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【家族7人20日間のウズベキスタン🇺🇿旅行】 #1 タシケント

4月26日から5月15日まで敢行したウズベキスタン旅行について全5回にまとめました。カザフ人の妻と子ども5人(長女9歳、次女7歳、長男5歳、次男2歳、三男7ヶ月)と共にウズベキスタンを約2,000km旅して得た様々な事象と心象を綴っています。

<旅の日程>
4月26日〜5月1日朝@タシケント
5月1日〜5日午前@サマルカンド
5月5日午後〜9日朝@ブハラ
9日夕〜12日夕@ヒヴァ
13日朝〜15日昼@タシケント

滞在都市と周辺地図

本記事は、「#1 タシケント」として、4月26日から5月1日朝まで過ごしたタシケントでの彼是についてまとめたものです。

街路樹の緑と青い空と白い砂

カザフスタンの旧都アルマトゥイから出発した飛行機は1時間ほどして降下を始めた。窓の向こうに見えたタシケントは地平線まで街が広がっていた。アルマトゥイから飛行機で約1時間半、距離にして約680km南西に位置するウズベキスタンの首都タシケントは、人口296万人を抱える中央アジア最大の都市であり、シルダリヤ川の支流の恵みに支えられ、2,000年にわたってシルクロードの要衝として栄えた歴史を持つオアシス都市だ。ロシア帝国からソヴィエト連邦に至るロシア人の入植の結果、街は区画整備が進み、1967年の大震災を経て再整備された。街はティムール広場を中心に同心円上に広がっているように見えた。天気は晴天、雲は流れているものの空は青かった。白く霞む先に、ソ連時代から市民が利用してきた集合住宅や新興住宅が並び、街路樹や公園の緑が見えた。オアシス都市の名に違わず自然が豊かだ。

空港の前の広場では、ウズベキスタンの国旗が風に靡いている。国旗は青と白と緑のトリコロール。青は水と空、緑は自然、青と緑に挟まれる白は自由を象徴しているそうだ。タクシーに乗り込んで宿泊先に向かいながら、街を眺める。まさに、鳥の目と虫の目で目に映る風景を吟味した。飛行機の窓から眺めた通り、街は整然としていた。何より目を引いたのは横に並ぶ5〜6階はある集合住宅やオフィスと同じくらいにある街路樹の高さだった。後々街を歩きながら痛感したが、いくら気温が高くても日陰はひんやりと涼しい。高い木立が作る陰は市民生活にとっても大切なインフラなのだろう。平らなアスファルトの道路を進むにつれ、雲が流れていった。気温は25度、風は生暖かいく、日差しはジリジリと暑い。抜けるような青空と豊かな街路樹について感想を伝えると、運転手は砂が多いだろうと自重気味に答えた。風が強い日には砂嵐が起こることもあるという。風に舞う白い砂埃を見ながら、砂の大地を東奔西走した隊商や戦士たちに勝手な憧れを思い描く。多分、現代人よりは自由を感じていたのだろうか。いよいよ、旅が始まる。万感の思いが胸に湧いてきた。夢に見たウズベキスタンに、遂にやってきたのだ。

上空から見たタシケント市街

夢を追って

昨年9月に5人目の三男が生まれた。生活のオペレーションを回すため、1年間の育児休職を取得した。そして、家事や育児に取り組む傍ら、今回を逃すと長期滞在することはないだろうと思い、海外渡航の計画を立てた。もう一つの母国カザフスタンにできるだけ長く滞在し、妻の両親や親戚と親交を深め、子ども達と共に言語・文化・生活習慣などを学ぼうと考えた。そして自分の夢の一つを叶えるべく、ウズベキスタン旅行を計画した。

