【家族7人20日間のウズベキスタン🇺🇿旅行】 #2 サマルカンド
4月26日から5月15日まで敢行したウズベキスタン旅行について全5回にまとめました。カザフ人の妻と子ども5人(長女9歳、次女7歳、長男5歳、次男2歳、三男7ヶ月)と共にウズベキスタンを約2,000km旅して得た様々な事象と心象を綴っています。
<旅の日程>
4月26日〜5月1日朝@タシケント
5月1日〜5日午前@サマルカンド
5月5日午後〜9日朝@ブハラ
9日夕〜12日夕@ヒヴァ
13日朝〜15日昼@タシケント
前回の記事はこちら↓
本記事は、「#2 サマルカンド」として、5月1日から5月5日午前まで過ごしたサマルカンドでの彼是についてまとめたものです。
ウズベキスタン鉄道
朝9時の列車に乗るため、アパートからタシケント中央駅までタクシーで移動した。料金は15,000スム。運転手は今日からタシケントで働き始めたウズベク人の青年で、私たちが最初の乗客だった。前はサンクトペテルブルクでやはりタクシーを1年ほど転がしていたそうだ。深入りして聞いていないが、諸事情あって出身地のタシケントに戻ってきたのだろう。財布の中に丁度の札もなかったので、20,000スムを渡しタクシーを降りた。
ウズベキスタンの鉄道では駅舎の外に手荷物検査場があり、チケットを見せないと中には入れない。厳重だが非効率さも感じる荷物検査を経て、駅の構内に入った。構内にはいくつか売店ががあり、飲食スペースも用意されていた。ちらほらバックパックを背負った日本人も見かけた。大きなトランクを引きながら歩く観光客もいた。同じ列車に乗るのだろう。軽食用にピロシキ、サムサ、菓子パン、それにコーヒーを注文し、プラットフォームに移動しようとした。そこで、鉄道駅も地下鉄と同様にエレベーターがなく、プラットフォームに着くまで階段の昇降が必要だと知る。畳んだベビーカーと乗っていた次男を担がなければいけない。しまった、優雅にコーヒーを片手に持っている場合ではない。どうしよう。階段の目の前で、急いでベビーカーを畳む。コーヒーをどうしようかてんてこ舞いになった。そんな姿を横で見ていた、1人の旅行者が言葉少なに助けてくれた。彼には結局列車の座席まで荷物の一部を運んでもらった。何度も感謝を伝えたが、表情は硬いまま。それでも、心は柔らかい。
列車の中はむっとする暑さだった。湿度は低いが日差しは強い。窓を開けたら風が柔らかな涼気を運んできて、幾分和らいだ。発車してしばらくしてやってきた乗務員に、冷房が効かないからと窓は無慈悲にも閉められた。いつになったら冷房がつくのかわからない。車両にこもる熱気で三男は汗ばんでいた。ふと、横を見ると悲惨な光景が広がっていた。子ども達には列車で食べようねと約束して前日にオモチャが入った卵型のチョコを買っていたが、娘2人と長男は上手に食べていた一方、次男に目をやると口や手にチョコがベッチョリとへばりついているではないか。次男は「あはは」と笑いながらあどけない表情を浮かべていた。家でこそ微笑ましいが、旅行中の列車では悲劇に近い。座席がチョコまみれになる前に、いそいそと拭き取った。
カザフスタンで列車に乗ると、地平線まで続くステップや牧草地帯をひたすら眺め、時折鄙びた駅に停車し、また進むという単調な旅が続く。タシケントからサマルカンドの間では農村地帯が続いていた。生活の様子を垣間見られるので飽きない。広大な農地で耕耘機も使わず作業をする農夫、用水路のそばの空き地でサッカーに興じる少年たち、買い物袋を携え、娘と手を繋ぎ遮断機が上がるのを待つ女性、何気ない日常が風景に映り込むだけで心を刺激した。シルダリアの街を越えてから住宅は少なくなり、広大な農地がさらに広がった。しばらくすると、進行方向の左手に聳える山脈が目に入った。ザアミン山脈だ。稜線を境にしての山脈の向こうには、タジキスタンがある。日本で今回の旅を計画している時、ウズベキスタン旅行が終わったら、パミール高原を彷徨い、天路の旅人となって南キルギスに抜ける旅をしようかなどと呑気に妻と話していたことが懐かしい。タジキスタンの旅行会社に相談したら、二つ返事で断られた。悪いこと言わないからやめておけと止められた。とてもじゃないが子どもを抱えて敢行する旅路ではなく、そもそもシーズンは6月以降なので雪も溶けていないのだという。キルギス人の友人にも相談したが、答えは同じ。南キルギスに抜ける山道は悪路が続き、治安も良くないという。心の片隅にある無念さに蓋をし、車窓の向こうに広がるザアミン山脈を見ているうちに、列車はサマルカンドへと近づいていった。
