ハイデガーにおける哲学と人間、芸術と人間 ——「芸術作品の根源」を中心に(卒業論文)第3章、結論

(同名、序論第1章、第2章の記事の続き)

第3章 「芸術」とは何か——「真理と芸術」読解


 第2章において、芸術作品と「真理」との連関が論じられた。しかし、ここで検討されたのはあくまで芸術作品(Kunstwerk)を、すでに存在する対象として見る限りでのことであった。ハイデガーは、芸術作品を考えるときには「創造されるwerken」という機会について考えるとが一方では欠かせないはずだと指摘する。本章の議論はここを始点にする。「創造される」という事態がいかなる事態であるかが検討されたのちに、ハイデガーはそのような事態が「創造されている」こととして浮かび上がってくるためには鑑賞する側にも相応しい態度があるはずであるだと議論を進める。このようにして検討されるのが「見守ること」という別の契機である。芸術作品において不可欠の契機としてこの二つが分析されたのちに、ハイデガーはこの契機から「芸術」とは何であるかに向かっていくことになる。

3-1 芸術作品の「創造」の観点から見た「真理」


 第2章において分析されたのは、芸術作品の内部における動向であった。鑑賞という事態にあって、さまざまな形象やその照り返しとして見せる光、美が与えるのは、我々の運命であったのであり、それはそれを根拠づけている「真理」とともにあったのだった。しかし、ハイデガーはこれだけでは芸術作品の作品存在について語り切ることができていないと見ている(43)。第一に問題にならなければならないのは、作品存在の「物的なもの」である。本稿6,7頁で見たように、「物的なもの」と「芸術的なもの」との間には前者が後者の下部構造になっているという関係があったのであり、今見られた、鑑賞の対象としての作品存在にある「芸術的なもの」というものより根底にあるものとしてのそれについて考えなければならない。
 「物的なもの」が媒体として作品存在に対して入り込むのは、作品が「創造」されているもの、「被造存在(Geschaffensein)」である限りである。したがって、この考察は、「創造」という事態について考えることから始められることになる。ハイデガーはこの事態を二つの問いから考えようとする。①「被造存在」と「創造」とは「完成へ至らせること(Verfertigen)」と「完成へ至らされた存在」とどう異なっているのかを考えること、②「被造存在」が作品の作品存在にどうして、どの程度所属しているのかを判断するために何が作品の最も内的な本質であるのかを考えること、がその二つの問いである(44)。
 また、こうした問題にあっても、先に見た作品の本質が真理の生起にあったことも勘案されねばならない。したがって、問題は、作品のすべてが「芸術的なもの」ではなくなったときに再度「真理の本質において、作品のそのような性格がどのようにあるのか」(44)と真理の側からは問われることになる。
 ハイデガーがまず取り掛かろうとするのは①である。芸術作品の「創造」と道具の「製造すること(Anfertigung)」(46)との違いは何か。そもそも区別などないのではないか。「偉大な芸術家は手仕事の能力(handwerkliche Können)を最高度に尊重する」(46)ように、あるいは「テクネー(τέχνη)」という語がギリシア人によって「手仕事(Handwerk)」と芸術の両方を指す語として使われたように、むしろ、「手仕事」の側から「創造」の本質を考えた方がいいのではないか。
 ハイデガーはしかし、そういったのちに、「テクネー」について、ギリシア人たちが手仕事や芸術をこれで表したという見方は「歪曲であり、皮相であり」、そもそも「今日の意味での技術的なもの」なり「実践的な成就」を意味しないのだという(46)。それならば何なのだろうか。

[…]このテクネーという語は知の一つのあり方を名付けている。知とは、見てしまっているということを意味する。広義の見ることとは、現前するものを現前するものとして受け入れることを意味する。知ることの本質は、ギリシア人の思索にとってはアレーテイア、すなわち存在者の隠れからの離脱に基づく。
Das Wort τέχνη nennt […] eine Weise des Wissens. Wissen heißt: gesehen haben, in dem weiten Sinne von sehen, der besagt: vernehmen des Anwesenden als eines solchen. Das Wesen des Wissens beruht für das griechische Denken in der άλήθεια, d. h. in der Entbergung des Seienden. (46,47)

 したがって、「テクネーは決して作るという営みを意味しない」(47)。芸術家が「テクニテース(τεχνί,της)」と言われるのは、アレーテイアに基づき、存在者を「存在の形姿」から「現前」へ向かわせるという活動をしているからである(47)。創造はそれゆえ「生み出される(こちらに持ってこられる)物のうちに、こちらに現出させること(Hervorgehenlassen in ein Hervorgebrachtes)」(48)と特徴づけられる。しかし、ここで解こうとしていた①は難航してしまう。というのは、すでにこの定義は「製造」とは関係のないものになってしまっているからである。
 したがって、この特徴づけを顧慮しつつも問題は「真理の生起」としての「作品」の側から問われることになろう。2−4で行った議論にかえってみると、「真理」を先にハイデガーは「明け開け」として考えていたのだったが、それが求められたのは、そのようにして存在者が存在者として現成する場がある限りで初めて我々がさまざまなものを認識し、生活することのできるからであった。一方で、真理はその本質を発揮するために、そのようにして存在者が現成することを必要としていた(根源闘争)。このことを確認し、ハイデガーは以下のように言う。