さまざまな人生の巡り合わせから、カザフ人の妻を娶った私は当然の成り行きで中央アジアに興味を抱いた。中央アジアや妻の母国カザフスタンに関する本を読み、YouTubeにアップされた動画を眺め、そして漫画『乙嫁語り』を読み耽った。そうするうちに、いつしか中央アジア最大の歴史文化遺産を持つウズベキスタンに訪れたいと思うようになった。しかし、時間だのお金だの子連れ旅の苦労だの、想定されるあらゆる現実を逡巡と躊躇を言い訳にして実現させてこなかった。子どもが増え、生活と仕事に追われ、コロナ禍に巻き込まれる内に、憧れを描いてから十数年が過ぎた。

日々の忙しさの中に埋もれた夢を再び見ようと思ったのは、あるとき放たれた妻の一言だった。

「親が夢を叶えたりそれに向かって努力したりしていないのに、子どもにあれこれ言う資格あるかしら」

迷いはあったが背中を押された気がした。とにかく行こう。踏み出すことを決意した。現地の友人に相談し、旅行会社を通じて宿泊先を手配してもらった。妻も訪問したことがなく胸を膨らませ、子ども達は父の夢に付き合うことを喜んだ。幼稚園や小学校は「良い機会ですから楽しんで来てください」と温かく送り出してくれた。

2024年3月末、私たちはカザフスタンのアルマトゥイ空港に到着した。1ヶ月弱、アルマトゥイで暮らし様々な体験をしつつ、旅の準備を整えた。4月26日、私たちは再びアルマトゥイ空港に赴き、ウズベキスタンに向かう飛行機に搭乗した。


旅人への洗礼

乗車したタクシーは空港内にある店舗で手配した。現地の友人から市内中心部までタクシーは最大5万スム(旅行時のレートで1ドル=12,600スム前後、1万スム=約123円)と聞いていた。空港内にある店舗の料金表を見ると、確かに普通車で5万スムと書いてある。私たちはウズベキスタンの旅行者に必須のタクシー配車アプリYandexをインストールしていなかった。到着直後にいきなり白タクとの交渉は骨が折れる。ましてや子どもと荷物を抱えてバス移動も避けたかった。恰幅が良くモジャモジャ眉毛のオヤジに価格を確かめた上で、タクシーを依頼した。

風に靡く国旗

ティムール広場に近づいた頃、飛行機での移動疲れ、そして昼食を満足に食べていない空腹感のせいか、後部座席に座る子ども達は些細なことで言い合い、喧嘩を始めた。さらに、運転手はアパートメントの住所がわからず、路上駐車し、アパートで待つ旅行会社のエージェントに電話で確認する始末。妻や私は心穏やかではなかった。
アパートの明確な位置が判明し、ようやくタクシーは発進したが、ティムール広場を周回してアミール・ティムール通りを少し北上するうちに、アパートメントがある区画を通過した。おいおい、どうしたと思ったがよく道路を見ると中央分離帯が帯ではなく壁になっている。そのため、交差点以外で左折することはできないため、Uターン用に壁が取り払われている場所や交差点まで直進を続けないといけないのだ。渋滞緩和のためかと自分を勝手に納得させたが、子ども達の騒ぎは収まらない。

アパートメントに着いた。建物の周囲は緑に覆われ、外観は古びていた。ソ連時代に建てられたと思われる集合住宅だ。部屋は4階、もう一踏ん張りだ。荷物を下ろし、運転手に礼を言って5万スムを手渡すと「違う」と言ってくる。どこをどう見ても5万スム紙幣、もう一度差し出すと、10万スムだと言ってくる。私が食い下がろうとした刹那、空港で手続きを行なった張本人の妻が、子ども達を宥めるストレスと相俟って憤怒の形相で叫んだ。

「空港で5万スムだと何度も確認したのよ。レシートを見せなさい!」

運転手が見せたレシートには、なんと10万スムと記載されているではないか。妻は怯まない。凄い剣幕で畳み掛ける妻に対し、運転手はたじろぎ、空港のオヤジと直接やり取りしてくれと言って電話を渡してきた。怒りが収まらない妻は電話先のオヤジに捲し立てる。

