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ノーベル賞に殺されたのか、川端康成と三島由紀夫


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川端康成と三島由紀夫の師弟関係は文壇ではよく知られている話でした。
川端康成は、滅多に作家を褒めなかったそうです。
例外のひとりが三島由紀夫でした。
三島由紀夫は、学習院中等科の頃、作品を書いては教師に見せていました。
見せられた教師は、驚愕しました。
13歳の処女作。老成した文章に非凡を感じ「三島由紀夫」のペンネームをアドバイスしたのもこの教師でした。本名の平岡公威(きみたけ)ではなく、普通の感じがする「三島由紀夫」がいいと。

1946年、三島由紀夫、21歳、川端康成47歳。
三島由紀夫と川端康成が初めて会いました。年の差26歳。
三島由紀夫と川端康成との子弟関係は公私にわたり、三島の仲人も川端がつとめました。
多くの手紙のやり取りも残っています。本当に頻繁に、親し気に。

1970年、彼が45歳のとき、ああいうことがあって三島の葬儀委員長をつとめたのも川端康成でした。
四半世紀の長きにわたる交流。
ただ1968年を境に、手紙のやり取りは、ぷつりと途絶えました。

(2)
1960年代ノーベル委員会は危機的状況にありました。世界の有識者から「受賞者が欧米に偏っている」という非難にさらされていたのです。
優れた業績であれば、欧米以外にも目を向けなければならないと考えを改めたのでしょう。
その視線は、戦後復興を成し遂げた日本にも向けられました。
日本人よりも日本を愛し、日本文化に精通していたドナルド・キーン氏。氏の元にも、ノーベル委員会から「日本の優れた作家を教えて欲しい」との依頼が来たそうです。
氏は、後年、その時のことを語っていました。何と返答したのでしょうか。

「現在の日本の作家で最も優れているのは、三島由紀夫でしょう。しかし、若い三島由紀夫の受賞に、日本人は満足しないでしょう。日本には長幼の序、年上を敬う文化があります。そういう意味では、谷崎潤一郎、川端康成ということになるでしょう」そういうことを語っていました。
ただ、残念なことに間もなく谷崎潤一郎は亡くなりました。79歳でした。

川端康成は、早くから、微細な心理描写が注目されていました。「千羽鶴」は、白眉と言われます。
その高い芸術性は、こういう秘話で覆るものではありません。
ただ、終わってみれば、川端康成、三島由紀夫ともに自死しました。
日本人のノーベル文学賞受賞はしばらくないだろうと絶望した三島。
受賞後、苦悩しながら名作を書き続けなければならなかった川端。

もし1968年三島由紀夫がノーベル文学賞を受賞していたら、二人の稀有な作家の命は救われたでしょうか。

(参考・謝意)
ドナルドキーン氏のくだり:
カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス
元文芸誌編集長、大村彦次郎氏の語り から

※「ノーベル賞に殺されたのか、川端康成と三島由紀夫」に関して、このラジオ番組とは一切関係ありません。


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