真理がそれとして、つまり開けたところとして、あることができるのはただ、それが、自らの開けのうちに、自分自身を整えいれ、整え入れている限りである。
die Wahrheit, kann nur sein, was sie ist, nämlich diese Offenheit, wenn sie sich und solange sie sich selbst in ihr Offenes einrichtet.(48)

 それはつまり「明け開けのうちに何か存在者が存在する必要がある」(48)ことである。真理のこのような性質こそが、「それ自体を作品のうちに置くこと(sich-ins-Werksetzen)」(49)としての「芸術」が真理と関係する原因なのだ。「芸術」において真理が本質を発揮する仕方である「闘争」について、ハイデガーは再び語る。先に見たように、そこでは「大地」は「大地」として、「真理」の「隠れること」としての役割を担いながらも、堅牢さのままで現れる必要があり、そして、そうした現れの仕方を担うのが、「隠れなさ」を担うものとしての「世界」なのであった。闘争のこのような動向はただの「裂け目Riß」(51)——ドイツ語の「Reißen」は「裂く」のほかに「図面を引く」の意味を持つ——、なのではない。そこで現れている対立は「隠れること」と「隠れなさ」という、存在の根源としての「根底としての裂け目Grundriß」(51)と言う性格を持ちつつも、その裂け目を根底から現出へと裂け目のまま向かわせる「上への裂け目(Aufriß)」(51)である。その上、そのように現出しても、なおも、裂け目を「割れauseinanderbersten」させることではなく、常に二者の境界を境界としてみせる——それが「運命」を「運命」としての(「大地」による)強度を持つものとして(「世界」という仕方で明示することを可能にする——、「限界と境界に関しての対立する向き合い(Gegenwendige von Maß und Grenze)」としての「統一した輪郭[取り囲むことで統一を生み出す裂け目](einigen Umriß)」(51)なのだ。
 「創造」とは、そのような「裂け目」のうちに「闘争」を確立することであり、そのようにして得られるものが「形態(Gestalt)」(51)である。ハイデガーはこの語を「上に立てることとこちらに立てること(auf- und herstellt)」(51)としての「立てることと立て集めること(Stellen und Ge-stell)」(51)から考えるべきだという(注47)。
 さて、このような「創造」と「手仕事」との違いは何だろうか。ハイデガーは「創造」においては「被造存在」であることが際立ってくると指摘する(52)。というのも、大地の堅牢さの「衝撃(Stoß)」(53)が我々を前に「作品は存在し、むしろ存在しないのではない(Werk ist und nicht vielmehr nicht ist)」(53)ということを告げ知らせるからである。一方、「手仕事」の場合はそうではない。本稿23,24頁でも見たが(注48)、ここでは、素材は「形相化」(52)され、有用性に移り変わってしまう。道具においてはそれが全く有用であるが故に、むしろ「被造存在」であるという事態は、日常的に忘れ去られているのだ。ハイデガーはこうした告げ知らせは、「芸術家と作品の成立過程、成立状況が知られぬままにとどまる」(53)場合に大きいという。このことも道具との対比で理解できるだろう。成立過程や、状況は、その作品を一つの有用性においてしまうことがある——ジュゼッペ・アルチンボルド(Giuseppe Arcimboldo 1526-1593)の物を寄せ集めるようにして描かれた絵画は大きな衝撃を我々に与えるもののそれが宮廷において楽しみのために書かれたということを知ると衝撃は小さくなるだろう——。
 本節の問題は「作品存在」における「物的なもの」の所在を探ることであった。それは、「物的なもの」を媒体とする「被造存在」というありよう、あるいは「創造」という営みが「作品存在」にあっていかなるものかという問いとして問われた。そのような関心から注目された「テクネー」という語は、「製造」と「創造」とを区別するのには用いることができなかったものの、アレーテイアに基づく現成という特徴づけを与えた。そして「真理」の側からすれば、それは「現成」することによって初めて本質を示すことのできるものであったのだから、「真理」は「真理をそのうちに置く」と予示されていた「芸術」によって確かに齎されなければならないものであることが解明された。その時、現成化の営みは、「闘争」を立てることしての「立て集め」「形態」化として解されることとなる。「創造」のこうした側面は「被造存在」というありようがそこでことさらに露わになることと繋がっている。何故ならば、「闘争」のうちにあって本質を発揮する「大地」の堅牢さが与える衝撃は、我々のうちに「それがあり、むしろ存在しないのではない」という事態を絶えず知らせるからである。それは、物の「存在」という(道具との関わりあいでは常に忘れられている)事態を我々に与える「非日常的なもの(Ungewöhnliche)」(53)である。