「どうしてレシートに10万スムと書かれているのよ!あなた、私に5万スムと言ったでしょう!」

電話の向こうにいるオヤジはあんたらの後ろにいたロシア人に言ったのだと嘯く。これが火に油を注いだ。

「ふざけてるの?私たちの後ろには誰も居なかったでしょう!!」

食えない顔をしたオヤジは完全に呑み込まれた。わかった、わかった、5万スムでいいから怒るなとへつらい電話を運転手に代われと言ってきた。オヤジから話を聞いた運転手は彼がそういうならと言って最初に差し出した5万スム紙幣を受け取り、そそくさと立ち去っていった。

まったくどうなっているのかと溜息をつきたくなる出来事だった。妻がいなければ、いやロシア語が堪能な誰かがいなければ、どうなっていたのだろう。

インターコンチネンタルホテルタシケント。ここだけ切り取ると、一人当たりGDPが1520ドル、世界平均の20%に満たない国とは思えない。


旧市街歩き−チョルスー・バザールとハスティマム広場

いくらシルクロードに栄えた都市とはいえ、現代のタシケントにラクダはいない。その代わり、タシケントにはこれでもかというくらいシボレー製の車が走り回っている。国策企業と韓国メーカーの合弁会社が発展し、現在はGMウズベキスタンとして資本比率はウズベキスタン側が多く持ちつつ、シボレーブランドを残して製造販売しているそうだ。カザフスタンに出回るシボレー車もウズベキスタン製というくらい、シボレー車の製造と販売はこの国の経済を支えている。タクシーはもちろん、家庭用乗用車もファーストチョイスはシボレーだ。韓国車や中国車に比べ安価なのだ。海外製の車には関税がかかり、中古車ですらほぼ見当たらない。「モノポリーですよ」と現地の友人はこぼしていた。とはいえ、少なからずシルクロードへの憧憬を描いて訪れた身としては、市内の道路を埋め尽くすシボレー車(しかも、ほとんどホワイト!)には閉口した。

街路樹とシボレーと青空

モノカルチャー的光景から逃げるように、2日目は旧市街に向かった。地下鉄を乗り継いでチョルスー駅に着くと、バザールに向かう人が流れを作っていた。階段を登ると露店が所狭しと並んでおり、Googleマップを開いて位置情報を確認しても、方角を間違えるくらいだった。タシケントでの土産物は旅の終わりに購入するつもりだったので、この日は価格帯などを把握するために訪れた。ドライフルーツの小皿アソートが25,000スム、模様の入った皿が30,000スム、細工が凝った皿は30万スム以上、マグネットは10,000スム前後、など今後購入する際に役立ちそうな情報を集めていく。果物やドライフルーツの店では、とにかく試食させてくれる。「アッサラーム、アレイクム!」と挨拶と同時に試食のドライフルーツを差し出してくれる気風の良い店もあった。子どもが5人いても構わず一通り食べさせてくれるので、打算があったわけではないが、お陰でおやつを買い与える必要はなかった。幸い子ども達は大丈夫だったが、私は少し胃がキリキリする程度の食当たりがあった。ドライフルーツは洗って食べるものよと妻に言われた。そういうことは早く言ってほしい。またメロンのドライフルーツは物珍しさに土産として購入したが、口に入れた瞬間、甘みの強い沢庵のような味が広がり、深く後悔した。スイカとメロンだけは、夏に生で丸ごと食べるに限る。(少なくともカザフスタンでは日本の倍以上の大きさで倍半分以下の値段、それでいて美味しいのだ)

