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「生死の彼岸 : 祖母はまだ、私を見ているようだった」

2021年夏祖母の危篤の報を受けた。入退院する様子を、そしてゆっくりと意識の無くなっていく様子を代わる代わる見舞いに行く兄弟から聞きながら、それでも生前の挨拶を諦める事に決めたのは、私が祖母のことを、あまりよく知らなかったからだろう。

 生死の彼岸:祖母はまだ、私を見ているようだった

 みちこさん。伊予ばあちゃん。卒寿をとうに越え、白寿も見える祖母は、2022年眠ったまま年を取る。2021年の夏、父からの着電は確か、仕事帰りの夜道だった。ついに意識がなくなった彼女を病院に入れる、もう長くないかもしれない。もし時間の余裕があるなら、最後のお別れを言いにくればいい。ただし無理はするな。ぼんやり携帯電話の向こうの父の声を聞きながら、不思議と寂しさは感じなかった。
 
祖母を、よく知らない。四人兄弟の内、父の時折の帰省に付き合い、最も多くの土日を祖母宅で過ごしたのは私だ。あの頃私は主体性がなく、ぼんやりと過ごしていた。古い鉄筋造りの大きすぎる家や、鬱蒼とした庭を駆け回るポチ、という犬の姿ほど、祖母の小さな背中ははっきりとは思い出されない。
 
第二次世界大戦の松山空襲のさなか、勤めていた銀行の地下金庫で息を潜めた女性。夜、燃える松山市街を城山に登って眺め、立ち上る火の粉がこの世で最も美しい景色だった、と語る老婆。
小学生だった頃父に連れられて祖母宅に訪れると、いつも小骨の多い小さな鯛の南蛮漬けを、銀色の平皿いっぱいに用意して待っている人。
時折連れ出してもらい近くの本屋に行っては、流行りの戦隊ものの本を買ってもらった。
帰省のたび祖母からもらう小遣いは、親族の誰よりも多かった。
時折ばあちゃんが圧力鍋で炊く大量の切り干し大根の、形容しがたい匂い。
日々祖母が食べる、几帳面に小分けして保存された椀の中の灰色がかった何かは、この世に対する執念そのもののようで、我々兄弟は密かにそれを、"宇宙食"と呼んだ。
 
辛うじて知っている事を書けば書くほど、それらはむしろ、祖母との距離を少し遠くする。今まで耳にした死の中で最も身近な家族の死が、すぐそこまで迫っていてもどうしてか、恐れや焦りは感じなかった。

  生死の彼岸は、広々とした河の対岸の事ではなく、道に引かれた白線程度のもので、生きていることと死んでいることに、想像するほど大きな隔たりはないと思う。
尊厳を捨ててまで生きるべき人生はない。何かに耐え切れぬほど耐えなくてはならない一生は、それに見合うだけの価値があるか私には答えられない。三途の川を渡す船頭は、船賃として六文銭を貰い受けるという。現代の価値でおよそ200円程度と言うから、山手線で言えば池袋から大崎くらいだろうか。遠いが、知れたものだ。
 
父のあの電話から、祖母は既に私にとって、生死の彼岸へ渡り始めた人だった。恥を忍んで実を言えば、父が意識のない彼女に延命治療をし、少しでもと努力する様子を兄弟づてに聞くたび、不思議で、かつ残念に思った。生死を含む様々な人生の事象にさばさばした父が、意識のない祖母を延命するなど、あまりにも父の像と離れていた。彼のような人物でも、自分の母の話になれば命に縋り付くものだろうか。私のような者でもその心境に立って初めて、命の尊さに気付くのだろうか。
 
祖母は一旦入院をしたが夏の終わりには退院し、いわゆる看取りのために家に戻った。年内に二度、愛媛へ帰省する機会があったが、諸々の理由があり帰らず結局、改めて愛媛に飛ぶ飛行機を手配したのは、2022年の年始となった。

 2022年1月初週の金曜日、仕事帰りのそのまま羽田に向かう。人のまばらな飛行場は既に蕎麦屋も閉まり、飯も食えなかった。
飛行場と同じ様に飛行機もがらがらに空いていた。それは単純に繁忙期をかわしたおかげか、それとも流行病のせいか分からないが、横一列空いた席を通して窓の外を眺めると、そこから無闇に静かな東京の夜景が見えた。

空港まで迎えにきてくれた車に乗り込むと父が、「飛行機は混んでいたか?」と一言尋ねる。

 次君が帰る頃、彼女が生きているかわからない
 そもそも今、生きているのかもわからない
 だが、どうにも死んでいるようには見えない
 だから私は、とにかくもうしばらく、
 付き合ってみることにした

2年会わぬうちに随分白髪が増えた父の、訥々とした言葉を聞きながら、祖母にどんな顔で会えばいいか、考えていた。我が家では、帰省すると必ず着いてすぐ、祖母に挨拶に行くことになっている。小遣いを貰うのは楽しみだったが、話をどこで切り上げればいいか分からず、いつも逃げる様に終える挨拶は遠い昔の様に思えた。
祖母は、口数の多い人ではない。私も、何を話せばよいか分からなかった。切り干し大根の匂いの染み付いた部屋で、私も父もいない日々を祖母は、どうやって過ごしていたのだろうか。

家に着き、荷物を置いていつもの様に祖母の部屋に向かうと、彼女がいつも半分眠りこけて座っていた机や椅子はきれいに片付けられ、古びた食器棚も空になっていた。台所から繋がる寝室で、祖母は眠っている様に見える。
存外にぶっきらぼうに、父が寝室の電気をつけ、「みちこさん、しげちゃんが帰ってきましたよ!」と言いながら揺り起こす。
その時、確かに祖母はまだ、私を見ているようだった。

彼女の目は確かに開いていて、意志がありそうに見えた。暗闇で眠っている様に見えただけで、彼女はずっと、目を開けていたままだったかもしれない。いや、今開けたのか、自分で、それとも父が。半開きの口は、今にも「おかえり」と喋るかの様に見えた。手を握って、ただいまと告げ、さっきまで私を見ているかの様に見えた目を見ると、それは既に、虚空を向いている。
私は、一つ正しくて、二つ間違っていた。祖母は確かに、生死の彼岸へ渡りつつある。だが、渡り始めたのは父の電話を受けた時でも、入院した日でも、意識を手放した日でもなかった。そして、生死の彼岸は、私が思うより、ずっと、ずっと、ずっと遠い。

 実家から戻ってから、姉に祖母の昔話を聞いた。女遊びの激しかった祖父の名を、朝方の遊郭の玄関口で呼ぶ話。巨大な当時のコンピューターで、仕事をする祖母。そして、父と祖母の話。
私が全く知らない祖母は限りなく存在し、そして姉や、父が知らない彼女も、限りなく存在する。それらは全て、祖母にとっての生死の彼岸へ渡る船旅で、ゆっくりと今、その旅の船賃にするには余りに少ない六文銭を握った船頭は、その船を船着場に近づけつつある。今、父が話す言葉の意味が、やっと分かる。

 どうにも死んでいるようには見えない
 だから私も、とにかくもうしばらく、
 付き合ってみることにしよう

2022年4月、祖母の船旅はまだ終わってはいない。
まるでがらがらだった愛媛行きの飛行機も、日曜の復路便では満席だったように確かに今、私や父や姉や、彼女の周りの多くの人々は、彼女と一緒にあの彼岸へ、旅をしている。

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