注47  Ge-stellは先に脚注51で見たように、ハイデガーの技術論において特別な意味を持つ語であるが、ここでは「あの立てることと立て集めること」と言われているので、「上に立てることとこちらに立てること」とが言われていると解する。なお、技術論において、現代技術の性質が「総駆り立て体制Ge-stell」と呼ばれるのは1949年の講演「総駆り立て体制」が最初だと指摘されている(森 2014)。加えて、ハイデガーはこの語を1953年の「技術とは何だろうか」でも詳細に論じている(GA7, 20-34)が、この講演についてそれが「長く続く支援を負うている」(GA9, 391)とするエルンスト・ユンガー『労働者』を解釈したのは1939年から40年にかけての冬であると自身で述べている(GA9, 390)。1936年のテクストに基づく『芸術作品の根源』のGe-stellが技術論と同一も意味を有していたとは考え難い。

注48 「制作」の観点から分析を行う23,24頁と「創造」から議論するこの箇所の議論は重なっているようにも思われるが、23, 24頁の方では結局「素材」が問題となったのに対し、ここでは「存在するということ」が問題になった点で議論はそれぞれ異なっている。


3-2 芸術作品を「見守ること」


 前章で見たように、作品存在において、それを道具存在と区別するのは、それが「存在するのでありむしろ存在しないのではない」という事実を我々に示す点であった。しかし、このことは、その第一契機を作品の本質が有しているとしても、それだけで起こりうるものではない。そこでは「通俗的な行為と評価、識別と洞察」(54)を退けながら、そうした事実を事実として受け取る我々の態度が必要となる。ハイデガーはこれを「見守ること(Bewahrung)」(54)と呼ぶ。
 こうした態度を我々はどこから獲得するのだろうか。ハイデガーはこの態度を「意欲(Wollen)」を求める「知(Wißen)」に基づくものとしながら、その知の性質を『存在と時間』の議論と平行させる仕方で説明している。

ここで言われた意欲とは、知をともかく用いるものでもなければ、あらかじめ決定されていたものでもない。それは、『存在と時間』の思索の根本経験から考えられている。意欲であり続ける知、知であり続ける意欲は、実存する人間の、存在の隠れなさに、実存的に自分自身を中に入れるものである。
Das hier genannte Wollen, das weder ein Wissen erst anwendet, noch zuvor beschließt, ist aus der Grunderfahrung des Denkens in »Sein und Zeit« gedacht. Das Wissen, das ein Wollen, und das Wollen, das ein Wissen bleibt, ist das ekstatische Sicheinlassen des existierenden Menschen in die Unverborgenheit des Seins.(55)

 最後の文からはここで言われている「知」「意欲」と言ったものが、現存在の動向として先に見たような、それが、自らの根底に「存在」があることを知るとともに、その「存在」について問おうとする意欲であると言うことが理解されるだろう。そうした経験は、なるほど、前節で見たように、——「存在」は忘却されているのが常であるがために——既存の知や意欲とは異なり、それを知る事態に基づいて生起するものである。作品を「見守る」ことも、同様に、作品のうちに、大地の堅牢さと言う事態を見て、それゆえに、「運命」がそこで告げ知らされるようなものとして、作品に直面することに存する。したがって、そこでは、(忘却されている)大地の堅牢さが先行している必要があり、「作品を正しく見守る仕方は、第一に、そして唯一、作品それ自身を通して、そのうちに作られ、描出される」(56)のである。
 2−6で問われていた問いが、ここで最後問われることになる。「物的なもの」とは、当初は、作品における下部構造とされ、次に、それは、作品のうちで「被造存在」として現れるとされた。「被造存在」として出逢われるためには、作品が「存在するのでありむしろ存在しないのではない」という仕方で出逢われることが必要とされたのだったが、今の分析で、それは我々の態度を含めても、なおも、大地の堅牢さに根拠を持っているということが言われた。作品のうちで下部構造となり、こうした出会いを生み出す根拠となっている「物的なもの」を、ここで、ハイデガーは「大地」と等しいものだと結論づけることになる(56, 57)。
 しかし、それと同時に、また次のことが問われることになる。作品において「物的なもの」が大地として生起するならば、作品はそれ自体で、創造される以前から、物的なものと関係していなければならないのではないかということ、これである。ハイデガーは、デューラーがすでにこの見解を持っていたとして、デューラーの言葉「実のところ、芸術は自然のうちに隠れており、それを引き裂く[引き摺り出す](reißen)者がそれを手にするのである」を引く(58)。しかし、この言葉は当たっていない。と言うのは、隠れている自然は、「隠れなさ」のうちに置かれることによって初めて、裂け目として裂き取る[引き摺り出す]ことができるようになるのであるからだ。すなわち、創造という契機があってはじめて、自然は、それが芸術作品として現れるべきものとして「隠れなく」現れるのである。このようにして、芸術は、自然のうちに潜むのと同様に、作品のうちに潜むものでもあるとされる(58)。
 ところで、「芸術」は、本稿11頁で見た議論において、「真理を作品に据えること」と定義されていた。今や、この「芸術」の「据える」という語の持っている二つの動向も明らかになる。一方は、自然のうちに潜みながら、作品に堅牢さを付与することで、のちに見守るものを与えるという動向である。もう片方には、創造するという動向がある。したがって、「芸術」はここで、「作品の中で真理を創造しつつ見守ること」(59)と整理された。

