ホミ・バーバ「擬態と人間について」(『文化の場所』)レジュメ(授業で使用)
(授業で使用。邦訳各段落に対応させ形式段落を作り要約した。注は邦訳訳語や用語に関するものが中心)
植民地主義の戦略としての擬態(148, 149頁)
啓蒙主義以後のイギリス植民地主義言説は両義的な仕方で語る。歴史的使命として植民地支配を権威づける語りを生産する裏で、トリックアート(注1)、アイロニー、擬態、反復の伝統に根付いたテクストが生産されるのだ。擬態は、捉えにくく効果的な戦略である。
植民地主義の〔言説における〕擬態(注2) は、ほとんど同一だが完全には同一ではない差異を有する主体(注3)としての、認識可能な「他者」(注4) への欲望である。その欲望のために、ずれ、過剰、差異が生産されなければならず、そうしたものを生産するために、擬態についての言説は不確定性を持っていなければならない(=もし言説が有意味に指し示すことのできるものとして(注5)、差異が固定されてしまったら、そこにはもはや支配する必要のある「他者」はいなくなる)。しかし、支配すべきものとしての他者のこの不確定性は、支配するために導入される知識や力にとっての内在的脅威、抵抗の記号でもある。
擬態は、規範に対する二重の認識を生み出す。ロック『統治論』における「奴隷」は、(それが完全には同一ではない「他者」に対して言われる場合)合法的な所有形態であるのに対し、(ほとんど同一な主体に対して言われる場合)権力の許し難い非合法な行使となる。
擬態によって生まれる主体(149-152頁)
擬態のアンビヴァレンスは、植民地主義言説のうちに上記の二重認識を生み出すだけでなく、植民地の主体(注6)を「部分的」――「不完全で」あり「仮想の」――主体として生み出す効果を持つ。
チャールズ・グラント「大英帝国アジア人臣民の社会状況をめぐる考察」(1792)の例。グラントは、キリスト教の宣教に基づく政治改革と、会社支配拡大のために「我々と同様の個人的アイデンティティの感覚」を与えることとを必要としていたが、同時に、インド人が自由を求めて反乱を起こすことも恐れていた。そのために、改革は部分的なもの、イギリスの風習の模倣でなければならないとしているが、すると、支配拡大のための道徳上の計画も、キリスト教(そこには異教崇拝の禁止も含まれている(注7))の宣教も失敗してしまうことになる。
マコーリー「教育に関する覚書」(1835)では、植民地主義のもとで「改良された」臣民は、(ここでも、支配関係を保持するためには、完全にイギリス人と一致するわけにはいかず)仲介者、通訳者として構想されていた。こうした擬態人間の系譜を我々は、キプリング、フォースター、オーウェル、ナイポールの作品のうちに、また、アンダーソン『想像の共同体』に現れるビピン・チャンドラ・パールに(注8)、見ることができる。
擬態は「帝国と国民との内的両立不可能性」(注9)を示すものであり、そこでは、「国民」の自然性、それが歴史的使命であることが問い直される。擬態は、(完全に「イギリス化」させてしまう)模写との間にその書法(注10)を出現させる(=「イギリスという国家・国民がインドという全く違う、イギリスとは並ぶこともできないものを支配する」という物語が、完全な「イギリス化」が危険であるという帰結にも向かってしまうと見えてくるところで、もし並んだら支配の正当性はなくなるということを露呈させるために破綻して、その破綻を糊塗しきれない「語り」を浮かび上がらせる)。擬態〔人間〕は、植民地主義言説の語る支配の正当性を象徴するのではなく、その正当性についての言説がほんとうは破綻したものとして提出されている、身振りを、繰り返す。(二つの例に関しては省略)
グラントやマコーリーは、本人たちが、支配と(その正当性と)の表象を行なっていると思いながらも、そこに部分的表象である擬態を用いているがために、その書法や身振りの繰り返しといったものを通して、支配という使命の真正性(注11)に対してアイロニーを生み出す。
擬態による支配/被支配の逆転(152-154頁)
擬態は、「白人化」された背後で実体としての黒人がその主体性を手放す、というファノンが論じセゼールが描いたような事態ではない。擬態は、言説のアンビヴァレンスから生じる権威の撹乱を招く事態であり、絶えず、言説が支配を欲望し移り行くような支配されてない部分、部分対象(注12)を生み出す運動であり、そこではむしろ、権威のナルシシズム(注13)の側が部分的に領有されている。
擬態においては、監視する側と監視される側とが反転する。アイデンティティは再分節化され確たる意味を失う(注14)。このような事態を見るときに、まず指摘できるのは、植民地主義言説における、擬態の産出する他者性の否認(注15)である。擬態のこうしたシステムをさらに、精神分析のテクストを参照しつつ検討しよう。
