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養老孟司『遺言。』は、「意識」について考えさせられる内容。【感想・書評】

去年読んだ養老孟司『遺言。』(新潮社・新潮新書)を自然散策の休憩中に再読した。

80歳になった養老孟司氏の、久しぶりの書き下ろしである『遺言。』は、ベストセラー『バカの壁』と同じで、新書でありながら内容はとても高度で哲学的であると感じた。


養老孟司という著名な解剖学者が、<遺言>としてどのようなメッセージを現代社会に対して残したのだろうか、というような興味で手に取ってみても、書かれていることのほとんどは「意識」とは何か、ということについてであり、心脳問題に関心がない限り、本書に書かれていること内容を精確に捉えるのは非常に困難だという感想をもった。

具体的には、「われわれの意識は、多くの場合、感覚所与をただちに意味に変換してしまう」、「意味を持たないと思われる感覚所与を排除して、意味に直結するような感覚所与だけを残す」ということを述べようとしている。

つまり、動物にとっては「世界」は、差異の連続であるのかもしれないのだが、「意識」を持つヒトは、「差異」(違いの世界、感覚所与)を同一化、つまり、違うものであっても「同じ」にしてしまうのである。


 われわれの意識は、多くの場合、感覚所与をただちに意味に変換してしまう。「焦げ臭い」から「火事じゃないの」という判断にただちに移行する。そうなると、それまで「その匂いがしていなかった」ことは忘れられてしまう。「匂いがなかった」状態から、「匂いが存在する」状況に変化したことは意識せず、焦げ臭い(感覚所与)=火事(意味)が意識の中心を占めてしまう。一般的に言うなら、だから「意味がない」感覚所与を無視することに、多くの人は意識的ではなくなるのである。それがヒトの癖、意識の癖だといってもいい。

(養老孟司『遺言。』 p33)


『遺言。』では「意識」の問題が扱われている。

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本書『遺言。』では、そもそも差異しかない世界には意味がなかったとしても(動物は、人間のように、世界に対していちいち意味づけをしない)、世界の物事全てには「意味」がある、としようとする、何でも意味化してしまう、「意識」の働きや性質のことを述べているように思った。

このことがつまり、「「意味を持たないと思われる感覚所与を排除して、意味に直結するような感覚所与だけを残す」ということである。


 感覚所与を意味のあるものに限定し、いわば最小限にして、世界を意味で満たす。それがヒトの世界、文明世界、都市社会である。それを人々は自然がないと表現する。そこには花鳥風月がない。でも自然はもともとあるもので、あるものはしょうがないのである。意味もクソもない。

(養老孟司『遺言。』 p35)


a=bはなぜ同じなのか?

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また、「3章 ヒトはなぜイコールを理解したのか」においては、aとbは違うのに、どうしてa=bなのか、という問題について語られている。

本来、このaとbは違うはずなのに、イコールで結べることが、ヒトの意識の特性なのだということに気づかされた。

そして、この「イコール」の問題は、「交換」の話題へと発展する。(例えば、お金と物は違うのに、なぜか交換できる)。



『唯脳論』にしろ、『バカの壁』にしろ、養老孟司が扱っている問題は、意識が意識を意識しているとは、どういうことか、ということに尽きると思う。


一般的に意識というと、デカルトの「われ思う」という、自己意識が普通「意識されてしまう」。本書ではそれにまったく触れていない。自己意識は論理的には自己言及の矛盾を起こす。その問題が解けていないのだから、意識をそこから議論する、あるいはそこにこだわるのは、生産的ではない。私はそう思っている。

(養老孟司『遺言。』 p165)


だが、「意識に科学的定義はない」のであり、「意識」とは何かが、そもそも分かっていないのである。

そして、科学的に解明されていない意識の問題を扱っている本書の内容はけっこう難しいけれど、何でもスマホ・SNS・AIで済ませられるようになってくるこれからの時代や、コンビニの向かいにコンビニがあるような、どこを見ても「同じ」ような風景が広がっている脳化社会を生きるなかで、その「意識」というものと、自分が存在しているこの世界との関係について考えるためのヒントが、『遺言。』という一冊にはたくさん隠されているように思う。


 ヒトの生活から意識を外すことはできない。できることは、意識がいかなるものか、それを理解することである。それを理解すれば、ああしてはまずい、こうすればいいということが、ひとりでにわかってくるはずである。それはそんなに難しいことではない。問題は意識について考えることを、タブーにしてきたことにある。すべての学問は意識の上に成り立っている。それなら意識を考えることは、自分が立っている足元を掘り起こすことである。学問が意識をタブーにしてきたのは、それが理由であろう。学問こそが典型的に意識の上に成り立っているからである。でもここまで都市化、つまり意識化が進んできた社会では、もはや意識をタブーにしておくわけにはいかない。

 本書はそのタブーを解放しようという、ささやかな試みである。

(養老孟司『遺言。』 p180)




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