3-3 「詩作」としての芸術


 ハイデガーは、上記のように整理された芸術を、その本質において「詩作」であると語る(59)。この規定には、独特の「言葉」についての理解が関係している(61)。本節では、このことを確認する。
 ハイデガーによれば、言語は伝達のために用いられるものに限らない。ハイデガーが言語活動のうちで重要視するのは、存在者の「命名」と言う契機である。

このような命名は、存在者を、その存在から、その存在へと移し命名することである。このように言うことは、一つの明け開けを投げかけることである。その投げかけのうちで、その存在者がどのようにして開けへ来るのかが告げられる。投げかけは投げることを引き起こすことである。隠れなさはそのような投げかけとして自分自身を、その存在者のうちに、与える[運命づける]。このような投げかけるように告げることは、すぐに、存在者が自らを覆い隠し引き離しているような重苦しい混乱への拒絶になる。
Dieses Nennen ernennt das Seiende zu seinem Sein aus diesem. Solches Sagen ist ein Entwerfen des Lichten, darin angesagt wird, als was das Seiende ins Offene kommt. Entwerfen ist das Auslösen eines Wurfes, als welcher die Unverborgenheit sich in das Seiende als solches schickt. Das entwerfende Ansagen wird sogleich zur Absage an alle dumpfe Wirrnis, in der sich das Seiende verhüllt und entzieht.(61)

 最初の文で言われている「から」「へ」を理解するには、その次の文が有効だろう。存在者は、我々が言語を用いて「命名」する以前から存在していることには、違いない。しかし、そこではその存在者は存在していることを忘却させられている——石のような「物的なもの」が生活のうちでは取るに足らないものとされているように——。「命名」とは、そうした忘却されたものに「明け開け」を与える事態である。そのようにして、存在者は、存在することを忘れられてしまった状態から、まことに存在すること、現前へと立ち上げられる。その現前、明け開けのうちにあって起きることが、三文目以後で語られていることがである。存在者は「どのようにして」開けに来るのか、すなわち、我々に現れる「いかに」を、その命名という事態において、初めて獲得する。それは、その存在者を存在のもとに呼び戻すと言う意味では「運命づける」ことでもある。そうした事態にあって、存在者は、初めて、それまでの「混乱」から引き剥がされて、存在するに至る。このような意味を押さえれば「命名」という事態が、前節に見た「創造」と「見守り」によって、「闘争」を引き起こすことのことを指していることが理解されるだろう。普段の言語の使用=伝達とは違ってこのような仕方での「命名」をハイデガーは「詩作」と読んでいたのである。
 「芸術」はこのような側面から捉えられると、新たな性質を持つに至る。「芸術」によって、「真理」が「創造」され「見守られる」ことによって生まれた「芸術作品」の動向のうちには、これまで見たように「世界」と「大地」とが属していた。この二者は、我々に対して、片方は「運命」を告げ知らせるものであり、もう片方は、そうした「運命」を根拠づける、すなわち、そうした「運命」に直面して存在する我々を根拠づけるものであった。これに加えてある芸術の性質をハイデガーは「原初すること(Anfangen)」(63)という。このことは、「大地」と「世界」の動向をさらに支えるものである。

[詩作的に投げかけること]は、[…]そのことを通して投げ渡したものが、ただただ歴史的な現存在自身の知られずにとどまっている使命である限り決して無からこない。送ること[運命づけること]と、根拠づけることは、それ自身のうちに、我々が一つの原初と呼ぶものの唐突さ[媒介されなさ]を有している。しかし、この原初の唐突さ[媒介されえなさ]は、こちらへ媒介されることのない現れだすことことに特有のものであり、原初が自らをはるか以前から目立たずに準備しているということを締め出すどころか含んでいる。真の原初は、現れだすこととして、常に、一つの予め現れだすことであり、そのうちで全ての到来するものは、覆われているとはいえ、すでに上へと現れださせられているのである。原初はすでに終末を隠し持っている。
[Der dichtende Entwurf] kommt […] nie aus dem Nichts, insofern das durch ihn Zugeworfene nur die vorenthaltene Bestimmung des geschichtlichen Daseins selbst ist. Schenkung und Gründung haben in sich das Unvermittelte dessen, was wir einen Anfang nennen. Doch dieses Unvermittelte des Anfangs, das Eigentümliche des Sprunges aus dem Unvermittelbaren her, schließt nicht aus sondern ein, daß der Anfang am längsten und unauffällig sich vorbereitet. Der echte Anfang ist als Sprung immer ein Vorsprung, in dem alles Kommende schon übersprungen ist, wenngleich als ein Verhülltes. Der Anfang enthält schon verborgen das Ende.

