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ある 本 で「 六 然 訓」 という のを 見つけ まし た。 人生 で 守る べき 六つ の 教え で、 中国 明 時代 の 崔 銑さいせん という 人物 が 王陽明 に 捧げ た という 処世訓 です。 こんな 内容 です。 自らのことは、世俗にとらわれ ず(自 處 超然)じしょちょうぜん 人には、 穏やかに優しく(處 人 藹然)しょじんあいぜん 何かあれば、素早く決断し( 有事 斬 然) ゆうじざんぜん 普段は、静かな澄んだ心で( 無事 澄 然)ぶじちょうぜん う
新たな古民家再生のプロジェクトが始まります。 心と身体がととのうための家が出来る。 風と光が織りなす空間に人と人とが重なって、つながってそして孤独にもなれる家。 食と農と手仕事が生まれる家、そんな家の再生を古民家Dr オカムラさんとわこさんとやっていきます。
2022年1月18日 くまもとむらづくり人材育成塾にて講演した内容を画像と一緒に記載しています。 私のプロフィールです。 昭和33年生まれ、来月2月で64歳になります。 昭和56年 熊本大学工学部卒 卒業後、機械メーカー、電機メーカー、つくばの環境研究所、財団法人、自治体のまちづくりセンターの事務局長など全国を転々として多様な仕事を経験してきました。 そして、55歳で脱サラして農家となり、現在 山鹿市で自然農を中心とした田舎暮らしをしながら、持続可能な地域社会を模索
「夢」と「志」(こころざし)の違いってどう思いますか? 「夢」とは、自分に向かうこと、「志」とは周りに向かうこと。 私の「夢」は地球一周旅行をすることです。は、私に向かうこと。 私の「志」は地球一周旅行をして、異文化に触れてそれを日本の子供たちに伝えて人類が幸せになるのを助けること。は、周りに向かうこと。 どちらが、いいですか? 私の「志」を考えてみた。 身の回りにアルモンで田舎暮らしをする、は私の「夢」でした。 でも今、私の「志」は、身の回りにあるも
パートナーからの話を聞いているとき、とても不快になることがある。 それは、本人の気持ちを吐露しているのだけれど、僕の身体が熱くなり、心臓がドクドクと高鳴り、頭に血が上ってくる。 それが不平・不満・非難などに聞こえるとき。それが僕の理由ではなく、本人の理由からの結果であろうとき、僕は聞きたくない!となる。 それは、ずっと母から言われた愚痴や不平や不満を聴いたときの子供ごごろからの身体的感覚がよみがえってくるから。 僕の過去の未完了の不満が出てくるからなのかもしれない。
ゆっくり いそげ カフェからはじめる人を手段化しない経済 影山 知明 2015年 を読んで考えたこと。 問いを生きるのではなく、人生から問われた「答え」を生きること(私の主張) ○本書の趣旨 この本は、東京西国分寺でカフェを開店し日本一のカフェになった主人公のカフェから始める経済の話である。 この世の中の経済は、お金を稼ぐこと、資本を増加させるが目的とされ、その手段として人を使う。人が手段化され、費用として消耗品として扱われる。 そんな社会の中でカフェが担える役割とし
子供のころからいつも何かから追いかけられている感じがしていた。 もっとしっかりしなければ、もっと勉強しなければ、もっと元気を出さなければ・・・。 何もしないでいると、悪魔が出てきて囁く・・そんな怠慢でいいのか?ダメに人間になっていくよ!みんなは勉強したり働いたりしてるよ!と・・・ アドラー心理学では、「受容」という言葉がキーワードとしてある。自らを認めることだ。ダメと思う自分も受け入れることだ。このままで良いと思えることだ。 これを認めるためには、「感謝」のことば「あ
特別であろうとせず、誰とも競争せず、批判もせず、 普通が幸せであることを感謝しよう。
自分に否定的なことを言われると、かっと(イラッと)なってすぐ反論したくなる。 間違いだよと指摘されると言い訳したくなる。 それって、自分は正しい、間違っていない、これまでこれでやってきたという(間違った)自信があるから。 でもね、人間は完全な人はいない。つまり自分も完全ではない。自分は、いつも正しいことをしているという「思い込み」を捨てること。 自分の言動・行動を違う意見で指摘されても、それを、そうかって!受け入れる「勇気」を出すこと。
と聞かれるのがつらい。自分でも何がしたのかがわからない! そんなことないでしょ!今までさんざん好きなことやってきて。自分のやりたいことをやってきたんでしょ!と言われる。 でもほんとは僕は何がしたいんだろう・・・。 好きなことをしよう好きなことをして生きていこうと思った。 山登りが好き、本を読むのも好き、おいしいものを食べるのも好き・・・。 でも満たされない気持ちは何だろう? その好きなことをすることが、自己中心的であるから。そこで、それを通じて他者に貢献できること
人に寛容になるためには、自分を許すこと。 「いい加減な人」=良い加減のことをする 「自分で自分に甘い人」=まあ、いいっか!と思える 「適当な人」=自分の能力に見合った仕事をする になればいい。 あなたは、なれますか? なれない! なぜ? 人からよく思われないでしょ! 自分で自分を認めてほめてあげればいいんだよ。
人が優越性を実感できるのは、他人と「競争」して優位に立つということではなく、 自分がいる場所から少しでも自分が「前に進んだ」ということが実感できることである。他人から追い越されようが、追いつけなくてもです。 対人関係の軸に「競争」を置いていると対人関係の悩みから逃れることはできません。 前に進むということは、人生の課題に直面し、それを克服していくことです。もしくは、なりたい自分に少しでも近づくことです。 そしてそれは、他者への貢献というかたちで実践されることが大切です
僕は気持ちを伝えることが苦手です。なんでも頭で考えて、自分の考えを伝えてしまいます。もしくは、こんなことがあったよと、情報のみ伝え、そこでの気持ちは伝えない。 また、相手からの気持ちを批判・非難と頭でとらえ考えて、感情的になる。気持ちと気持ちをやり取りするコミュニケーションの回路が無いかのように。 気持ちってどこにあるの?自分の気持ちがわからない! 心にあるの?こころはどこにあるの?・・・・今でも考えている!! 気持ちを感じていないよね。気持ち=怒っている。悲しい。で
なりたい自分に適した環境をつくるように、ものの見方、考え方や人との付き合い方を見直しましょう。環境が人を作るのです。 信念が変われば、思考も変わる 思考が変われば、言葉も変わる 言葉が変われば、行動も変わる 行動が変われば、習慣も変わる 習慣が変われば、人格も変わる 人格が変われば、運命もかわる (マハトマ・ガンディー) ここで僕が注目したいのは、「思考が変われば、言葉も変わる」「言葉が変われば、行動も変わる」というステップ 言葉が変わるとは、コミュニケーシ
目標(目的)が変われば、行動が変わる、行動が変われば、習慣が変わる。習慣が変われば日常が変わる、日常が変われば人生が変わる。
僕は妻から小さなことでも要求されると、すぐかっとなって(怒りの感情)しまう。 それが積み重なって、妻と不仲になってしまった。夫はすぐ怒るひと。私を大切にしてくれない人。怖い人。となるわけ。 怒りの感情はどこから来るのだろうか?そういう感情は無意識のなかにあるのでしょうか? そうではなく、相手を支配する目的ために怒りが出てきた、自分が不快、不安にならないようにする目的ために、怒りで要求を中断させたと考えることができるのではないか。 そうなると、僕は無意識ではなく意識的に