間の悪い連絡
世界で最も訪れたかった場所の一つであるレギスタン広場を、屹立する三つのメドレセをようやくこの目で見ることができる。サマルカンド駅に到着した時、そんな胸の高鳴りは、次男と三男が泣き喚き始めたことで掻き消された。長時間の移動による居心地の悪さと昼下がりの眠気、そして車内の熱気と汗による不快感で、2人の息子達はギャンギャン泣いた。車内で落ち着かせるかと考えたが、20分停車するものの列車はブハラへ向けて出発するため、ゆっくりはできない。重い荷物と喚いて暴れる子ども達を抱え、私たちはプラットフォームに降り立った。乗客の流れに沿って、駅舎の脇にある出口をくぐる。妻がYandexでタクシーを手配しようとしたら、スマホに複数の着信と旅行会社からメッセージが届いていたことに気づいた。
「アパートの部屋が変わりました・・って来てるよ」
・・えっ?にわかに理解できない。泣き喚く三男を抱えながら、妻が折り返し電話をする。なぜこのタイミングで?話を聞くと、今朝エージェントが部屋を見に行くと別の部屋がリフォームの最中で、埃は舞うわ騒音はすごいわでとても寝泊まりする状況ではなかったという。急いで別の空き部屋を探した結果、同じ棟や区画では見つからず、ようやく別区画で見つけたので、いま連絡してきたのだ。
エージェントから新しいアパートの住所を教えてもらうが、GoogleやYandexに入力しても精確な位置がわからない。運転手に直接説明すると言われ、もどかしい気持ちでタクシーの到着を待った。ジリジリと照りつける日差しで汗ばむ。ようやく着いたタクシーに乗り込み、運転手にスマホを渡して住所を聞き取らせ、アパートに向かった。車内でも子ども達の泣き叫びは収まらない。早く着いてほしい。こちらの焦る気持ちとは裏腹に、運転手は「おお、どうした。眠いのか。」と泣き声を気に留める様子もない。それが救いだった。
アパートは駅からそれほど離れていないが、新興住宅街の一角で周囲では別のアパートを建設していた。アパートに入る小道は舗装されておらず、重機の騒音が鳴り響き、土煙が舞っている。アパートの前で待っていたエージェントから部屋の場所を告げられ、愕然とした。
「6階です。エレベーターはないので階段を登りましょう。」
やり場のない怒りがさらに高まった。こっちは5人も子を抱えて大変な状況なのに、どうして直前に連絡をよこすのか。周囲の環境も悪いじゃないか。延々と続いた子どもの喚き声と暑さも重なり、どんどん他責思考に埋もれていった。部屋について荷物を置き、子どもがようやく落ち着いてもまだ心は平静にならない。こんな気分になるなんで、旅が台無しだ・・・部屋から一歩も外に出たくない感情に囚われた。そんな中、子を宥め、エージェントの説明を聞き、電話で必要なやり取りをして疲れているはずの妻の方が落ち着いていた。
「あなたが来たかった場所にやっと着いたのよ。さあ行きましょう。レギスタン広場に。」
優しい言葉に促され、重い腰をなんとか上げた。
帝王ティムールと学者ウルグベクを偲ぶ
サマルカンドの観光は、ティムールとウルグベクの功績と遺産を巡る旅だった。ティムールは、チンギス・ハン率いるモンゴル軍に破壊されたサマルカンドを復興し、幾度となく外征を続け、現在のイランやトルコ、インドの北部を支配下に置く一大帝国を築いた。「ティムール一族の功績を知りたければこの建築物を見よ」という言葉を残し、私たち観光客はその栄華を推して知ろうとしている。妻はフランスの研究者がまとめたティムールの自伝を購入するほどのめり込んでいた。また、ティムールの孫・ウルグベクは、今回の旅を通じてその存在の大きさを初めて知り、敬意を覚えた。サマルカンド、ブハラ、ギジュドゥヴァンのメドレセを建て学術の振興に努めるだけでなく、天文台で今日の計測と1分にも満たない誤差の恒星時を計測し、ペルシャから著名な天文学者を招き1018の星の軌跡を記録した天文表をまとめた。天文表は17世紀半ばヨーロッパに伝えられ、大きな評価を得たそうだ。何より特筆すべき点は、地動説を唱えたガリレオ・ガリレイより100年も前に、つまり望遠鏡もない時代に科学的な知見を世に伝えていたことだ。宗教指導者の謀略によって騙された息子が刺客を差し向け、非業の死を遂げたことも彼の英雄性を高めているようにも感じられた。
