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📄市政報告179号 - 四條畷神社“約110年前”の絵葉書 -

今月号は、記事が2つ+4コマ漫画。
その中から、今回は表面の記事を報告します。


しでうなはて今昔⑥

所有する絵葉書から、今号は「四條畷神社」です。絵葉書の年代は、宛名面から明治40(1907)年4月~大正7(1918)年と推定されます。

下画像が今の様子です。

建造物に限った絵葉書との違いは、階段前に「鳥居( 昭和十四年四月建立)」が立てられ、階段中央には「手すり」が付けられました。また、絵葉書中央下の「祠」は現存しません。

階段下の「 石灯籠(明治廾三年十二月一日)」と上り切った場所に立つ「しめ柱(明治卅七年八月吉日建)」は、絵葉書と同じ位置に現存します。しかし、「 石灯籠」と違い「 しめ柱」は社殿(明治22年12月26日建立)から約15 年後に立てられています。

冒頭絵葉書右上の「忠勇報國遐邇具瞻※1」と書かれ銃剣の形を模した碑は「征淸紀念碑※2(明治28年建立)」で、鋳鉄製のため第二次大戦で金属供出し現存しません。

注)カッコ内の年月日は、建造物に刻まれていたままです。ちなみに、廾は十が2つで二十、卅は十が3つで三十の意を表します。
※1 遐邇(か じ):遠いところと近いところ。遠近。
  具瞻(ぐせん):衆人が共に仰ぎ見ること。衆人が見上げ尊ぶこと。 
※2 日清戦争勝利の記念碑。 

・四條畷神社創建への歩み⑴

四條畷神社について、本市発行の「ふるさと四條畷」に創建までの記述があります。そこで、2回に分け原文をそのまま引用し紹介します。

『時は南北朝時代の正平三年(一三四八)一月五日、南朝の命運をかけた四條畷の戦いが、飯盛山下で行われたのでした。小楠公楠正行の率いる南朝軍三〇〇〇は、高師直の率いる六万の大軍と対決し、終に五日の夕刻無念の涙をのんで正行一族は戦死。その遺骸が葬られた場所が現在の小楠公御墓所。当時は盛土の上に小さな墓標の石が置かれた墓所でした。その後二本の楠の木が植えられ、里人たちに守られてきました。ながい年月を経て明治の時代になってから、墓域を拡張整備してさらに小楠公神社を創建しようという話が持ち上がり、当時の市長(原文ママ)三牧文吾氏をはじめ地元の方々の尽力によって、現在の墓所が完成したのです。

明治十一年一月五日、小楠公御墓所の建碑式が盛大に挙行されました。引続いて小楠公をまつる神社創建へのおもいが強く、苦労された委員の人たちを中心に小楠公神社創建への歩みが始まったのです。当初は墓所の南に社地を求めて、この地に神社をとの計画があったようですが、その後年を重ねて検討された結果、墓所より東約一〇〇〇㍍の飯盛山麓の現在地が最適とする案にまとまったのでした。』(次号へ続く)

ふるさと四條畷 85,86頁

小楠公御墓所の内容は、以下のリンクから

市政報告の画像

データ

PDFのリンクです。上記画像がダウンロード出来ます。

http://nagahata.jp/pdf/Vol179.pdf


<了>

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