【文章作成の基本】この助詞に注意!(後編)
予定より長くなりましたので、前後編に分けました。それでは「1.副助詞『は』と格助詞『が』」の続きです。
なお、前編はこちらです。
前編でこの「は」がその文の主題を示すことがわかりました。とすると、その文においては、「は」以降が強調されているとも言えます。「象は鼻が長い」は、読み手に対して、これは象の話だと断った上で、「(その)鼻が長い」ことを強調して伝えようとしているわけです。少しわかりづらいと思うので、別の例を引きます。
例2 鮎のどの部分が一番美味かと言えば、はらわたを持った部分である。(『鮎ははらわた』北大路魯山人)
これは、海原雄山のモデルともいわれる、美食家北大路魯山人の「鮎ははらわた」というエッセーの一節です。タイトルは「鮎ははらわた(が一番うまい)」ということで、「はらわたがめちゃうまい!」ということが一番言いたいことであり、この一節を見ると実際そういう内容のエッセーになっていることがわかります。このように、「は」は、「は」以降の内容を強調します。文語文法(古典文法)においては、「は」は強意の係助詞(ただし係り結びを作らない)です。これは、その名残です。「春はあけぼの(『枕草子』)」は、「春はあけぼの(=日の出前がめちゃエモい!)」ということなので、「あけぼのサイコー!」と強調しているわけです。
対して、「が」は主語を強調します。同じ例で説明すると、「鮎のどの部分が一番美味かと言えば」の中に「が」がありますが、ここで書き手が強調したいのは「鮎の一番美味しい部分はどこかっていうと!」ということです。で、「(それは)はらわたを持った部分である」と続きます。
さらに、「鮎ははらわた」ということは、「他の魚で美味しいのは別の部分だけどね…」ということも含意されています。つまり「(他の魚は違うけど)鮎ははらわた(で決まりでしょ!)」ということです。ですから、「は」は、他のものと比較して言う場合に用いられるとも言えます。これも古典文法で係助詞だったときの名残です。ここでまた『枕草子』を引きますが、「春はあけぼの」、この話はこの後どう続きましたか。「春はあけぼの(日の出前)」、「夏は夜」、「秋は夕暮」、「冬はつとめて(早朝)」。思い出しましたか。つまり春夏秋冬、各季節を比較して清少納言が考える一番「エモい」時間帯を並べていっています。このように、対比や比較の意味が「は」にはあります。「古京は既に荒れて、新都は未だ成らず(『方丈記』」なども、古い都と新しい都との比較ですね。なお、この比較と強調については、今の国語辞典ではこう説明されます。
実は、「は」は、古典文法のとき(昔)と用法や働きがほとんど変わっていません。「春はあけぼの」も「鮎ははらわた」も共に主題(テーマ)ですし、テーマである以上、その文章中で強調されます。また強調されるということは、他との比較があって、そこからそれを任意でテーマとして独立させることなので、比較や対比の意味を含みます。
一方、それで言えば、格助詞「が」は、古典文法と口語文法では少し違います。一般的に古文の授業では、「『の』は『が』と訳し、『が』は『の』と訳すとよい」と言われます。ちなみに、塾や予備校で先生をやっていたときは、私は「国語の先生」なので、古文も漢文も教えていました。この辺りの知識を披露するのは、久しぶりで徐々に思い出してますけど(笑)。さて、話を戻しますが、これは今の格助詞「の」(連体修飾格)は古文ではもっぱら格助詞「が」、今の格助詞「が」(主格)は古文ではもっぱら格助詞「の」であったからなんですね(例:「君が代」=「(今の)帝の時代」、「龍が如く」=「龍のように」、「友達の来る日」=「友達が来る日」)。主格「が」が出てくるのは、もう少し後の時代、現代に近づいてからです。
その「が」なんですが、ちょっと厄介なことがあります。まずは例文をみてみましょう。
例3 彼がボールを投げた。
例4 私は本が好きだ。
例3は、普通の主格の「が」ですね。「彼が」が主語で、「投げた」が述語。まあ、これは問題ありませんよね。しかし、例4は、主格(主語)ではありません。また連体修飾格(「の」)でもありません。これは目的語(対象語)です。こう直すとわかります。
例4―1 私は本が好きだ。=私は本を好む。