レギスタン広場には毎日訪れた。1420年創建のウルグベク・メドレセ、タブーを犯すデザインのシェルドル・メドレセ、眩いばかりに礼拝所が輝くティラカリ・メドレセ、向かい合う3つのメドレセを見るだけで心が満たされた。たとえ、子ども達が鬼ごっこをしたり、石垣を飛んだり跳ねたりしたり、転んで泣いたりしても、飽きることなく見ていた。展示物で個人的な関心を引いたのは、19世紀から20世紀初頭のレギスタン広場の様子を写した写真だ。躯体は残っているもの外壁やミナレットは崩れ、装飾の大部分は剥がれていた。現在のメドレセがソ連時代に進められた修復によって往時の輝きを取り戻していることを改めて知った。また広場ではバザールが催され、交易と交流が時代を超えて行われていたことに驚いた。天候や心身のコンディション、子ども達の疲れ具合などの事情により、毎日19時以降に催される民族舞踊とライトアップのショーを見ることが叶わなかったのは心残りだ。
ウルグベク天文台跡は、宇宙や星座、神話の好きな長女が来ることを楽しみにしていた場所だった。果たして、長女は半径11mもある巨大な六分儀の遺構を見てとてもがっかりしていた。望遠鏡で天体観測ができるものと考えていたようだ。地中の中に弧を描く六分儀を見ても、何が何やらわからなかったのだ。どうやら「天文台」という言葉がよくなかったらしい。
「六分儀って何?」
長女の素朴な疑問に、
「えーっと、星と星の位置を調べて・・・距離を測って・・・自分の位置を調べる道具だ、よ・・・」
しどろもどろに答えるうちに長女は色とりどりに咲く花壇の花に目をやっていた。
シャーヒ・ズィンダ廟群はティムールゆかりの人々を祀った聖地である。入り口の門をくぐり、“天国への階段”を登り、さらに小さなドームの先に絶景があった。アミールゾダ廟、シャーディムルク・アカ廟、そしてシリンベク・アカ廟の鮮やかなタイルが装飾されたファサードが私たちを出迎えてくれたのだ。正午前に訪問したためか、既に多くの観光客で賑わっており、ロシア語、フランス語、スペイン語、ドイツ語、中国語、そして日本語が雑踏の中から聞こえてきた。奥には、ホレズム遠征の際、チンギス・ハン率いるモンゴル軍が来襲しても破壊されずに残ったクサム・イブン・アッバース廟がある。サマルカンド最古の建造物らしい。人混みを掻き分け、礼拝室に入って間もなく、祈りの言葉が室内に響いた。喧騒は瞬く間に静寂になり、ある者は耳を傾け、ある者は退室した。観光と巡礼が混淆する瞬間だった。
ビビハニム・モスクは往時に中央アジア最大級を誇ったと言われる巨大なモスクだった。少し離れたシャーヒズィンダ廟群の物見台からもその大きさは窺えたが、間近で見るとまさに空を見上げる高さまでアーチが広がり、その威容に圧倒された。中庭には、タシケントで見たウスマン・コーランを置くラウヒ(書見台)があった。モスクはティムールが建設を指揮し、ラウヒはウルグベクが寄進したという。複製本が置かれ、ガラス張りで展示されていた。正面にある大モスクには柵が置かれ、円蓋の内部は未修復のままだった。彩釉タイルで装飾されたファサードとは対照的であったものの、往時を偲ばせる趣があった。内部を一通り見た後、日陰になっている大理石の石畳に座った。30度近い気温の中歩き回ったため、中庭を走り回る子ども達に注意する気力もなく、疲れた身体を少し休ませた。ふと、大モスクの周りを飛び交う小鳥達が目に留まった。複数のつがいが甲高い鳴き声を上げて飛んでいる。ティムールの死後、時間を経るに従い、崩壊が進み廃墟と化していたそうだが、小鳥たちは営巣を続けてきたのだろうか。ホールに木霊する小鳥の鳴き声に耳を傾ける。何百年もの間、このモスクを、いやこの地を守ってきたのは小鳥たちなのかもしれない。
交易の足跡―アフラシャブ博物館
ウズベキスタンに訪れる前、アルマトゥイで物流業を営んでいる妻の従姉妹と会った。契約した自社トラックを複数有し、中国、ロシア、イラン、キルギス、ウズベキスタンなどから調達した商材をカザフスタン国内の小売業に届けているそうだ。競合は多く、アルマトゥイだけで200以上の同業者がいるという。夜に会ったがひっきりなしに部下から報連相のメッセージがスマホに届けられ、適宜対応していた。国境を越える時が最も厄介なのだという。「規模は大きくないわ」と謙遜しながらもユーラシア大陸の流通を担うB2Bビジネスに奔走する彼女に憧れと羨望を覚えた。
