著 住友進 訳 13頁


そして、「私たちは未来についての計画に熱心ではなく、将来訪れる恐れのある状況にあまり関心を払っていないのである」と述べる著者が注目するのは、

「「認知」――建前としては合理的かつ論理的で、人を導く役割を果たすと思われている心のメカニズム――」

よりも、

「「感情」――不合理で、気まぐれな要素とみなされ、招いてもいないのに姿を現すように思えるもの――」

なのです。


『なぜ「やる気」は長続きしないのか』 デイヴィッド・デステノ 著 住友進 訳 白揚社


仕事や練習に懸命に取り組んでいるときに、自分の快楽に対する欲求や困難なことに対するフラストレーションを押し殺していると、新たな誘惑に直面したときの意志の力が減退するばかりでなく、現在集中していること自体が(それが何であれ)学びづらくなってしまう。新しい事実を系統だてて覚えたり、古い事実を思い出したりする能力が損なわれてしまうのである。あなたの脳は感情を抑え込んでいるとき、それ以外のことはあまりうまくできなくなる。だから、意思の力を使えば机に座って意識を集中することはできるかもしれないが、成果はそれほど挙がらない可能性がある。

『なぜ「やる気」は長続きしないのか』 デイヴィッド・デステノ 著 住友進 訳 73-74頁


認知のメカニズムはたしかに自制心を高める力がある。だが、本当に望んだときにしか、そうはしてくれない。このメカニズムは往々にして、道徳的な行動をとらないことこそが、現実には正しい選択であると私たちを納得させてしまう。

『なぜ「やる気」は長続きしないのか』 デイヴィッド・デステノ 著 住友進 訳 68頁


 実際には感情は、優れた決断を下すためのもっとも強力で有効なメカニズムの一部である。そしてこのシステムは人間が発達させた最初のメカニズムでもある。感情的反応は、人間が未来の計画を立てるための認知能力――すなわち人間の脳の前頭葉に存在している能力――を人類が獲得する、はるか前から存在していた。

『なぜ「やる気」は長続きしないのか』 デイヴィッド・デステノ 著 住友進 訳 19頁


そして「長期的な成功に関していえば、そこで必要となる正しい感情」として、前回取り上げた「感謝」のほかに「思いやり」(compassion)を挙げています。


 感謝と同じく、思いやりは社会生活と密接に結びついている感情である。人間は誰とて孤立した島ではない。つまり、なんらかの形で、私たちはみな、仲間を頼って生きている。ただ、感謝の気持ちはほかの人が自分に価値あるものを与えてくれたと気づくことで芽生えてくるのに対して、思いやりはそれとは逆の方向から生まれてくる。簡単にいえば、思いやりは、ほかの人からなんらかの助けや恩恵を受け取っていなかったとしても、他人を気づかう意欲を起こしてくれる。こうして、時間やお金などのリソースを捧げて、ほかの人に役に立つための第一歩を踏み出し、好循環が開始される。ここでいうほかの人は、まだ見ぬ未来の自分であっても構わない。

『なぜ「やる気」は長続きしないのか』 デイヴィッド・デステノ 著 住友進 訳 114頁


さらに、デイヴィッド・デステノ氏が自制心ということに関して言及しているのは、「渇望や利己的な誘惑に陥る危険についての千年にもわたる教えと思考を授けられ、日常的にその恩恵を受けている仏僧」、そして「思いやりと自制心を高めてくれる」瞑想についてです。


 おおむね渇きや欲望と訳される仏教の「タンハー」という言葉は、正確には、心地よい体験を味わいその状態を維持したいという気持ちを指す。逆にいえば、苦しく、不快な経験は避けたいという動機である。突き詰めると、「タンハー」とはいまこの瞬間の喜びに対する渇望であり、そこでは未来の結果など取るに足らないことだとされる。仏教徒はこの「タンハー」を、彼らが「ドゥッカ」と呼ぶ、苦しみ、不安、不幸一般の根本的な原因であるとしている。仏教徒にとって、快楽を得るための自己中心的欲望は、幸福や、あるいは悟りという最終目標の達成を妨げる、無知の表れなのである。自分の倫理観を磨いたり、他人を助けたりするなどの無私の行動をとると、善業を積むことができる。仏教の教えによれば、このような善業を積み重ねることで、究極の目標である解脱に近づけるという。そのような仕組みがあるとすれば、それこそまさに異時点間的な概念といえるだろう。

『なぜ「やる気」は長続きしないのか』 デイヴィッド・デステノ 著 住友進 訳118頁


歴史的な観点から瞑想を考えるなら、ゴータマ・ブッダをはじめとするいにしえの瞑想の師たちが掲げた目標は、テストの点数や記憶力の向上ではないだろう。彼らはむしろ、倫理的決断や思いやりのある行動を培うことや、仏教にいう、苦しみを終わらせることに焦点をあてていたのである。しかし、いま挙げたようなことは、もともと社会的な性質を持つものであった。

(『なぜ「やる気」は長続きしないのか』 デイヴィッド・デステノ 著 住友進 訳 120頁)


特に瞑想に関しては、著者らの科学的な調査によれば、「前の八週間に瞑想をしなかった人のなかで、苦しんでいる女性に椅子を譲ろうとした人はわずか十六パーセントにすぎなかった」というのですが、瞑想を経験した人を調べてみると、「彼らは八週間にわたるマインドフルネス(瞑想)の訓練によって思いやりを抱き、自分の快適さを犠牲にして痛みに顔を歪めている女性を助ける割合は三倍以上、じつに五〇パーセントの増加となった」といいます。

そして「人が親切と寛容さをともなう行動をするためには、自制心が必要となる場合が多い」というのですが、「このような調査結果の数々は全体として、瞑想が思いやりを通していかに自制心を強化したかを示しているといえる」としています。


人が親切と寛容さをともなう行動をするためには、自制心が必要となる場合が多い。その自制心による献身によって救われるのが他人であろうと未来の自分であろうと、目の前の快適さをあきらめて恩返しや将来のすばらしい成果といった利益を得る可能性を増やすためには、背中を押してくれるものが必要だ。そして、常日頃から親切であろうと自分に言い聞かせ、それに応じた行動をとるために意思の力がある程度役立つのは事実であるにせよ、思いやりが自然に湧いてくる方法であるマインドフルネスの実践はそれよりも優れた手段となるだろう。

(『なぜ「やる気」は長続きしないのか』 デイヴィッド・デステノ 著 住友進 訳 124頁)


次の記事へと続きます……。


お忙しい中ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます😊

もしサポートしていただいた場合は、令和の時代の真の幸福のための、より充実したコンテンツ作りに必ず役立てます。