 最初の文では、「詩作的に投げかける」ことについて、条件がつけられながら「無からこない」ということが語られている。投げ渡したものがそれであるような「歴史的な現存在自身の知られずにとどまっている使命」、この箇所はどういう意味であろうか。ハイデガーにおいて、「歴史」とは「本来的なもの」と「非本来的なもの」とに分けられていた。そのうちで、本来的なものと語られるのは、共同性の側面を持ちつつも、なおも、存在するものをして、世界のうちにあり、また死ぬことによってなくなるという事態のことであった。今「知られずにとどまる使命」と言われているものは——むしろ「非本来的な歴史」が我々にとって身近な「歴史」であったことを思えば——、この本来的な歴史の上にある使命であろう。そうであるとすれば、それは、今留意されている存在に関して、のちに待ち構えているもの、すなわち「先行的に関係付けられている(Vorbezogenheit)」という事態である。したがって、ここで言われているのは、我々が存在するということをのちに問わざるをえないという命運であろう。しかし、この箇所は、こう解釈されれば、すでに言われている事柄とも連関していることがわかる。すなわち、芸術作品を創造し見守ることとしての芸術は、そのことを通して芸術作品を生み出すのだが、そこでは、我々の存在してしまっていることとしての「本来的歴史」が——知られないままであれ——始まるのである。
 そうである限りで「芸術」とは、と続く。それが持っているのは「原初の唐突さ」である。運命を与えることと根拠を与えることとのためには、先に大地の堅牢さと言われたような「衝撃」が必要なのであった。ここでの「唐突さ」も、その二者が有しているものとして、それに対応するものとして考えることができるだろう。しかし、その「唐突さ」について語られているのが、新たな事柄である。それはSprungenに特有なものであるというのだ。既訳ではこの箇所は「飛躍」と訳されているが、我々の問題であった「根源(Ursprung)」とは、そこから、我々に対して何者かが現れるようなものであった。このsprungの意味を持ってきたのならば、ここでSprungenを「現れだすこと」(springenの「噴き出す」の意味が対応する)と解釈することも許されよう。そのように解釈すれば、「媒介されることのない現れだすこと」とは、すなわち、我々にとって、日常性として経由されることのない「不気味なもの」として現れることを言っているのだと解せる。そうした現れだすことが含んでいるのが「予め現れだすこと」である。ここのvor-には、「原初」として他のものに先んじてということとともに、「書いてみせる(vorschreiben)」のような模範として、という意味も見出すことができるだろう。原初するものとして「芸術」は、他の現れるものを来たるべきものとして、覆いつつも現れださせ、それとともに現れ出すことを可能にするのである。この可能にすることこそが先に「世界」という語で語られたものである。一方、それを他の全てのものを来るべきものとして、覆いつつも現れ出させるという仕方で見た時には「暗示」であると言える。