アフラシャブ博物館に飾られた7世紀のフレスコ画を見た時、彼女のビジネスを思い出しながら、当時の交易が現代と変わらずユーラシア大陸を跨る規模で行われていたことに畏敬の念を抱いた。高さ2.7m、幅11mの巨大な壁画は発掘された状況と同じように部屋の四面に展示されていた。高麗、唐、チベット、インド、ペルシア、そしてソグド人の使節や隊商が砂とオアシスの大地を行き交う姿が目に浮かぶようで胸がゾクゾクした。グローバル化以前の遥か昔、移動手段や服装、文化様式、産品にそれぞれの特性があったことをフレスコ画は伝えてくれている。シボレーではなく、馬やラクダ、象に乗った人々が行き交っている。共通の宗教はもちろん誰もが知る共通言語すらなく、異質性が際立っていた時代だっただからこそ、ここに描かれたものに価値があるのだろう。時空を超えても、ユーラシアは一つなのだと無邪気な感想が頭を過った。
モンゴル軍によって壊滅させられた旧サマルカンドがあったアフラシャブの丘にも登ってみた。見晴らしがよく、サマルカンド市内を一望できる。先に登っていた若い観光客が手を振ってきた。振り返すと仲間内でキャッキャと笑い合っている。発掘跡の窪みの間に伸びる起伏のある轍を歩いていくと、石碑に辿り着いた。先程のフレスコ画が発掘された建物や考古学的な意義について簡単に説明されている。丘の北東部にはその建物跡が残っているが、今回見ることは叶わなかった。アフラシャブは伝説上のソグド王の名だそうだ。交易を開くべく送った通商使節が虐殺されたオトゥラル事件を受け、復讐に燃えたチンギス・ハンはモンゴルから大遠征に出て、ホレズム・シャー朝を滅亡させた。アフラシャブの丘を中心に栄えた旧サマルカンドは蹂躙され、砂に埋もれた。同じ場所に再興できなかったのは街に潤いを与えた給水システムが破壊されたためだ。現在、兵どもが夢の跡は雑草に覆われている。柔らかに吹く乾いた風、在りし日の繁栄に思いを馳せた。生い茂る草を喰む羊を見ながら、畦道を通り旧市街へと歩いた。
第9回中央アジア空手大会
妻が昔教わった空手の先生が弟子を連れてサマルカンドに来ていなければ、いや来ていたとしても、わざわざ観光旅行中に空手大会の会場に赴くことはないだろう。とはいえ、旅先で知人に会うことも何かの縁なので、レギスタン広場に行く道すがら、会場に立ち寄ってみた。
陸上競技場と同じ敷地内にある施設が会場だった。コートが4面設置され、参加者と大会関係者が所狭しとひしめいていた。中央アジア各国の代表選手が集う国際大会だが、どこかローカルな雰囲気がある。歴史・文化的距離の近さ、そして地域全体の人口規模で考えると日本でいう国体のような感じなのかと一瞬考えたが、多様な民族構成と国を跨いだ移動距離を踏まえるとやはり国際大会なのだと思い直した。
会場に掲揚されている国旗を見て1枚多いことに気づく。カザフスタン、ウズベキスタン、キルギス、トルクメニスタン、タジキスタン、そしてイランの国旗があった。中東では同様の大会がないのだろうか。しかし、考えてみれば数千年来の文明の交流と剣を交えた戦いがあったわけだ。中央アジアとペルシャは互いの国土の征服と奪還を繰り返しながら歴史を歩んできたのだ。スタンは「〜の国」というペルシャ語であり、タジキスタンの公用語はペルシャ語だ。スンニ派とシーア派の違いはあれど、イスラム教を信奉する同胞なのだ。ウズベキスタンの人口の20%はイラン系のタジク人が占めるとも言われている。またイランに対する経済制裁に中央アジア諸国は参加しておらず、むしろ関係を強化している。例えば、カザフスタンは先日亡くなったライシ大統領とイランを介してカザフスタンとトルコを結ぶ鉄道網の整備について合意しており、ウズベキスタンはイランを通じて、紅海やインド洋に抜ける物流網を整備している。卑近な例では、スーパーマーケットでイラン産のドライフルーツや果物を当たり前のように見かける。欧米諸国の様々な指標だけでは理解できない、地域大国の存在感があるのだろう。競技に留まらない関わりの深さについて、勝手な想像を膨らませた。
会場の一角に席を取り、子ども達におやつを与えて試合観戦。娘たちと長男は初めて間近で見る格闘技に興奮していた。会場内に選手の喝やコーチの指示、仲間の声援が木霊していた。先生とはアルマトゥイでも一度会っているので子ども達は会いたい様子。先生がなかなか見当たらないので、妻が連絡を取った。
「会場に着きました。どちらにいますか?」
「弟子の試合が終わったからホテルに戻ったわー!」
時間くらい聞いておいてよ・・・なんて野暮なことは言わず、チョコまみれになった次男の口元と手を拭い、会場を後にした。
サモサの値段はいくら?
