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短編幻想小説『ねじれの報酬』7


 
 じいさんは夢を見ている。映画館に座っている。周囲に人はいない。じいさんだけのために、映画が上映されている。しかもカラーだ。久しぶりに見る色彩に、じいさんは戸惑う。ほほう、と感嘆の声を上げる。夢だと判っているのだが、やはり嬉しい。

 上映されているのは、若い頃に鑑賞した映画のようだ。しかしストーリーの詳細は忘れている。少年と映写技師の男が出てくる。少年は青年でもある。老人は始まりから死の運命を免れない。銀行家は面倒くさい。進歩はいつも遅すぎる。つまりそういう話だ。

暗転

 ある屋敷の応接間。じいさんは部屋の隅の揺り椅子に座っている。誰もいない。少し揺すってみると、ギュッギュときしんだ音がする。ひじ掛け部分もガタがきていて、今にも外れそうだ。「夢でも壊したら器物破損か? めんどくさいな」とじいさんは懸念し、大人しくする。

 空気が埃っぽい。足が治っているかどうか不安だが、立ち上がろうとする。うっかりひじ掛けに力を掛けてしまい、ヒヤッとする。が、大丈夫だ。右足、左足、ちゃんと歩ける。じいさんは部屋を出ようとする。しかし扉は外から鍵が掛かっている。どうしようか思案する。扉の向こうから話し声が聞こえる。ヒステリックな女の声が、なにやら叫んでいる。じいさんは腰を屈めて、鍵穴から外側をのぞく。階段の手すりが見えるな、と思ったら目の前が真っ暗になる。場面転換かと思ったら、誰かと目が合った。

 おじいちゃん、おじいちゃん、と連呼する子供の声が聞こえる。それ以上にじいさんは誰かの奇声に驚き、それが自分の声であることに二度驚く。「ああ、俺か」と言ってから黙る。すっかり覚醒してしまった。

「おい、コドモ。何しとる」
「何って、おじいちゃんがものすごい声出すからびっくりしたんだよお」とルシアスが泣き声で答える。じいさんはその答えを無視し、「ジャックはどこだ」と訊ねる。忠実な牧童の気配がない方がびっくりだ。ルシアスも今になってジャックがいない事に気づいた様で、しばらく考えた末に「出て行っちゃった。僕がドアを開けたままにしたから」と小声で答える。
 じいさんはやれやれとため息をつき、しかしながら本心は心配も不安もない。ジャック・ロンドンが出て行くなら、それは出て行くべき時だったからだ。理由もなくうろつく愚犬ではない。それに、とじいさんは思索にふける。今もドアが開いているという事は(なぜならルシアスが自分の不始末を見たのだから)、ジャックはすぐに部屋に戻るつもりなのだ。

「おい、今何時だ」とじいさんが少年に言う。
「えっと、えっと、6時と30分を過ぎてる感じ」
「感じってなんだ。もういいぞ。お前は部屋に帰れ」じいさんがシッシッと手を振る。
「でもまた怖い夢を見るかもしれないよ」とルシアスが不安げに抵抗する。こいつもすっかり目が覚めてしまったのだろう。めんどくさいなあ、とじいさんは思う。風邪でも引かれたらそれこそ面倒だ。どうしてやろうか、と考えていると、ルシアスが「ジャック、帰ってきた」と報告する。歳の割に身軽な足音を立て、ジャックがベッド脇の定位置まで戻ってくる。少し息が上がっている。じいさんは彼の頭を撫ぜ、首元をさすってやる。珍しく毛がじっとりと吸いつく。そしてじいさんはそこに足りないものを悟る。

 スタッフのひとりが、開いたままのドアをノックする。ルシアスがいるのを発見し、少年を連れ出してくれる。彼らが去り、時計の針の音だけが部屋に響く。そしてじいさんはジャックに話し掛ける。そろそろ時が近づいていると知る。

「腐ったバラの臭いがするぞ」とじいさんが言った。
「おっと失敬。純正のバラオイルは、君には高等過ぎたかな」と男が応えた。
 男はじいさんの足元に立っていた。ジャックはベッドを挟んで反対側の、じいさんの枕元にいる。男が椅子を引き寄せ、じいさんの顔に向かい合う様に座った。男が口を開いた。
「なかなか素敵な部屋じゃないかねえ。やはりこれも特権のおかげかねえ。この病院には、君の孫の作品が幾つか飾られているからねえ。ほら、君の目の前の壁にも。あの緋色は独特で良いねえ。まあ今の君にはさっぱりミエナイだろうが」
「相変わらず性悪ジジイじゃな。その耳障りな声まで変わってないわ」
 男はカラカラと乾いた笑い声を立て、両手をパンと打った。その音から男が革手袋をしていると、じいさんは感知した。男は笑い止めると話を続けた。

「なるほど。ジジイ呼ばわりされたのは久しぶりだ。君はやはりおもしろいねえ。では本題に入ろう。先日、私の秘書がこれを渡しただろう」男はじいさんの手にクリスタル・ガラスを握らせた。そして男は言った。「これが何かは覚えているだろ、ジョージぼっちゃん」じいさんは黙って頷いた。