換喩と擬態(154-156頁)
フロイトの幻想についての定式には、擬態を考えるのに役立つ一例がある。そこでフロイトは、幻想を「どう見ても白人〔=意識における形成物〕にそっくりなのに、何らかの人目を引く特徴によって有色人種〔=無意識における形成物〕の出身であることが現れてしまい、そのため社会から排斥され〔=抑圧され〕、白人の特権をなんら享受することのない混血の人間〔意識下に置かれることのない無意識の形成物〕」(注16)に喩えている。このような幻想=擬態が露わになるのは(≠作られるのは)、それが意識化されることを禁止される地点においてであり、その場所で、(精神分析が解釈を差し入れることで明らかにするような)言葉と言葉との間に現れる。禁じられた欲望としての植民地主義の欲望は、その欲望する対象それ自体を(意識下に)持つことができないまま、実在についての換喩(注17)という戦略をとる。
植民地言説が支配の正当化のために欲望する対象は、その換喩の戦略をとり、例えば、イギリス人であることとイギリス化されていることとの差異、繰り返されずれていくステレオタイプ間のアイデンティティ、伝統的な文化規範や分類を横断した差別的なアイデンティティといったものを生み出す。そうした表象は、「抑圧されたものの回帰」(=擬態という戦略の原理的な転倒が明らかになること)を回避するために取られる戦略である。
植民地主義的擬態において、差異はなくなるのではなく、どこにその差異があるのかが明快に示されないものとして換喩的に与えられる。そこでは、(ファノンやセゼールのいうような)後ろの確たる実体が問題になるのではなく、後ろの実体が確たるものとして現れない(=「まだらの背景の上でまだらになる」(注18))ことが重要であり、それによって部分的に類似したものとしての「アイデンティティ効果」が大量に産出されるのだ。
正当性を問いに付す、茶番としての擬態(156-159頁)
植民地主義の言説の権威に基づく戦略としての擬態は、その権威を一貫していないものにさせてしまうと同時に、擬態において産出する他者性が否認されるときに、被植民者についての知への固執(固着)を生み出させ、植民地における諸表象(=「主体=支配者=白人」、「客体=被支配者=黒人」といった等式)についての問いを生み出させる。その問いのうちで、主体の(支配を可能にする)優先権が揺らぐ(去勢(注19))だけでなく、植民者自身のアイデンティティが問いに付されることになる。
ファノンは植民地的状態にある文化を被植民者に対して語る機会を与えないまま固定されたものとして描いているが、擬態のアンビヴァレンスは、フェティッシュ化(=白人が支配権を持ち続けることを断念しないために、擬態の背後に確たるものがないことを認めようとせず、むしろ、そこにあるものを換喩の運動を通じて欲望し続けること(注20))された植民地主義的文化が抵抗の場でありうることを示唆するものである。それは、換喩によって対象が与えられるたびに、そこで、権威を正当化する実在性が問いに付されるからである。
換喩は、植民地主義の言説の現実に対する態度を分裂させる。そこでは、片方では現実が考慮に入れられながら、もう片方で現実は否認され、擬態としての欲望の産物を生み出す。
エドワード・ロングの例。「(権威づけのさまざまな言辞を並べた上で)こんなことを言うと笑われるかもしれないが、ホッテントットの女にはオランウータンの夫が案外お似合いではと私は思う」(注21)。
換喩の運動は、このような否認の身振りを通じて「抑圧されたものの回帰」を回避して、(認識が不可能であるような)差異を否定し、その代わりに「礼儀正しい」(注22)言説の前提から離れた権威および信念を産出する。こうした茶番劇が支配の正当化に役立つことがあるにしても、明らかにそれは、正当化する語りに求められる合理性や啓蒙性とは相入れないものであり絶望的な努力であると言わざるを得ない。この努力を通じて、植民地主義の権威は、擬態(からその支配できない差異がほとんど収集できない状態としての「脅威」までの間を移り行く)戦略をとりながらナルシシズムからパラノイアの間を動き回る。
擬態において、西洋世界の土台となっている客体(=支配されるべき「他者」)は、実在の部分対象となる。もはや、擬態を語る言説は、対応する現実を持たない茶番劇となり、そこでは実態としての黒い皮膚は換喩の運動に晒され、そうした運動を通じてしか保つことのできない、宗教や帝国の権威が寸断される(注24)のだ。
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