バザールのドーム1階は精肉エリア
ドーム2階はドライフルーツがずらりと並ぶ


チョルスー・バザールを後にして、モスクやメドレセが並ぶハスティマム広場に向かった。思いの外遠く、さらに”Center of Islamic Civilization”なる巨大な建物の建設のため路地が封鎖されており、道に迷ってしまった。この日だけでなく、旅を通じてGoogleマップと実際の地理との違いに戸惑うことは多かった。ようやく辿り着き、ハズラティ・イマーム・モスクを崇めた時の安堵感たるや一入だ。

ハスティマム広場。地元の子ども達が凧を飛ばしていた
ハズラティ・イマーム・モスクの絨毯に惹かれる子ども達


巨大なCenter of Islamic Civilizationの建物


ハズラティ・イマーム・モスクにあるコーラン博物館には、世界最古のコーランと言われる「ウスマーン・コーラン」の写本が展示されている。一見の価値があると思い、家族分14万スムを支払い入館した。7世紀だから、製紙技術がイスラム世界に伝わる前に作られており、材質は羊皮紙だ。拝観の前、B5サイズぐらいの手に持てる大きさかなと勝手に想像していたが、実物は想像を超える大きさだった。聖なる教典は、成人男性一人をすっぽり包む大きなガラス箱の中に、ズシリとした重さが感じられるように開かれて置かれていた。諸説あるそうだが、3代目カリフのウスマーンが暗殺された時の返り血がこの写本についているということを後から知った。「撮影はダメだ」と入館前に係員から釘を刺されたので、カメラに収める衝動を抑えるのに苦労した。神への冒涜はやめよう、やめようと心の中で唱えている時、カシャッと音がしたように感じた。ふと横を見やると、ヒジャブを被った女性が畏れ多くも聖典をパシャパシャとスマホで撮影しているではないか!
こちらは、敬虔な信者でもないのにこの先の旅路で神罰が下されることを畏れ、必死に自重しているのに。何なんだコイツはと勝手な怒りが込み上げてきたが、女性は素知らぬ顔で向きを変え、博物館から出ていった。一方で、女性の大胆な行動に羨ましさを感じた。自分の逡巡など神ですら存ぜぬことなのだろう。別隣で、私と同じく撮影の煩悩に揺れていたフランス人旅行客は、連れ合いに制止され哀しげな表情を浮かべていた。

ハズラティ・イマーム・モスクの中庭。男性と女性で入口が分かれていた。


博物館巡り

タシケント市内にはいくつもの博物館や美術館が点在するが、私たちはウズベキスタン歴史博物館とティムール博物館、そして抑圧犠牲者博物館に訪れた。

ウズベキスタン歴史博物館は、先史からソ連時代までの歴史を展示している2階と現代の発展について展示している3階に分かれている。撮影用チケットを購入しなかったため、1階のロビーの写真しか記録を残していないのが悔やまれる。ガイドブックに載っていた3世紀クシャナ朝時代の仏像は、写真から伝わる迫力から信じられないほど小さいものだった。しかし、発見当時、ほぼ形を崩さず発掘されたことには驚くしかない。表情は薬師如来のように端整で透明感があった。発掘地域がテルメズといったアフガニスタンとの国境付近に偏っていることも興味深かった。中央アジア考古学の大家・加藤九祚先生が、ウズベキスタンこそ仏教発祥の地と提唱していたそうだ。

博物館には、外交・国際政治を専門とする高校生のグループが先生に連れられて社会見学に来ていた。どうやらウズベキスタンの児童は週末になるとエクスカーションに出かけるようだ。他の都市でも多くの児童が賑やかに観光地を訪れている姿を見かけた。児童は博物館や観光史跡の拝観が無料のため、よく足を運ぶそうだ。3階を拝観中、三男がぐずついた。手を焼いていたところ、女子高生達が「抱っこしましょうか」と声をかけてくれた。私がどうしてものかと迷っていると、1人の女子高生が自然に手を伸ばし三男を抱っこしてあやしてくれた。あまりのことに驚いたが、年齢の若さと裏腹に成熟した精神に感動した。彼女達は妻の話に興味津々だった。馴れ初めや日本での生活、5人の子育てなど矢継ぎ早に質問が飛んだ。国際関係を勉強し海外への夢を抱いているからこそ尚更だったのだろう。ひとしきり話してから別れた。

