見出し画像

ブッダの重要な教え<慈悲>とは? 【苦しみの矢をまず抜いて心のストレスを減らす生き方】⑦

苦しみの矢を最初に抜き、心のストレスを減らすために、ブッダの教えや原始仏教について書いています。今回は「慈悲」についてです。

「四聖諦」や「十二支縁起」のほかにブッダの教えとして重要なものには、「慈悲」があります。

この「慈悲」とは、「生きとし生けるものが幸せでありますように」と、差別することなく無条件のやさしさで相手の幸せを願うことです。


「慈悲」という言葉には「いつくしみ」や「他人に対する思いやり」などの意味がありますが、「慈悲」はもともと、「慈」(パーリ語でメッター、サンスクリット語でマイトリー)と「悲」(カルナー)という二つの言葉から出来ています。

仏教学者である中村元氏の『慈悲』(講談社学術文庫)によれば、「慈」は、「真実の友情」「純粋の親愛の念」、「悲」は「同情」「やさしさ」「あわれみ」「なさけ」などを意味するといいます。

また「慈悲は仏教の実践の面における中心の徳である」としています。


ちなみに他人を思いやるためには、一般的に「愛」という単語が使われますが、西洋から入ってきた「愛」という概念を、日本人が正しく定義し理解するのは、けっこうハードルが高いのではないでしょうか。

たとえば、西洋的な愛には、「エロス」や「アガペー」、「フィリア」など様々なものがありますが、「愛」の中には「愛憎」という言葉もあるように、関係がうまくいかなくなれば憎しみや執着に変わるという、自己中心的なものもあります。またこちらから愛を与えたつもりでも、相手から十分に愛されなければ、そのことによって苦しみが生じる場合があります。

画像1

このことに関して、『慈悲の瞑想 慈しみの心』(出村佳子 訳 春秋社)のなかで、バンテ・ヘーネポラ・グナラタナ師は、

「慈しみ」は、社会で一般的に知られている「愛」とは異なります。無条件のやさしさであり、そこに裏の動機はありません。慈しみは憎しみに変わることがなく――愛と憎しみという相反する二面性はないのです。(中略)

 いま愛していても、しばらくすると嫌いになるかもしれません。すべてが順調で穏やかなら愛しますが、悪いほうに向かったときには嫌いになるかもしれないのです。

 このように愛が状況によって変わるなら、それは真の愛――慈しみ――ではありません。性欲や貪欲、搾取かもしれないのです。

と述べています。


一方、分け隔てなく慈しみの気持ちを持つよう心がけるということは、仏教の特長のひとつです。その背景には、全ての生命に優劣はなく等しいという「平等」の考えがあります。


ブッダは『慈経』のなかで、目に見えないものも含めた、遠くや近くの生きとし生けるものに対して、幸福を願っています。また、生きとし生けるものに対して、母親が独り子を守るように、無量無辺に広がる慈しみの心を起こすように言っています。

目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。

何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。

悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。

あたかも、母が己が独り子を命を懸けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。

また全世界に対しても、無量の(慈しみの)意を起すべし。

上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。

(『ブッダのことば スッタニパータ』 中村元 訳 岩波文庫 37‐38頁)

画像4



このような「慈悲」について、バンテ・ヘーネポラ・グナラタナ師は以下のように述べています。

 慈しみは、仲のよい友人といるときに感じるような心地よいあたたかさであり、すべての生命は互いにつながっているという感覚です。人はだれでも自分の幸せを望んでいることがわかるでしょう。

 そこで私たちは、「生きとし生けるものが互いに調和し、感謝し合い、適度な豊かさで、心地よく暮らせますように」という慈悲の願いを、全生命に向けて広げるのです。

 だれの心にも、慈しみの種はあります。しかしその種を、努力して育てていかなければなりません。

(バンテ・ヘーネポラ・グナラタナ『慈悲の瞑想 慈しみの心』 出村佳子 訳 15頁)

画像2


ちなみに後に「慈悲」に「喜」と「捨」が加えられて、四つが一つとして考えられるようになったとされています(四無量心)。


」とは「苦」を離れ「楽」を実現することを共に喜ぶ、共感的な喜びのことであり、「」とは「平静」のことであり、相手に与えても見返りを求めないなど、執着を捨て、何事にも心を動かされないことです。


この「慈悲喜捨」については、『心を救うことはできるのか』のなかで、著者の石川勇一氏が、「出家をせず、心の修行をしながら、清らかに生きていくためにはどうしたらよいでしょうか」としたうえで、

 ブッダは、慈悲喜捨の心を無限に育てるようにと説きました。慈悲喜捨の心を育てながら世俗の活動をすれば、社会のために役立ちますし、自らの心が成長し、煩悩の抑止にもなり、善いことづくめです。人を愛すれば(愛着すれば)その人に束縛されますが、慈悲ならば束縛されることはありません。欲望がなくても、慈悲で生きることは可能です。しかも、慈悲の実践は、社会適応的な修行になります。

と述べていることが参考になります。


また『反応しない練習』のなかで著者の草薙龍瞬氏が、

 慈・悲・喜・捨の四つの心がけを、〝心の土台〟(よりどころ)、生きていく上での基本ルールにすえると、仕事や人生の意味もまた、違って見えてきます。

 慈しみとは、他者の幸福や利益を願う心です。そこから、「貢献こそが大切」「役に立てればよい」という思いが生まれます。

 喜びの心に立てば、人の喜ぶ顔を見たときに、自分も幸せを感じられるようになります。「誰かの喜び」には、もっと意識して、自覚的に「反応」したいものです。

 悲の心に立てば、相手の苦悩を最初に見るという発想を持てるようになります。相手を苦しめること、損害を与えることは、「してはいけないこと」という自戒が生まれるのです。

と述べていることも参考になります。

つまり、慈悲は頭で理解して終わるのではなく、種を育てるつもりで実践することが大切なのです。

そして、つねに自己と他者、物事などに対して慈しみや思いやりの気持ちを持つようにすることは、心の修行にもつながります。

画像4


 慈しみは、「慈」だけでなく、「悲」にも「喜」にも「捨」にもその要素が含まれています。ですから慈しみを実践すると、他の性質も自然に育っていくのです。人の成功を見ても、嫉妬しなくなります。他人が所有しているものを羨ましく思う心は、慈しみで満たされている心には生じません。嫉妬するのではなく、他人の成功を喜び、さらには「すべての生命が繁栄し、幸せでありますように」と願うのです。

(バンテ・ヘーネポラ・グナラタナ『慈悲の瞑想 慈しみの心』 出村佳子 訳 89頁)

 


今回はブッダが説いた重要な教えのひとつである「慈悲」について述べてみました。

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます(^^♪


画像5

『ブッダの智恵で、脳ストレスを減らす生き方 最初に苦しみの矢を抜くための仏教入門』 塩川水秋 著 Amazon Kindleで販売中です😊



もしサポートしていただいた場合は、令和の時代の真の幸福のための、より充実したコンテンツ作りに必ず役立てます。