このように、「が」はその動作の対象となる語(目的語=対象語)を作ることができます。だから、こんなことが起きてしまいます。
例5 何かの拍子に女史が小唄が好きだといったので、小唄のレコードをかけて三人で聴いた。(『小唄のレコード』九鬼周造)
これは「いきの構造」で有名な評論家、文筆家の九鬼周造の文章です。「女史が小唄が好きだといった」。うーん、これはよくないなあ。ちなみにこの記事原稿はワードで一回作成してからnoteにアップするのですが、ワードの文章校正にも引っかかりましたね(笑)。「好き」なのも「いった」のも女史なので、「女史が」が主語です。「好き」な対象が小唄なので「小唄が」が対象語です。しかし「~が…が」となってしまいました。文法的に誤りではないですが、リズムも悪く誤読を招きそうです。この文章は直す必要があります。
例5-1 女史が「小唄が好きだ」といった
一つ目の修正案は、会話文としてかぎかっこでくくるやり方です。格助詞の「と」で受けているということはその前は会話文ということです。それを地の文と分けることで、文の不自然さをなくしました。ワードの文章校正にも引っかかりませんね。ただ、回避はしましたがリズムは依然悪いままです。音読するとしっくりきません。
例5-2 女史は小唄が好きだといった
二つ目の修正案は、助詞を変えるやり方です。「小唄が好きだ」は女史が言ったことなのでこのまま活かした方がよさそうです。だとすると「女史は」にして、「は」以降の述部「小唄が好きだといった」に強調をかけた方がよいでしょう。この文章は「小唄」がキーワードなので、「が」と「は」で二重で強調をかけるとこのキーワードが際立ってよいです。では、この案を二つ合わせて原文を修正します。
例5-3 何かの拍子に女史は「小唄が好きだ」といったので、小唄のレコードをかけて三人で聴いた。
これでどうでしょう。いいんじゃないでしょうか。このように「が」が重なる可能性があります。こういうときは、それを回避するように修正してください。
2.接続助詞「が」
「が」と言えば、こちらも問題があります。接続助詞「が」です。まず結論から言うと、「なるべく使わないようにしましょう」ということです。理由は簡単です。この接続助詞を使うと、前後の論理的な関係がわかりにくくなるからです。
まずは、次の文章を見てください。小説家の葛西善蔵の文章です。
※ 接続助詞「が」のかぎかっこと番号は〆野が付けた。
上の文で、1と2は、逆接確定条件の「が」です。つまり逆接の「が」です。父の遺骨を持って帰郷するということで、適当な服装ではよくない、フォーマルな服装でないとよくないとなりました。しかし「私たち」は服装のことで「当惑」します。たしかに「私」は羽織と袴があるにはあります。「しかし」えらく古いものです。「私」の弟も妻のお父さんの遺品である羽織をもってはいます。「しかし」こちらは丈がかなり短いものです。フォーマルな服を二人とも持ってはいます。「しかし」そのどちらも問題があります。そういう場面です。
一方、3と4は、時間の経過を示す単純接続の「が」です。つまり順接の「が」です。場面は変わって、生前の父との思い出です。脚気が原因で父は亡くなりますが、思い出を回想します。それは二度目の鎌倉に来た際、父は「私」の(部屋として借りている)寺に二晩泊まり上機嫌で酒を飲みその後弟と帰っていきました。「そして」それが父との飲み納めということになりました。また、「私」は弟からの電話でこの八日に(鎌倉から)出てきました。「そして」そこから六日目の十三日に父は死にました。こういう場面です。
このように「が」は順接でも逆接でも使えるオールラウンダーなので、どんな文脈でもつかえます。しかしだからこそ、前後の論理関係が不明確になりがちです。簡単に接続助詞「が」でつなぐのではなく、文を切って適切な接続詞に置き換えるなどして、対処するとよいでしょう。
〈参考図書〉
『新訂版 常用国語便覧』(2021年10月5日新訂版発行)
浜島書店 刊 加藤 道理 他 編著
『三省堂国語辞典』 第七版 2014年1月10日 第一刷
付記:例文引用に関しては、青空文庫さんを活用しました。
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