ウズベキスタン歴史博物館

ティムール博物館は豪華絢爛だった。金箔と極彩色のアラベスクと幾何学の模様に繕われたホールに引き込まれた。展示品の多くはレプリカで、本物はロシアやアメリカの博物館に貯蔵されていることは残念でならないが、ティムールとその一族の栄華を現代に伝えるだけの迫力があった。妻と長女は、ティムール本人に強く関心を抱くようになった。旅を終えたから言えることだが、ティムールに纏わる建築物を見た後にこの博物館を訪れる方がいいかもしれない。博物館に展示されたモスクやメドレセのミニチュア模型と現存するそれらの建築物との違いがわかるからだ。私たちはあらゆる要素で疲れ果て、再びタシケントに戻った際に訪れることはしなかったが、写真を見返した時に気づくことができた。

ティムール博物館のホール
ビビハニム・モスクの模型。ミナレットの青い部分は復元されていない。


抑圧犠牲者博物館は、プロフ・センター(ベシュカザン)でタシケント風プロフを堪能した後に訪れた。運河沿いに、整備された庭園とモニュメントとともに、木彫りの豪奢な柱をあしらえ、アイヴァン様式(イスラム建築で木柱に支えられた屋内の天蓋が特徴のテラス)の建物だった。ロシア帝国とソビエト連邦による支配に対して立ち上がり、非業の死を遂げたジャディードと言われるイスラム戦士たちや流刑された革命家たちの記録を残し、祈念を刻んでいる。以前、小松久男先生の著作『革命の中央アジア―あるジャディードの肖像』を読んだことがあり、図らずも邂逅したことに胸が震える思いがした。祀られた人々は国家にとって愛国心に満ちた殉教者だが、支配者から見ればテロリストであり、歴史は彼らを長く闇に葬ることを選んだ。2002年にオープンしたこの博物館は、ウズベク・イスラム文化の復興と分断統治による支配の歴史からの決別を象徴しているのかもしれない。できることなら、標題だけでなく解説にも英語を使ってくれると有り難いが、いつになることやら。

抑圧犠牲者博物館のモニュメント
抑圧犠牲者博物館はアイヴァン風の建築


現代のオアシスはテーマパーク?

タシケントでは中央アジアのディズニーランドと言われるMagic Cityを訪れた。Magic Cityはカザフスタンからわざわざ遊びに訪れる人もいるほど、人気のスポットである。入場に料金はかからず、水族館やアトラクション、レストランなど自分が遊びたい場所毎に料金を支払うシステムだ。周囲に高層ビルは少なく、園内は緑化されており、また開放感のある雰囲気が心地よい。連日、旧市街やバザール、博物館に連れ回された子ども達が息抜きがてら遊び回るのにちょうど良い場所だった。

Magic Cityの入口

池に面してテラスがあるイタリアンカフェで昼食を取った。肉と油がたっぷりのウズベク料理に若干食傷気味だったので、チーズをたっぷり乗せたピザがいつになく美味しく感じられた。様々なアトラクションや映画館、ショッピングモールが軒を連ねる園内。私たちにとっては、Magic Aquariumという水族館が最も楽しめた場所だった。展示は室内だが、照明を工夫したり水槽の装飾を鮮やかにしたりして見応えがあった。ドーム型の水槽はこの水族館の目玉だった。動物が好きな息子達はずっと興奮していた。

