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1回死のう。14年かけた命題の証明



ソクラテスを探していた。



25歳。中学生からの14年間。



私にはどうしても証明しなければいけない2つの命題があった。中学生のとき、ふと抱えた疑問。それは余りにも当たり前に、生活に溶け込んでいた。

考えても答えは見つからなくて、そのうち「この当たり前が、当たり前であること」を証明するのが宿命だと思うようになった。プラトンだと思いたかったが、ただの厨二病だった。

私は実験してみた。だが、途中で分かったことは、どうやら現代社会で私の命題は「間違っているらしい」ということだ。

私の祖父母、父母は、人の上に立ち、“人として正しい生き方”を説くような人で、立派だなあと思っていた。彼らが私を「間違っている」と言った。

だが、どう間違っているのかが全く分からない。「間違っているらしい」からには、実験を進めることもできない。すると必然的に、「それ、間違ってるよ」と教えてくれる「私のソクラテス」を求めるようになった。

同時に、私は立派な人間になれないかもしれないなと思った。


本を読んでも、哲学者や心理学者に何を言われても納得できなかった。本や哲学者が調べてきた「これまで」ではなく、時代が大きく変わった「今」悩んでいること、そして「好きな人の言うことしか聞かない!」というクソガキだったことによる弊害だ。「私のソクラテス」は、私が尊敬し、愛すべき対象でなければならなかった。

心にひっそり命題を抱えながら生きた。それでいて思考力、対話力のなさは激しく、人に話せば「何言ってんの?」と相手にされなかった。それが怖くて、話をすることも減った。日に日に「私のソクラテス」の必要性を感じていった。



あれから14年。



ソクラテス探しの結末は、2人、「私のソクラテス」が見つかった。


8年前、プラトンぶる私に一言声をかけて去った同い年の彼女。当時「なんか怒らせちゃったかな」なんて暢気に思った。彼女の一言は私の心に重く残り、今ようやくその言葉の意味が分かるようになった。

彼女はその後も時々やりとりをしてくれたが、その度に「こいつまだこんな所にいるのか」と思っただろうし、今もあらゆる面で私は彼女より8年以上遅れている(劣っている、の方がしっくりくる)。数年前に起業した彼女は、私が今後10年どう生きていこうかとあくびをしている間に、多くの人を笑顔にしている。


もう1人は、私が問答法(ソクラテスと対話すること)を望むと「なんやねんそれ」と笑うような人だ(実際そんなやり取りしたことはないが)。彼は後天性2割、8割は“天然物”を感じさせた。

この2人がきっかけで、先日、2つの命題が「偽」だと証明できた。14年かかった。

三平方の定理のように、誰がどう見ても「正」という証明ではなく、現代における理論上は間違いなく「偽」であることに私が納得しただけだが。それでも14年間消えなかったモヤが、消えた。


証明、実験ができそうな学部やサークルで4年間卒論に向き合ったが、在学中に証明には至らなかった。その頃は2人のソクラテスには相談することすら、卒論の内容さえ怖くて話せなかった。その代わり、教授含め学部の賢人たちに甘えに甘えた。この賢人たちには感謝してもしきれない。

14年間の命題はもう私のライフスタイルで、身体の一部で、時々私を闇に落としては、一時の快楽で持ち直させ、だが心の奥で早く解放されたがっていた。いっそ「お前間違ってるぞ」と頬を叩いてほしかったし、それは親の役目だろと思ったこともある。

因みに2人のソクラテスは、私に「間違っている」と言うことも頬を叩くこともなかった。証明はあくまで私の能動だった。「答えは誰かに教えてもらうのではなく自らの手で導き出すもの」それさえ2人が信念として持ち合わせていたのかは分からないが、最後までソクラテスだった。そう考えると、親もそうなのだなと今は思う。逆に私は、それさえ分からない無能だった。

酔っぱらった大学の教授に「お前の研究、あれ、サイコパスだな〜ハハハ!!!」と手を叩いて笑われた。ああ、やっぱり私は立派な人間にはなれなかったなあと思うのと同時に、ああ、これは笑い飛ばせるものなのかと少し安堵した。教授は引きこもりの過去を持つ生徒に「や〜い引きこもり〜」とも言っていた。教授も、証明はしてくれなかった。



