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「親を許せば楽になる」とかいう人へ【毒親】

今日は、「親を許す」ということについて、今現在の考えを綴っていこうと思う。

まず、私の親は「毒親」である。父や妹と会話をすると「お前は悪影響だから」と怒られた。祖父の存在を無視して生活しなければ、殴られた。39度の熱があっても学校に行かされた。小学校で作った「母の日の手紙」を目の前で破られた。閉鎖病棟に入院するまで追い詰められた私に、母は怒ってこう言った。
「あんたが死んだら、誰が私の老後の世話をするのよ。」
そして父は、そんな母と私の関係を知っていて、手を差し伸べることはなかった。

それでも私は今でも、「母が笑ってくれそうな話題」を日常生活の中で探しては、電話で伝える。「会いたい」と言われれば、会いにいく。なぜかはわからない。ただ、母の「あの顔」が怖くて仕方ないから、怯えているだけのような気もする。

「親を憎むのはやめて、許してしまえば楽になるよ」
「親も人間なんだし、間違うことくらいあるよ」
「もう歳とっていくだけなんだから、仲良くやりなよ」

誰かにそう言われて、母や父の「いいところ」を探して、自分を信じ込ませようとしたこともあった。だが、無理だ。だって、私は親によって自分を愛することも、誰かを愛することもできない人間に育った。「愛」というものを歪んだ形で覚えてしまった。もちろん、それを健全な形に修正することはできるだろう。だが、そこにかかる費用や年月は、社会が思うより著しいものだ。誰もが、望んで精神疾患になったわけではない。そこにはそれぞれの背景と、苦しみがある。

「許す」ことは、私はきっとこの先もできないし、する必要もないと思う。でも、「憎む」というのも体力を使う。「諦める」ことができたら楽なのだが、実はそれも難しい。少なくとも私は、母親に「愛される」ことを諦められきれない。会話のできない怪物相手に、「愛」を求めるのが無意味なのは分かっているが。

毒親や虐待に苦しんでいる人が今目の前にいるとしたら、私はこう言う。

「許さなくていい。ただ、あなたの幸せをこれ以上邪魔されないように逃げな。」

そう。私は逃げたいのだ。もう、母の顔色を伺いたくはない。おばあちゃんになっていく母親の面倒なんて、絶対にみたくない。これは、親不孝だと言われるのだろうか。そんなことを言う人には、「1回私の人生を歩んでみなよ!」と言いたくなる。きっと7歳くらいでギブアップするだろう。

私は、親を許すつもりは全くない。今はまだ仕事に就けていない状態だから、頼るしかない部分もあるが、仕事に就けるようになったら全力で逃げる。1つ感謝を言えるとしたら、産んでくれたことだ。産んでくれなければ、私は推しにも大好きな公園にも大好きな支援者にも、出会えなかったから。

それだけありがとう。
じゃぁ私は私の人生を歩むので。


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