Magic Aquariumのドーム型水槽

帰りは、行きにタクシーで来た道を歩いてみた。タクシーの運転手は、無骨な顔に似合わずサービス精神のある中年のおじさんで、名所を横切るたびにどんな建物かを説明してくれた。タシケント市街に緑が多く過ごしやすいことを伝えると、昔はもっと森が広がっていたことも教えてくれた。開発により伐採されていったのだという。2016年に急死したカリモフ前大統領には敬意を抱いている一方、ミルジョエフ現大統領の進める経済開発や市場化に対し、一抹の思いを抱いているようだ。彼の話を思い出しながら、開発が進む地域や巨大なホッケー場、大統領府などの官庁街、1,100年前から街を貫くアンコール運河を横目に歩いた。オアシス都市として栄え、森が豊かだった往時のタシケントはどんな様子だったのだろうか。

Googleマップを見ながら歩いたにも関わらず、道を間違えた私たちは最寄りの地下鉄に乗って、アパートへ帰ることにした。

ホッケー場と高層ビル群。以前は森だったらしい


優しさに溢れた地下鉄とバス

ソ連時代に開業したウズベキスタンの地下鉄は、市民の大切な移動手段の一つであり、観光スポットでもある。駅ごとに成り立ちの歴史があり、プラットフォームのデザインに特徴があるため、わざわざ降車して写真を撮る観光客もいるくらいだ。タシケントの主要な観光地であるテレビ塔、プロフセンター、旧市街などへのアクセスもよく、とても便利である。料金は小学生以上が対象で、降車駅や乗換に関わらず一人あたり2,000スム。カードやアプリを使うと1,700スムに割り引いてくれるようだ。

ロシア製の最新式車両
中世に訪れたような雰囲気

利便性の一方、エレベーターとスロープがないため、構内に入ったり乗換で別路線に移動したりする時はなかなか骨が折れた。ベビーカーを抱え、移動疲れでグズつく息子たちの手を取り、階段を昇降しなければならないからだ。そんな時、かなりの頻度で近くを通る若い男性が手を貸してくれた。「手伝いましょうか」と声をかけ、こちらが答える前にベビーカーを一緒に運んでくれるのだ。プラットフォームから階段を登ろうとしていたら、降りてきた階段をわざわざ引き返して運んでくれる時もあった。感謝を伝えると、胸に右手を当て、言葉少なに立ち去っていく彼らは紳士以外の何者でもなかった。また便利な地下鉄は混雑しており、座席は大体埋まっている。日本での経験もあるので席に座らず移動すれば良いと考えていた。しかし、私たちが乗車すると、こちらが気づく前に誰かが席を譲ってくれるのだ。そして、譲ってくれた人や横に座る女性が必ず話しかけてくれる。

「5人ともあなたが産んだの?素晴らしいわ!」
「今日は暑いから車内が蒸すわね。もう少しで駅よ」
「地下鉄は端の車両が空いているから、次からはそちらに乗りなさい」

言葉の一つ一つが思いやりに溢れている。どこかの国で喧しいベビーカーを公共交通に持ち込むべきか否かなどといった議論はこの国では皆無だろう。

バスではこんなこともあった。タシケントでプロフを食べるならココ!と名高いプロフセンターに向かった時のことだ。目的地の側には目印になるテレビ塔があり、その方面に向かうバスに乗った。アミール・ティムール通りをまっすぐ北上するだけだが、停留所の名前まで覚えていなかった。どうしたものか。運賃係のおばちゃんに聞くと、「あんたら子ども5人もいるの!?」「都合のいい場所でバスは停まるから心配しないで」と言って前方に向かい、運転手と何やら話し込んだ。戻ってくると、テレビ塔の向かい側の横断歩道で停まるという。ほんまかいな。テレビ塔が見えてくると、バスは本当に停留所のない交差点に停車した。向かいの道沿いにプロフセンターの建物が見える。日本ではあり得ない一連の流れに戸惑っていると、おばちゃんが降車を促してきた。

「さあ、早く降りて。気をつけていってらっしゃい!」

プロフセンターの大鍋。ベシュカザンは「5つの鍋」を意味する


#2 サマルカンド」に続きます。



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