『砂の女』を読んで。

1962年出版(日本)

著作、安部公房

 主人公の「男」は、昆虫採集のために砂丘の中にある部落を訪れる。そこである一軒の家に宿泊することになった。主の女は、今にも砂に埋もれそうな過酷な環境で、必死に家を守って暮らしていた。
 男は部落の住人にはめられ、女とともに崩れそうな家で暮らさなければならなくなった。
 あらゆる方法で脱出を試みるが、ことごとく失敗する。そしてある時、脱出の機会が訪れるが……。

 ※ネタバレあり

 安部公房の作風はとても好きです。

 最初は親切だった部落住民。しかしだんだんとその異常性がわかり、そしてはめられたことに気がつく……何とも不気味です。
 男は一体どうなってしまうのか。逃げ出すことはできないのか……いや、冒頭である意味、結論は出ているのですが、それでも何とかなるのではないか? と、諦めない男を見ていると、ついついエールを送りたくなってしまいます。
 一度、うまく家から脱出した時は、「よしよし、このまま逃げ切れ!」とはらはらしながら先を読み進めました。まったく飽きさせないのです。
 失敗してしまったときは、男の気持ちになって、とても残念になりました。
 そして、衝撃のラスト……。ある程度は予想できていたものの、あれほどに逃げたがっていた部落に、ずるずると残ってしまう選択。
 なんだか物悲しくなりました。
 しかし、日常生活に満足していなかった男。男との生活を質素ながらも楽しむ女。二人にとってよい選択ではあったかもしれません。
 男が生活になじんでいることが、救いと言えば救いなのですが、それも、妥協の結果ですね。
 ここが幸せだと思わなければ、耐えることができなかったのでしょう。
 たとえば、飼いならされ、牙を抜かれた野生動物のように……。
 虐待されても親にすがるしかない子どものように……。

 『砂の女』は、1962年出版の小説ですが、2013年現在でもハッとするような文章があります。
 私はこの二つの節が特に胸に響きました。

 罰とは、とりもなおさず、罪のつぐないを認めてやることにほかならないのだから。
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 年中しがみついていることばかりを強要しつづけるこの現実のうっとうしさとくらべて、なんという違いだろう。

 そういう一節を見つけることも、読書の楽しみですね。

(2013年当時の感想です)

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