さて、命題証明を終えた今思うこと。



とびっっっきりの無駄だったなあ。



命題は当たり前に「偽」だった。素直に受け入れていたら、99%人生変わっていた。意地の代償がどれほど大きかったか、命題証明を終えて気づいた。

三半規管を持っていかれ、過呼吸まで嗜むようになってしまったのは無駄ではなく被害だ。誰よりも長生きすることを掲げている私だが、このせいで寿命は縮まった気しかしない。



考えても何の役にも立たないので、こうして悲しくiPhoneメモに書いている。


個人的に得たものだけはでかい。まず肩凝りが治った。
自分の「正しい」と「間違い」が自信と根拠を持った。
違う言い方をするなら「幸せ」と「不幸」。



だが1番の学びはこれだ。



「今疑問に思うことって、大抵偉い人たちが研究したり、歴史が証明したりしてきたことなんだよね。本を読んで、有難く素直に受け取ろうね。そして今を生きる私たちは、過去を受けて『素敵な未来』を作っていこう!!!」


みんないつから知っていた?人生が短いこと。
全てを証明する時間なんてないこと。




私の疑問は、哲学だった。
どうして義務教育に哲学はないのだろう。

「みんな違って、みんないい」なんて言ってくれるなよ、あるだろ最低限。そうじゃなければ数学で証明なんて教えてくれるなよ、何でも証明したくなるだろ・・・

「人間に正解はない」「考えても仕方ない」と誰かが言えば、哲学者はいなくなる。その結論を出してくれたのが哲学者なのに。

中学のとき保健の先生にドキドキしながら命題を聞いてみると「はいはい、そんなことより避妊には気をつけましょうね」と言われた。どうなっているんだ?日本の教育は?

平和な世の中で、当たり前を当たり前と思わない人が現れたとき、いつの間にか自分の当たり前と、世の中の当たり前がズレたとき、それに気づけないとき、周りは“間違っている理由”を答えられるのだろうか。


「ねえ、どうして人を殺しちゃいけないの?」


これは少し大袈裟な例だが、


本屋に異常な程溢れる自己啓発本、ビジネス本、恋愛ハウツー本。



何故そんな本が増えた?


今、「当たり前に正しいこと」が、「当たり前に間違っていること」が、そう認識されにくい世の中になっているのでは?いや、それどころか、この情報社会で何が正しくて何が間違っているか実験する人、もとい「考えながら生きる人」が少ないのでは・・・?



「自分の当たり前」を心理学で確証バイアスと言うが、それは「こっちの方が正しいよ!」という言葉に耳を傾けさせなくする。それどころか、確証バイアスを「間違っている」と指摘すると、憤慨する人が多いらしい。

実験ベースで生きてきた私にとって最初はピンとこない話だったが、実験の中でどうやら世の中そうらしいと分かった。当たり前を実験する人なんていなくて、歳をとればとるほど皆自分の生き方の正当化に必死だった。そして正当化が限界を迎えたとき、あの本屋に溢れた本を手に取る。ずっと不幸を嘆くだけの人もいる。病気になる人もいる。障害を引き起こす人もいる。


うーん。


今の時代の人たち、何のために生きてるんだ?



私は・・・


やっぱり、幸せであるために生きている。






これからは命題ではなく自分を大事にして生きていく。そして、未来の話をしていく。社会問題、教育問題提起の輪を広げたい。誰もが幸せで生きられたらいいなと思う。誰もが不幸にならないように、幸せに考えることを厭わない世の中になればいいなと思う。



「人の成長は25歳で止まる」「25歳から人生下り坂」「25歳までと、25歳から80歳までの体感は同じ」「26歳は人生の転機」なんて散々言われているので、第一人生は25歳までだと思って生きてきた(それは疑わないんかい、と)。

抱えてきた命題を降ろして、私はここで1回死ぬ。

さて、2人のソクラテスと、命題で散々振り回してしまった人たちと、いよいよこの現代社会にどう恩返しができるかよく考えて、宝物だけ抱えて、第二の人生を歩もうと思う。

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