3-4 「芸術」は今もありうるか——「放下」について


 最後に注目するのは、ハイデガーが自らの思索のうちで見出した「放下(Gelassenheit)」という在り方に関してである。この概念が登場するのは、1955年に行われた、ハイデガーと同郷の作曲家コンラーディン・クロイツァー(Conradin Kreutzer, 1780-1849)の誕生175年記念式典における講演においてである。この講演は、ハイデガーが原子力について述べているテクストとして現在注目されているものの(注50)、注目している研究のうちでも、しばしば、内容とそれが作曲家の式典でなされたこととの連関は軽視されている(注51)。本節では、この態度を「芸術」との連関で読むことを試みる。それは、哲学と芸術という我々が考えてきた二つのものを、人間がいかになしうるかに関しての示唆となると思われる。
 ハイデガーは、まず、記念式典に際しては「思う」(GA16, 517)ということがなくてはならないということを指摘する。しかし、それは、決してクロイツァー自身について振り返るということではあるべきではない。なぜならば「巨匠の現前は作品のうちでのみ真正なものであ」(Ibid.)り、「巨匠が巨大であればあるほど、その人格は作品の背後へとその姿を消す」(Ibid.)からである。ハイデガーにおいて、「芸術作品」が「巨匠」によるもの(=真正なもの)であればあるほど、そうであるということは、本稿で見た事柄からも確認できるであろう。作品において重要なのは、そこで作っている人物がどうであるかというよりも(このことはむしろ作品を弱めるものであった)「世界」がそれを支える「大地」とともに生起するかなのである。
 だとすれば何を思うべきなのか。ハイデガーが思うべきだとするのは、「一つの堅実な作品は、どのように生じるのであっても、一つの故郷(Heimat)の土地への根付きを欠かせないのではないか」(GA16, 521)という事柄である。我々にあって最も根源的な事態を「存在」として考えていたハイデガーにとって「故郷」とは、物理的な意味(だけ)を持つ語ではない。それは「存在への近さ」を指す語である(GA9, 338)。そのことを考えると、ここで問題とされているのが上記で見た「芸術」と重なり合うであると考えることができよう。すなわち、本来的歴史を原初するものとして、ちょうど死を直視する事態(本稿24頁参照)もそうであるように「故郷の土地への根付き」あるいは「芸術」は「存在への近さ」ということができる。
 こうした事柄を問題にしながら、ハイデガーは、戦後ドイツの荒廃の中で故郷に留まり得た人々たちですら「故郷」を失っているという。それは、彼らが、ラジオやテレビ、映画といった「表象圏域(Vorstellungsbezirke)」(GA16, 521)に囚われているからである。こうした事態をハイデガーは「土着性(Bodenständigkeit)」(GA16, 522)の危機と見做す。
 ハイデガーは、本稿11頁で見たような、世界が道具を、また、道具が世界を規定するという視点にも基づきつつ、この「土着性」の危機を原子力が用いられるようになった「原子時代Atomzeitalter」(Ibid.)の動向に結びついていると考える。その上で「原子時代」の根っこにあるものを近代哲学に由来する「計算する思惟」(GA16, 523)であると指摘する。この思惟によって、世界が算定できるもの、算定すべきものとしてのみみなされると、自然を「一つの大きなガソリンスタンド」(Ibid.)として我々に立ち上がってくる。ここに、様々なリスクを無視しながら、より大きなガソリンスタンドを立てる「原子時代」の基礎が築かれるとともに、我々が根ざしていたものとしての「土着性」が忘れられてしまうという危機が生じるのである。
 しかし、一方で、過去の「土着性」にそのまま回帰するためにそうした思惟を、あるいは技術を捨て去るべきだという立場をハイデガーはとらない。そうではなく、求められるべきは「来るべき土着性(künftige Bodenständigkeit)」(GA16, 526)である。ハイデガーが提案するのは、技術を使用するに際して、それを「ふさわしく使うのと同時に、その使用から自らを自由に保ち、いつでも離すことのできるようにする」(GA16, 526,527)ことである。これが講演の題ともなっている「物への放下(Gelassenheit zu den Dingen)」(Ibid.)である。そこでは、技術的な対象物は、我々との関わりを持つのであるが、我々はそれをあくまで「物」として関わり、絶対的不可避的なものとしては関わらないのである。
 このような関わり方は、「秘密に対する開け(Offenheit für das Geheimnis)」(GA16, 538)と連関している。そこでは、計算する思惟は相対化されることによって、それがいかにして我々を支配しているかという次元から見られることになる。そのようにして立ち振る舞うことのうちに、計算する思惟の弱点を見つけるとともに適切な距離をとり続けるところに、(ハイデガーは明示していないものの)「来るべき土着性」が可能になると言うことが言えるだろう。
 芸術作品との関係は、この「放下」や「秘密に対する開」といった態度を獲得する方途にあると言うことができるだろう。ハイデガーは、講演の最後に次のように語っている。

おそらく、この今日の記念式典はそれに向かって一つの衝撃を生み出すだろう。我々はこの衝撃を受け取ろう、その時に、我々は、彼の作品の由来、すなわち故郷ホイベルクの根本的な力を考えたことになる、それによって、コンラーディン・クロイツァーを追憶したことになる。
Vielleicht gibt die heutige Gedenkfeier dazu einen Anstoß. Fangen wir diesen Stoß auf, dann denken wir an Conradin Kreutzer, indem wir an die Herkunft seines Werkes denken, an die Wurzelkräfte der Heuberger Heimat.

