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島暮らし25日目、『ケアとアートの教室』にて演劇とナイチンゲールに想いを寄せる。




朝起きて窓を開けると、涼しい風が入ってくるようになった。



排気ガスが少ないせいか、海に囲まれた山の上では季節の変わり目を感じやすい。



夏が別れを告げようとしている。


わたしの島暮らしもそろそろ終わる。





1.離島の施設にて



島での職場は、コロナウイルスの騒動が落ち着いて元通りのリズムに戻りつつある。


もともと"人員不足"だった施設が、感染症対応というさらに深刻な状況を乗り越えることとなった。


業務を教わる暇もなく、防護服を着て、隔離された利用者さんの生活ケアから体調管理、衛生面での対応変更が重なった。



だから、事態が収束して、やっと防護服を外して、利用者さんや職員たちと心を通わせる時間が取れるようになったことはとても嬉しい。


また同時に、緊急時のストレスや葛藤、社会に対する不満を色々と感じたからこそ、この経験をしっかりと次に活かしたいとも思う。




2.『ケアとアートの教室』を読んで



そんなタイミングで、持参した本を読み終え、自分の思考と結びつくような気持ちになった。


(こちらも、前回の1と同様に神楽坂のかもめブックスで出会った。)




"福祉×アート"の視点からさまざまな立場の方々による講義の中で、障害、貧困、LGBTQ+、民俗学、服、映画、建築というキーワードが並ぶ。



印象に残ったのは、菅原直樹さんの「老いと演劇」。



彼は、俳優と介護福祉士をしながら、介護と演劇を結びつけた活動をしている。


「OiBokkeShi」の活動のきっかけは、二十代の終わりに介護の世界に入ってすぐに、介護と演劇がものすごく相性がいいと気づいたからでした。
生きるとは、生活するとは、コミュニケーションとは何かといった根源的な疑問と向き合うことも多かった。表現する者にとって、それはとても意味があることだと思いました。
p135-136



彼の活動では、認知症の徘徊やぼけをテーマに、お年寄りや介護者が俳優となって演劇をする。


特に素敵だと思ったのは、"演劇は疑似体験であり、介護現場にもゲームとして取り入れたらよいのでは"というアイデアである。


ぼけを上手く受け入れて楽しもうという、みんながハッピーになれる彼の提案がとても好きだ。


演劇の表現形式の最大の魅力は、「いまここ」を共に楽しむということです。そのとき一緒にいるひとと、時間と場所を共有する。たとえ忘れてしまっても、そのときを楽しんでもらえればいい。
p149




3.「演劇」と「ナイチンゲール」を結びつけて考えてみる



読み進めていくと、飯田大輔さんの対談での言葉にハッとする。


(ケアの本質を問われて:)指針にしているのは、ナイチンゲールのケア理論です。
介護は科学であり、人間を細胞レベルで見つめるところから考えていかなければならない(中略)「生命力の消耗を最小にするケア」と、「生命体がもっている力・健康な力を活用し高める援助」とがあります。
p176



理系の彼から語られる、感性的で情緒的な表現とは離れた言葉が、たしかに腑に落ちる感覚があった。


さらに、彼はこう続ける。


(アートとのつながりを問われて:)ナイチンゲールは「ケアとは科学であり、アートである」といっています。つまり、解剖生理学的に、すべての人間の共通点に従って実践を行うという意味において科学的なのですが、一方で、ケアが必要なひとの個別性を読み取って、それぞれのひとにとっての最善を創意工夫して実践していく過程はアート的です。
p179



(この本全体に通ずるのだけど、)思考を突き進めた方々による、感受性の豊かさを兼ね備えた知的で理性のある表現だと感じた。


そして、何事にも"感性と理性のバランスが大切である"ことが見えてくる。


(これは福祉にもアートにも限らず、たとえば"恋愛"にも同じことが言えるはず…)



演劇というのは、自分や周りを一歩後ろから見て、理性をもって感性を表現する実践(練習)ができるよい方法だと思う。


つまり、人間を細胞レベルで(もしくは社会レベルで)見つめる練習にもなるのではないかと。



福祉の現場でも、やさしさを盾にした過度な支援、それゆえの忙しさを言い訳にした機械的で表層的な支援をするくらいであれば、より本質的かつ合理的ゆえにユーモアの余裕がある支援に変えていきたい。


明日から、さっそく試行していこう。


カバーを外したデザインも素敵です




ちらっと映っている絵たちはこちらから。



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