ショブ・バザールではいくつか土産物を購入した。おそらくこの国を旅行する誰もが体験することだろうけれど、同じ商品なのに店ごとに値段が違うことには閉口した。写真やタイル模様が印刷されたマグネットが5,000スム違うことはまだしも、シルクのスカーフやパンツ、コットンの羽織が20,000スム以上、下手をすれば50,000スムも違うのだ。どうして値段が違うのか理由を聞くと、「手作りだから」と異口同音に唱えるから参ってしまう。明らかに量産品なのに、工場制手工業よろしく労働者が一つ一つ丹念に編んでいるとでもいうのだろうか。面白いのは、こちらが交渉を始める前に、「いま買うなら20,000スムまけるよ」などと店側から割引額を提示してくることだった。妻のおかげで様々な店で値下げ交渉を垣間見たが、割引は初期価格の2割から3割が限度という傾向だったのも興味深かった。3割引はその店でいくつかまとめて土産を買うときに可能だった。店員の人当たりがよく、在庫が豊富で、初期価格が比較的安価、そして店主と直接交渉できる店で購入するようにした。
サマルカンドからブハラへ向かう日、駅で車内用の軽食を購入したときは失敗をした。乗車まで時間がなかったので、ロビーで最初に目に入った店に行き、値段も聞かずに購入してしまったのだ。サモサと菓子パン合わせて10個、そして1リットルの水二つで20万スム。そんなものかと思って支払ったが、別の店で全く同じサモサを見たので値段を聞くと、何と一個あたり20,000スムも違う。慌てて、最初の店に戻り、どうして値段が違うのかと聞くと、「おばあちゃんの手作り」だという。常套句に対する笑いを抑えながら、適正な価格で計算し直してくれというと、払った金額より10,000スム多い金額が提示された。いやいや、おかしいだろと詰め寄ると、金を返して欲しかったら10,000スムは返す、それでも嫌なら別の店で買えと強気に出てきた。何度かやり取りした果てに、根負けし10,000スムを受け取り、立ち去った。
お金のことばかり書くと自分の貧乏性と浅ましさに嫌気が指すが、こちらにも旅の予算があるため、局面ではついつい交渉したり適正価格を追求したりしてしまう。しかし、そもそも適正価格などあるのだろうか。店ごとに価格が違うのは前述の通りで、売り手次第なのである。また、某国ほどではないにしろ、桁数の多い金額になかなか慣れない。10,000スムが約123円だと頭で理解はしていても、買い物の旅に万単位、十万単位で支払っていると、「えっ・・?払いすぎじゃね・・?」と不安になることもある。
とはいえ、である。ウズベキスタンの平均日給は1200円程度、つまり約10万スムと言われている。小売業、しかもテナントを構える店だと、仕入から家賃、光熱費、さらに従業員の給料といった経費がかかる。土産物屋は乱立し競争も激しい。2割から3割も割引すると取り分が少なくなる可能性もある。そうであれば、良い関係が築けた店で欲しい品があったら、浅ましい考えは捨て、気風の良い買い物をすればいいのではないか。
こう考えると一時は気が楽になるのに、再び店で土産物を物色すると邪念が浮かんでくるのだから、人間なかなか学ばない。
買い物の度に、ああでもないこうでもないとブツクサ言う私に妻がピシャリと言った。
「あの人たち(ウズベキスタンの土産物屋さん)は、私がカザフ人と知ってかなり親切に交渉に応じてくれているのよ。あなただけだったら、多くは値切ってくれないわ。特に日本人にはね。」
1人で土産物屋に行った時、実際にそうだったので妻の言葉にグウの音も出なかった。
*夫婦揃ってショブ・バザールや土産物屋が並ぶイスラム・カリモフ通りの写真を撮影していなかったことに、本記事を書きながら気づいた・・・トホホ。
「#3 ブハラ」に続きます。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?