 この文章で語られている「衝撃」とは、それが受け取られることで考えられたことになる「作品の由来」「故郷ホイベルクの根本的な力」だろう。それゆえハイデガーは自らの講演ではなく「記念式典」、芸術作品とその根源について思いを致す場が、それを生み出すと語ったのである。
 このことは「芸術」において起きている事態からも考えることができる。「芸術作品」が、我々に与える「堅牢さ」「不気味さ」は、我々の計算的な思惟、技術の中にあって我々が技術を用いるために用いることを強いられている世界観が、破壊されることを経験する。一方で、そうした世界観は、そのうちで「明け開け」という事態を生み出すのだった。芸術作品は、技術的世界が開くのと同様に一つの世界を開く。しかし、芸術作品は、「芸術」の「原初する」という動向に結びつきつつ、そのうちで、殊更に、多くのものを覆い現れさせる。この、覆い現れさせるという殊更に芸術作品において見られるありようは、「衝撃」として、技術的世界にも「秘密」が存在することとともに、それに対する態度が容易に(安易に)取りうる物でないということを「見守ること」という、作品に応じてしか生起することのない芸術作品の我々に要求する態度として、我々に暗示するのだ。

注50 例えば國分(2019)、戸谷(2020)。
注51 戸谷(2020)では言及されていない。國分(2019)80,81頁では記念式典であることはお構いなしに強引に議論が進んでいると評されている。

結論


 我々は「芸術作品」がいかなるところからその本質を我々に示すようになるのか(=「根源」)、という問いをハイデガーの議論のうちに求めていった。第一章においては、芸術作品がその下部構造として「物的なもの」を持つことが指摘され、それを描くモデルが求められたのだったが、それは従来の哲学からは引き出すことができなかった。次いでハイデガーは何か示唆が得られることを望みつつ「道具」について検討したのだったが、そこではゴッホの絵画が参照され「道具」の「信頼性」という規定が獲得されたのだった。ハイデガーはここで参照したゴッホの絵に立ち返り、「芸術作品」の本質を「真理の生起」と、その「根源」としての「芸術」の本質を「真理を作品のうちに据えること」と予示した。第1章の後半においては、このように議論が確認されたのちに、その議論の性格について検討をした。『杣道』という論文集の題にも従うように、細く道なき道を進むようでありながら、最終的には一つの命題を掴み取ってしまう杣人ハイデガーの議論は、我々の目の前にあるものとそれの根源としてあるそれ自体思考不可能なものとの間を往復することを目指しており、その議論は、同時に「形式的暗示」と言う仕方で、あらゆる人に対して、その往復する道のりを、また、その道の先にある思考不可能なものを暗示する性格を持っているものであるとされた。それと同時に検討されたのは、ハイデガーがこのような議論に際して用いた芸術作品のうちにもこうした性格があるのではないかということだった。一方で、こうした議論は、ハイデガーの指摘自体が予示にとどまることと並行しつつ、ここでは深く検討され得なかった。
 第2章においては、先に予示されるに至った「真理」とは何かが検討されることになった。作品の側から検討するためにハイデガーが用いたのはギリシアの神殿であった。そこで生じている事態は、我々の「歴史的な命運」が告げられるという事態だったのであり、それは「命運」に実質を与えるものとしての「世界」と根拠を与える「大地」の「闘争」として描き出された。真理の側からこれを検討するとき、ハイデガーは認識と事物との一致という従来の真理概念を批判する。そうした一致を支えているものとして、存在者を存在せしめる場こそがハイデガーにとって真理であったのであり、それは「明け開け」として語られるとともに、その「明け開け」における事態は「根源闘争」として描き出された。「芸術作品」と「真理」との連関は、このようにして二つの「闘争」の並行性として描き出されたのだった。「闘争」のなかに「根源闘争」が浮かび上がってくる事態こそが「美」であると語られる。「美」のこのような性格は「芸術作品」と「真理」との関係を、「哲学」と「真理」との関係とは異なるものにしていた。前者の関係こそが「真理」を惹起させるのであって、後者はそれに対する反省的な知として考えられることとなった。
 第3章においては、前章では作品の側から語られていた「芸術作品」と「真理」との連関が人間の営為という側面から捉え返されることになった。これは同時に「据えること」として考えられていた「芸術」を考えることとも連関していた。まず、取り上げられたのは、芸術作品の「創造」という事態であり、これは「真理」を現成させることとして考えられた。一方、そのようにして現成させられていることは作品のうちにあっては「存在するのであってむしろ存在しないのではない」という性格を持っていたために、そのようにして作品に対峙するという我々のありようもまた「芸術作品」の成立に関わっていることとされた。このようにして分析されたのが「見守ること」である。「見守ること」とは、このように議論のうちから出てきたものであり、それゆえ、どのような態度を指しどのようにしてその態度が得られるのかが問題となったが、この問題は作品の存在性格から考えることのできるものだった。作品が、そこにおいて「真理」を初めて示すものなのだとするのならば「見守る」ための態度もその作品において学ばれねばならないというのがそれであった。「創造」と「見守ること」という二つの事態をもって「据える」の内実が明かされることになった。その内実の理解は「芸術」に、「世界」という仕方で「運命づける」ことと「大地」という仕方で「根拠づける」こととの他の動向があるということを示すものだった。それは「原初する」という性格だった。それは全ての到来するものを、隠れた姿ながらも、「予め現れさせる」ものであり「上へと現れさせるもの」として、暗示として理解された。最後の節で検討されたのは「芸術」の危機に関してであった。この危機は「計算する思惟」と「現代技術」とによってもたらされたものであったのだが、これに対して「放下」という方策が提示されていた。この概念は「芸術」を再び可能にするものであるとともに「芸術」によって暗示されるものであるということを確認した。

