🚢隠岐 知夫里島の思い出を検証⑥ - 約半世紀前の懐かしい日々 -
前回からの続きです。
懐かしい日々
このシリーズを書きながら、知夫里島での懐かしい日々を沢山思い出しました。
しかし、小学校にあがるまでは悪いことも沢山しました。下記の3項目は、大人になってからも祖母に言われ続けましたので、悲しいかな記憶から消えることがありません(笑)
それでも祖母に怒られた記憶は、一度もありません。
大正生まれの祖母は、100歳を越えた現在、四條畷市内の老人ホームにいます。
2009年に私が撮影した、大豆を巻いた庭の一部です。
夏になると四條畷市から隠岐へ帰省していた叔父は、毎朝この庭に面した部屋から双眼鏡で海の荒れ具合を眺め、漁に出るかを決めていました。
母の残した写真を整理していると、もう何十年も前に亡くなった祖父の写真が大事に仕舞われていました。それが見出し画像です。
私の記憶してる祖父の若い頃の写真は、横向きが多かったのを覚えています。カッコをつけていたのだと思いますが、戦争で爆弾の破片が目に入り片目が義眼になってからは、そうせざるを得なかったのかも知れません。
戦場で眼の摘出をされたと聞いていますので、想像のできない痛みだったと思います。
そう言えば、紅茶キノコが流行っていた時代、祖父の鼻か喉のどちらか忘れましたが鉄の破片が出てきて、紅茶キノコのおかげで爆弾の破片が出てきたと祖母が言っていたのを思い出しました。それを見た私は、鉄片に見えるから爆弾の破片とは思うけど、紅茶キノコは関係ないなと思っていました(笑)
晩年、ゲートボールが片目だからうまくできないとこぼしていました。
下の2枚の写真も、母が残していたものです。
1枚目は、私が生まれる4年前の祖父母に母に姉です。1957(昭和32)年かと思いますので、母が23歳で祖母は38歳、若いなぁ。こうして見ると、祖父の義眼はわかりませんね。残念ながら、祖母以外は亡くなってしまいました。
知夫会
2枚目の写真を見ると、看板には1977(昭和52)年10月16日と日付けが書かれており、その日に大阪知夫会総会が行われていたのがわかります。会場は常に尼崎で、両親を含め親戚中がこの会には喜んで参加していました。
今も続いているのでしょうか。
裃(かみしも)
母:「母方の実家には裃があった。昔、松江で大火事を出し、隠岐へ逃げてきた」
松江が松江城の城下町とは思うのですが、検証できないので事実かどうかは不明です。
今回も思いつくまま書いたので、まとまりがなかったですね。
では、次回へ。
<了>