見出し画像

書きたい気持ちにまかせて逸れてしまっても、生きたいように生きてるただのことばを。

……うまく言えるか分からないけれど、書いてみようと思います。

物語のことばと、エッセイや日記を書いているときのことばについて。

それから、すごく乱暴な言い方になるけれど、たぶん自分は、物語や小説の世界の人たちや、それを見つめる語り手の、エッセイに近しいことばが読みたいのかもしれない、ということについて。

ふだん物語を読むひとも、そうでないひとも、今は軒並みくたびれてるというか、軽からぬ疲れを抱えながら過ごしてる気がしています。

でも、それでも多く読まれてるのが、ブログやエッセイのことばだったりして、だとしたらそこには何かが……分からないですけど何かがあるような気がしたんです。

たくさんの人の、確かに今生きている誰かのことばには、すごくエネルギーがあります。運動したあとのスポーツ飲料みたいに、読むとすっと浸み込んでいきます。主に、わたしの把握しているわたしの弱ってる部分に、充てがわれているように思います。

じゃあ、物語のことばは……と思ったときに、わたしの把握していないわたしの部分に、気づかないうちに蓄えられているような気がしたんです。だから、すぐには分からない。「ん、いやこれ、面白いんだろうか?」なんて思いながらするする読んでしまったりして。まるでわたしの知らないわたしがページをめくっているみたい。声に出してみたら、かさなる、乗り移る。息づかいを感じたとき、「あ、このひと、生きてる」と感じられたりする。「この世界、ある」って分かる。生きてること、ただ「ある」こと以上に、エネルギーのあることなんてそうそうない。それからわたしの知らないことが、まだまだたくさんあるってことだけが、ぶわあっと広がって、理由の分からないなみだが溢れたりする。

……そうだ。作り物だから、信じられるんだ。おっかなくても、踏み出すことができるんだ。そして踏み出したってことだけは、わたしの中に残る。現実でも、あたらしい座標を見つけられるようになるし、ならないこともある。それがいつになるかは分からない。でも、信じてもいいんだと。心から身を預けてみていいんだと思える瞬間は積み重なっていく。

書き始めたときに、書こうとしていたこととは、違うものに行き着いたとしても、生きてたなら、そういうこともあるんだと、「忘れ物はない?」って声をかけるような距離感で、作ったものを送り出していきたい。(あなたがひどい目に遭わないように、わたしはできる限りのことをするつもり。)

それが、ぜんぜん別の場所で、別の機会に、わたしが振り上げかけた手をゆるめることにもつながるんだと思う。当たり散らしかけた気持ちを、ほんのわずか消火したりもする。優しくあろうとして、まっすぐに優しくできるような自分じゃあないけど。

算段は、ある。星の数ほど。
だから、良くなっていくことを諦めたりしたくない。うぐぐって声に出して、足掻く。

話が、逸れに逸れてしまいました。でも、無関係じゃなかった。

物事を良くしたいって気持ちを、エネルギーを受け取りたいと、たぶんいつも思ってる。無意識に、つよくつよく。ほとんど飢えてるみたいに。だから、完全な作り物にこそ、ドキュメンタリーは滲んでいい。真摯な近況報告みたいな正直なことばがもっと溢れかえればいい。全身でそれを浴びたい。

出来得るなら、いつだって獣じみてたい。踊らないのはもったいない。歌わないのは。叫ばないのは。