見出し画像

🚢隠岐 知夫里島の思い出を検証⑥ - 約半世紀前の懐かしい日々 -

前回からの続きです。

懐かしい日々

このシリーズを書きながら、知夫里島での懐かしい日々を沢山思い出しました。

蒸し暑い夜:蛍を捕まえ蚊帳の中に放して寝たこと。
満月の夜:海岸に上がってくるサザエを素手で沢山捕まえたこと。
お盆の夜:防波堤で遊んでいて海へ落ちて姉に助けられたこと。
村の相撲大会:私の対戦相手が何歳も上だった時、祖母が「相手が大きすぎる!」と行司に怒ったこと。
帰省客で一杯の大阪駅:満員で電車に乗りこめず、迎えに来た祖父の隣の席に電車の窓から押し込まれたこと。
五右衛門風呂:体重が軽くて浮いている板が沈まず苦労して湯に浸かったこと。
小さな和船:祖父が一本の艪(ろ)だけで船を進めるのに感心しながら、木製の箱メガネで海の底を見たこと。次の年、艪がエンジンに変わっていたのにも驚いたけど。

しかし、小学校にあがるまでは悪いことも沢山しました。下記の3項目は、大人になってからも祖母に言われ続けましたので、悲しいかな記憶から消えることがありません(笑)

・祖父母が庭でゴザを敷きそこに大豆を広げて乾燥させていたのに、庭中に撒き散らしたこと。
・(便所が母屋の外だったことから)おしっこがしたいと言うと、「そこでしたら」と祖母に言われたので座敷でしていたら、慌てふためいた祖母に抱きかかえられ外に連れ出されたこと。
・一つ下のいとこを庭でひきずり回していたら、祖母が「死んでしまう」と大声を出しながら縁側から飛んできたこと。

それでも祖母に怒られた記憶は、一度もありません。
大正生まれの祖母は、100歳を越えた現在、四條畷市内の老人ホームにいます。

2009年に私が撮影した、大豆を巻いた庭の一部です。
夏になると四條畷市から隠岐へ帰省していた叔父は、毎朝この庭に面した部屋から双眼鏡で海の荒れ具合を眺め、漁に出るかを決めていました。

画像3

母の残した写真を整理していると、もう何十年も前に亡くなった祖父の写真が大事に仕舞われていました。それが見出し画像です。

私の記憶してる祖父の若い頃の写真は、横向きが多かったのを覚えています。カッコをつけていたのだと思いますが、戦争で爆弾の破片が目に入り片目が義眼になってからは、そうせざるを得なかったのかも知れません。
戦場で眼の摘出をされたと聞いていますので、想像のできない痛みだったと思います。

そう言えば、紅茶キノコが流行っていた時代、祖父の鼻か喉のどちらか忘れましたが鉄の破片が出てきて、紅茶キノコのおかげで爆弾の破片が出てきたと祖母が言っていたのを思い出しました。それを見た私は、鉄片に見えるから爆弾の破片とは思うけど、紅茶キノコは関係ないなと思っていました(笑)

紅茶キノコ(こうちゃキノコ、露: Чайный гриб)は東モンゴル原産で、後にシベリアでよく飲まれるようになった発酵飲料。紅茶、もしくは緑茶に砂糖を加え、そこに培地で栽培されたキノコにも見えるゲル状の塊を12日から14日ほど漬け込む事で発酵させる。
日本では昭和40年代末から50年代初頭にかけて、健康食品としてブームとなり、流行した。家庭で栽培できたことから、株分けにより口コミ的にも広まったが、ブームは『紅茶キノコ健康法』の発行によるところが大きい。

出典:Wikipedia

晩年、ゲートボールが片目だからうまくできないとこぼしていました。

下の2枚の写真も、母が残していたものです。

1枚目は、私が生まれる4年前の祖父母に母に姉です。1957(昭和32)年かと思いますので、母が23歳で祖母は38歳、若いなぁ。こうして見ると、祖父の義眼はわかりませんね。残念ながら、祖母以外は亡くなってしまいました。

道下家S1

知夫会

2枚目の写真を見ると、看板には1977(昭和52)年10月16日と日付けが書かれており、その日に大阪知夫会総会が行われていたのがわかります。会場は常に尼崎で、両親を含め親戚中がこの会には喜んで参加していました。
今も続いているのでしょうか。

画像2

裃(かみしも)

母:「母方の実家には裃があった。昔、松江で大火事を出し、隠岐へ逃げてきた」
松江が松江城の城下町とは思うのですが、検証できないので事実かどうかは不明です。

江戸時代の武士の礼装・正装。肩衣(かたぎぬ)と、同じ地質と染め色の、わきの広くあいた袴とからなり、紋付きの熨斗目(のしめ)または小袖の上に着る。麻上下を正式とし、長上下と半上下の別がある。のち、半上下は庶民にも公務や冠婚葬祭などには着用が許された。

下画像、上文章出典:weblio辞典

画像4

今回も思いつくまま書いたので、まとまりがなかったですね。

では、次回へ。

<了>

この記事が参加している募集

ふるさとを語ろう

この街がすき