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小説 なぜ生きる          エピソード1(蝉子の場合)

蝉子は、七日目に死んだ。病気ではなかった。自然死だった。
小さな棺に母親が泣きつき、いつまでも離れようとしなかった。
母親はその日から、赤ん坊を見ることが出来なくなった。
買い揃えていたベビーグッズも納戸にしまった。
そうして一週間がたった。
夏の暑い日だった。蝉が鳴いてる。
夫は自分の悲しみよりも妻を案じた。
「蝉が、鳴いているよ。蝉子が、『ママ、悲しまないで、蝉子はここにいるよ』って鳴いているよ」
少しだけ開いたサッシからカーテンを揺らす風が通って来る。
母親は立ち上がり、サッシを開け放った。
小さな庭の柵の向こうに、森があった。蝉の声はそこから届いていた。
母親はじっと耳をすませた。
まるで遠くに出かけた子供の声を聞くように。

“ママ、悲しまないで。蝉子の命は、七日間だったけど。ママの子供に生まれて、楽しかったよ。短い間だったけど、楽しかったよ。また会おうね。
ママ、泣かないで。蝉子はママと同じくらい生きたんだから。
蝉子の一生もママの一生も同じよ。
蝉子の七日間は、ママの七十年よ。蝉子の一日は、ママの十年よ。
あっという間。ね、同じでしょう。
一日も、十年も過ぎてしまえば、あっという間。ね、ママ。
ね、ママ、だからもう泣かないで”

カーテンが、大きく膨らんで、風が通るのが分かった。

「どこかに出かけたい」
妻の言葉に夫は安堵した。棺にすがりついて泣いてから、初めて耳にする妻の声だった。
「ちょっと遠くまで行こうか」夫が応えた。
「うん」妻が短く言った。
車庫から車を出して、乗り込んだ。
海辺に車を止めた。
二人してサンダル履きで砂浜を歩いた。久しぶりに手をつないで。
人影は少ない。夏の日差しは、今日はそんなにきつくない。
波の音が心地よかった。蝉の鳴き声のようだった。
青い海はどこまでも広く、寄せる波も途切れることはない。
少し散歩を楽しんだ後、二人並んで砂の上に座った。

「あの子、どんな気持ちだったのかしら」
「蝉子?亡くなるとき?」
「うん。辛かったのかしら」
「まだ七日だからね。思うとか、思わないとか、ただ眠っていただけじゃない」
「私も同じだな」
「え?」
「蝉子の声」
「ああ、さっきの蝉の声の話」
夫は、車の中で聞いた妻の蝉の話を思い出した。

「私も蝉子と同じ。違うのは、蝉子は眠り続けただけだけど、私は夜の夢から覚めたら、昼の夢を見るの。子供を七日で失うなんて、こんな辛い目のあって。悪い夢であって欲しいって。夢なら早く覚めて欲しいって。でも、蝉子の言うように、あっという間に、蝉の抜け殻になっちゃうのね、私たち」
「私たち?」
「そうよ。あなただって、何億年も生きられるわけじゃないでしょう」
「何億年も、生きたくないかな」
「でも、何億年生きても蝉子と一緒」
「どうして。長生き出来たら、いろいろ楽しめるじゃないか」
「ううん。何億年後の最後の一日。やっぱり蝉子と同じだと思うよ」
「なんで、そんな風に思うの」
「どんなに楽しいことがあっても、最後は来るのよ。残るのは蝉の抜け殻だけ。ねえ、蝉は死んだらどうなるのかしら」
「そんなこと考えていたの?」
「夏が終われば秋が来るわ。そして冬が来る。蝉子は、秋も冬も知らずに死んじゃったのよ」
「お前、だいじょうぶか。考えすぎじゃないか。あんまり思い詰めるなよ」
「ありがとう。でも大丈夫よ。ね、話、続けていい?」

波の音と、潮風が心地よいのが手伝って、二人はいつまでもこうしていたかった。

「朝、目が覚めるでしょ」
「うん」
「そうすると、夜の夢から覚めて、昼の夢が始まるのよ。昼の夢から覚めると、また夜の夢を見るの」

夫は、大丈夫かなと思いつつ妻の話に付き合った。
「でも、夜の夢も昼の夢も見ること出来なくなったら、その時はどうなると思う?」

夫は、ぞっとしたが、口には出さなかった。
「夢の続きって、あるのかしら。夜と昼の繰り返しで年取っていくのよ。いやだわ。せめて、夢の続きはいいものでありたいわ」
「蝉子の話じゃなかったのかい」
「ええ、そうよ。私にも蝉子くらいの時があったわ。あれから何回夜と昼の夢を行き来したかしらね」
「いまでも、綺麗だよ」
「とってつけたみたいに。でも、地球と太陽みたいね。同じところをぐるぐる回って、何も変わらないと思うけど、錯覚ね。時は流れているんだから」
「地球と太陽の話は、ロマンチックだね。ついでに月も加われば、なおいい」
「ちじくがね、少し傾いているでしょう。あの傾きも長い間かかって角度が変わるそうよ」
「え、ちじく?」
「いやだわ。地軸よ、地球の」
「ああ、地軸。知ってるよ。公転軌道も、楕円を描いているけど、ものすごい長い期間で軌道が変化していて。氷河期とか、気候変動に影響を与えているらしい。地球も少しづつ太陽の周りを旅するルートを変えているんだね」
「考えられないくらい長い時間。太陽も地球も、老いるのね」
「ああ。ぼくたちだけでない」
「ねえ、私たちって、どこに旅立つのかしら」
「旅立つ?」
「蝉子は先に旅立っちゃたけど」
「ああ。そういうことか。分らんなあ」
「分らんなあ、ってあなた。そんな頼りない。旅立つ先がはっきりしてなきゃ、不安でしょう?」
「不安?」
「そういうこと、考えたことない?」
夫は、蝉子のことで、妻が神経衰弱にでもなっているのかなと、かねがね心配していたが。こう現実を突きつけられると、どんなふうに接していいか戸惑った。
「アイエス細胞とか、ウイルスとか、私たちいろいろ分かっているつもりだけど、なに一つ分かってないのね」
「旅立つ道具にはならないかあ」
「そうよ」

寄せては引いてゆく波に視線を移して、だまって動線を追う妻の横顔を見ながら、夫は言った。
「そろそろ戻るかい」
「ええ」と言って、長いスカートの砂を払って妻が立ち上がった。
夫はそれを見て、少しほっとした。

つづく

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