「そこの紳士に、先程返してもらったよ。たいした賢い犬だ。犬にしておくには勿体ない。彼は私を『人間にしておくには勿体ない』と思っているかもしれないがね。さてと、君は逃げ切れたと思っていたのかい、川田ジョージ君。幾ら名前を変えたところで、染みついた血は消せないんだよ。あの日以来、あの女と君は私を記憶から抹消したみたいだが、私は決して忘れなかった。私の両目の血を知るこの美しいクリスタルの塊を握り締めながら、私は最初の死の重みに耐え抜いたのさ。そうそう、なぜ私が生きているか、君には不思議だろうねえ。なんせ私は屍寸前まで壊された上に、君より30歳も年上だ。普通なら寿命でとっくに死んでいる。だがこの世には、予測不可能な巡り合わせがあるんだよ。今から約20年前、ある信念を持った若い医学者夫婦が名もない路傍の石を探していた。人類のため、世界のために、いつかの革命のため、新しい試みを秘密裏に行うためだ。そして彼らはぴったりの原石を見出した。その時私は寿命を全うせんとしていて、彼らの興味深い提案を拒む気など毛頭なかった。盲目の君には信じられないだろうが、私は現在30代の姿でいる。私は年々若返り、お前は老いていくのみ。これが現実なのだよ」

 じいさんは黙って男の話を聞いていた。そして「あんたの代わりに墓地の隅に埋葬されたのは誰だ」と呟いた。男は軽く鼻を鳴らし、「埋葬? 穴に埋められただけだろ。あれは俺に同情して逃がしてくれた者が手配した。下層階級の浮浪者だろう」と全くの感情を入れずに言い放った。「俺はお前の全てを奪ってやった。お前の母親は既に死んでいたが、その誉れ高い家名を奪い、財産を奪い、最後に自慢の審美眼も奪ってやった。お前は永遠に何ひとつ見ることは出来ない。社会が認める孫の絵さえもな。永遠に、永遠にだ」

 男は唐突に、感情が溢れんばかりの勝ち誇った口調で叫ぶと、足を組み換え両手を前にかざした。両手にはめた手袋をじっと見ていたが、思い立ったようにそれらを外した。そして男は、その血管と染みの浮き出た老人の手を眺めた。若者の顔とは全く別人のパーツをはめ込まれた、不恰好な木偶の姿だった。男はじいさんの顔色を窺い、まるで盲目の彼が自分の両手を見ているかのように、急いで手袋をはめた。カーテンの隙間から淡い光が差し込み、ジャックはそんな男の一部始終を観察していた。

「あんた、一体何歳まで若くなってしまうんじゃ」

 じいさんの声は何時になく穏やかだった。そのうえ彼の表情は、光の加減で「哀しい」とも「楽しい」とも取れる、掴みがたいものだった。男は予想外の質問だったのか、言葉を失い堅まった。しばらく思案した後、男はこう答えた。

「分からん。君には理解できないだろうが、私の肉体はもはや私の管轄外なのだよ。だがこの醜い声と肉体の逆行性は『時空間のねじれ』の証拠であり、それこそ一部の特権者のみの共有資産となりうるのだ。そして私は君の孫君にも資質があると考えている」

 じいさんは深呼吸をし、ゆっくりと首を左右に振った。その間にも男の抑揚ない低い声が、とめどなく言葉を紡ぎ出していた。

「彼女は今、ある人物を探している。彼女が使命を達成した時、彼女は『完璧な美』を描くことが出来るだろう。そしてそれこそ我々特権者の責務を果たす時でもある。彼女のようなカミノコは最大限に人生を有効利用するべきなのだよ。かつての君も、そうやって他者の時間を貪り喰っていたじゃないかね」

「……確かにそうだった。だが何も映らない目をあんたに与えられ、あんたが求める美の姿が仄かに見えてきたわ。水面に映る朧月の影のごとく、掬っても掬っても零れ落ちる時間のままならなさ。老いて生きることの真理と作為の交錯。時間のねじれに迷い込んだあんたには理解できない美が、暗闇のそこかしこに存在しておるわ」

 夜はすっかり明け、ミヤマガラスの騒々しい鳴き声が反響した。小鳥たちも活動を始め、朝の挨拶を賑やかにさえずっている。男は立ち上がり「潮時だな」と言った。そう、潮時なのだ、とじいさんはひっそりと心の内で思った。

 男は無言でじいさんにクリスタルを強く握らせると、彼の耳元で何か囁いた。じいさんは哀しげに口を歪めると、「あの子はあんたには気づかない。誰もあんたを探し出せない」と最後の言葉を伝えた。男は無言のまま右手の手袋をはずすと、じいさんの額にサッと掌を当てた。そして男は去った。男は永遠に去ってしまったのだ。

 その朝ソラさんは、安らかに眠るじいさんを発見した。忠犬ジャックに見守られて、じいさんは老いた身体の時間を全うしたのだ。彼の萎れた首にはKの文字のネックレスがぐったりと垂れ下がっており、その手は硬く閉ざされていて、口元にはクリームとタルトの食べカスがこびりついていた。

《続く》

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