参考文献(序論、第一章、第二章のものも含む)


一次資料
ハイデガーの著作からの引用は、全集版(:Heidegger, Martin, Gesamtausgabe, Frankfurt am Main:Vittorio Klostermann,1975ff.).を用い、以下の略号と頁数を表記して指示した。挙げた邦訳を参照しつつも適宜改訳した。
GA2: Sein und Zeit
——ハイデガー『存在と時間』(『世界の名著』62)原佑・渡邊二郎(訳)、中央公論社、1971年。
GA5: Holzwege
——ハイデッガー、マルティン『杣道』茅野良男・ブロッカルト、ハンス(訳)、創文社、1988年。
——ハイデッガー、マルティン『芸術作品の根源』関口浩(訳)、平凡社ライブラリー、2008年。
GA7:Vorträge und Aufsätze
——ハイデガー、マルティン「技術とは何だろうか」『技術とは何だろうか 三つの講演』森一郎(編訳)、講談社学術文庫、2019年。
GA9: Wegmarken
——ハイデッガー、マルティン『道標』辻村公一・ブッナー、ハルトムート(訳)、創文社、1985年。
——ハイデッガー、マルティン『「ヒューマニズム」について パリのジャン・ボーフレに宛てた書簡』渡邊二郎(訳)、ちくま学芸文庫、1997年。
GA13: Aus der Erfahrung des Denkens
GA16: Reden und andere Zeugnisse eines Lebensweges
——ハイデッガー、マルティン『放下』辻村公一(訳)、理想社、1963年、5-31頁。
GA40: Einführung in die Metaphysik
——ハイデッガー、マルティン『形而上学入門』川原栄峰(訳)、平凡社ライブラリー、1994年。
GA56/57: Zur Bestimmung der Philosophie
——ハイデッガー、マルティン『哲学の使命について』北川東子・ヴァインマイアー、エルマー(訳)、創文社、1993年。
GA58: Grundprobleme der Phänomenologie
——ハイデッガー、マルティン『現象学の根本問題』虫明茂・池田喬・シュテンガー、ゲオルク(訳)、創文社、2010年。二次資料
Figal Guenter „Ein Bauwerk, ein griechischer Tempel, bildet nichts ab.“ ― Überlegungen zur Architektur im Anschluss an Heidegger ―, 『Heidegger-Forum』、 第十一号、ハイデガー・フォーラム、2017年、42-55頁。
——フィガール、ギュンター「「建築作品は、ギリシアの神殿は、何も模写しない」―建築についての考察 ハイデガーとの関連で―」『Heidegger-Forum』貫井隆・酒詰悠太(訳)、 第十一号、ハイデガー・フォーラム、2017年、56-70頁。
池田喬「事実性の解釈学 初期フライブルク期という「道」」、秋富克也・安部浩・古荘真敬・森一郎編『ハイデガー読本』法政大学出版局、2014年、17-26頁。
岡山敬二「人間への問いと思索への祝祭——ハイデガー『芸術作品の根源』の根源をさぐって——」、『桜文論叢』、第99巻、日本大学、法学部、2019、77-112頁。
https://www.law.nihon-u.ac.jp/publication/doc/treatise/98/06.pdf(2020年10月29日アクセス)
小田部胤久『西洋美学史』、東京大学出版会、2009年。
國分功一郎『原子力時代における哲学』、晶文社、2019年。
古東哲明『ハイデガー=存在神秘の哲学』、講談社現代新書、2002年。
小林信之「ハイデガーと美への問い——無関心性をめぐって——」、『美学』、第49巻1号、美学会、1998、1-12頁。
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https://doi.org/10.20631/bigaku.40.2_50(2020年12月29日アクセス)
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瀧将之「芸術作品における真理の問題」、『Heidegger-Forum』 、第十一号、ハイデガー・フォーラム、2017年、1-14頁。
http://heideggerforum.main.jp/ej11.html(2020年12月29日アクセス)
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戸谷洋志『原子力の哲学』、集英社新書、2020年。
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森一郎「ハイデガーにおける形式的暗示について」、『ハイデガーと哲学の可能性 世界・時間・政治』法政大学出版局、2018a年、3-23頁。
森一郎「哲学的言説のパフォーマティブな性格について」、『ハイデガーと哲学の可能性 世界・時間・政治』法政大学出版局、2018b年、85-100頁。
渡邊二郎『ハイデッガーの実存思想』、勁草書房、1985年(新装版)。
渡邊二郎『芸術の哲学』、ちくま学芸文庫、1998年。
渡邊二郎『歴史の哲学』、講談社学術文庫、1999年。


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