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「何もしない」をする1日

ユダヤには、シャバットと呼ばれる習慣がある。

シャバットとは、7日目に「その日は何もしてはならない」という戒律を設け、強制的に「何もしない」を実行する。

具体的には、少し極端であり、強制力を持って行うようですが、これはおそらくリセットをかけるため、ゼロに、ニュートラルに立ち戻るために取り入れられているもののようです。

私たち日本人は、いつも忙しく動くことによって、様々な成長を遂げてはきたものの、その反動として、休むこと、何もしないことを忘れてしまいました。

仕事がメインとなる日本人は、事実上の休日は設けていても、またその休日にも何かをしようと動いてしまいがちです。

これはもう、遺伝子に組み込まれているかのようで、「何もしない」に違和感を感じます。

それだけならまだしも、「何もしていない」「休む」「手を抜く」ことが無価値であり、それがまるで悪かのようにも感じ、それが様々な苦しみを生み出し、互いに苦しい社会を作り出してしまっています。

本来は、何もしなくても成立する宇宙なのですから、何の問題もないはずなのですが、頑張ること、我慢することがスタンダードとなり、それがフラットライン、ニュートラルポジションになることによって、何だか良くわからない焦燥感によって動くようになってしまっています。

このスタンダードなラインを戻し、自分たちの作り出したゼロポイントではなく、宇宙としてのゼロポイントへと立ち戻るために、シャバットなような習慣が必要なのかもしれません。

悩んでいた頃、こんな言葉に出会いました。

「頑張っている時点で、それは終わってる」

この言葉は、強く私の心に響きました。

幼い頃から、頑張っている状態が良しとされ、休むことは怠惰という価値観を植え付けられてきた私たち。

もうそれはやめても良い時が来ていると思う。

「何もしない」日があってもいい。

生命体である私たちは、ずっと頑張り続けることなど出来ないのだから、何もしたくない日は、何もしなかったらいい。

その「何もしない」をし続けると、そのうち何かをしたくなってくる。

そうやって、頑張ること、我慢することをやめてしまえば、ずっとやりたいこと、楽しいことを実現し続けることが出来るはずだから。

自己一致させることが出来れば、自分の中の時間軸はひとつの点になり、過去や未来へ意識が分離することもなく、「今」を生きられるようになってくる。

その、時間の歪みを取り戻すために、「何もしない」という余白、遊びのようなスペースは必ず必要なのだ。

だから今日も、私は「何もしない」をする。

もちろん、沸き上がる衝動のようなものを感じたら、何かをしてもいい。

けど、それだけに価値があるのではなく、何かをしてもいいし、しなくてもいい。

どっちでも良くて、その価値は同じだという視点から外れないようにすれば、ネガティブはどこかへ消え去って行く。

どちらも等価値であって、全ては単なる遊びでしかないという視座によって、心は安堵し、そのうち全てが楽しくなってくる。

この視座にいる時、脱力することができ、宇宙と一体となる感覚、自然体と呼ばれる感覚を得られる。

今この瞬間から、「何もしない」をやっていくと、私は一体何をやり始めるだろうか。

楽しみにしながら、私は私を観測してみようと思う。

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