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父を見送った、2024年夏の記録

2024年の夏は、私にとって一生忘れる事の出来ない夏になりました。

9月21日、父が天国へ旅立っていきました。

体調不良を訴えた7月から2カ月半、本当に早かった。
最後は父を看取ることができました。

この記事は、父が体調不良を訴えてから旅立つまで、そして父のために奔走した私の夏の記録です。

8月に「毎週投稿をお休みする」と記事を書いてから、noteを書く余裕もないほどでした。
最近になって少し落ち着いたので、ようやく少しずつ記事を書ける余裕も出てきました。

また、今年の夏の出来事を書き残しておかねばならない、という思いもありました。
辛い経験を書くのはしんどいのですが、自分自身のひとつの区切りとして。

ネガティブな内容ばかりで読むのは辛いと思います。
でも、同じ境遇の方の助けになれば、そして親御さんの今後について心配に思っている方がいれば、すこしでも参考になればと思います。

長いですが、お付き合いいただければと思います。

7月

7月に入ってから、父の体に黄疸が出始めました。
本当に、心配になるぐらい全身が黄色くなったのです。

しばらくは日常生活に支障はなかったものの、食欲が下がり、体がだるいと訴えたため、会社から半休をもらって病院へ連れていく事にしました。

1時間ほど検査を行った後、主治医の先生に呼ばれました。
肝臓と胆嚢(たんのう)の間の管「胆管」が詰まっていて、胆汁(たんじゅう)が流れていないとのこと。

そのため、即日入院となり、翌日には内視鏡で処置をすることになりました。

父は過去に病歴があり、血液をサラサラにする薬を服用しています。
そのため、手術や内視鏡の処置を行う際には、通常1週間ほど様子を見ながらその薬を中断する必要があります。

主治医の先生に確認したところ、今回はそのような余裕はないとのこと。

翌日は有給を取り、何かあった時にすぐ対処できるようにスタンバイしていましたが、処置は成功。
肝臓と胆嚢の間に「ステント」と呼ばれる、バイパスとなる管を挿入したとのことでした。

処置が終わったのは、面会時間が始まる15時過ぎ。
自宅待機していたところに、主治医の先生から連絡を頂きましたが、まだ麻酔から覚めずに今は寝ているとのことで、顔を見ることはできませんでした。

処置後は黄疸がなんとなく消えて、顔色も良くなりました。
先生からも、黄疸の数値がかなり改善しているとのこと。

しかし、問題は胆管を詰まらせた原因。
内視鏡検査の結果、癌細胞が胆管を圧迫していることがわかりました。

癌は放っておくとどんどん大きくなっていきます。
挿入したステントが細菌感染する恐れがあり、定期的に交換しなければなりませんが、その際に新しい管が入らない可能性もあるのだとか。

もう少し若ければ、抗がん剤や放射線治療の選択肢もあると思いますが、父は88歳。
治療に体力が耐えられないだろうと判断され、このまま様子を見る事になりました。

それは、父の余命が短いということを意味します。
少なくとも年内、もって来年ぐらいかもしれない。

母の月命日が近かったので、墓前に手を合わせて母にお願いしました。

あとは母ちゃんに任せる。
すぐに迎えに来てくれるのなら、それでも構わない。
まだこの世に居てほしい、というのならその時まで俺も頑張る。
好きなようにしてくれ…

そう心の中で問いかけると、後に訪れる「その時」への覚悟が決まりました。

8月

主治医の先生からは、最低限の対処は済んだので、すぐにでも退院して構わないと言われていました。
父も少しずつリハビリを始め、歩行器があればなんとか歩けるほどになりました。

ただ、今までのような生活は難しいとのこと。
それまで父はすこぶる元気で、我が家に居る時も屋内を歩き回っていたし、寝室も2階だったので何度も上り下りを繰り返していたし、移動するときは自転車にも乗っていました。

しかし、これからは多少の介助が必要になる。

病院の退院支援担当の方から介護保険を申し込むよう指示がありました。

今後は自宅に居ても2階に上がることも難しいので、介護ベッドをレンタルして居間に置くように言われました。

介護ベッドは月1000円ほどでレンタルできるのだとか。
すぐに申し込めば、翌日には届けてくれるというのですが、タイミングがお盆の頃だったので、受け付ける業者がお盆休みに入っているとのこと。

お盆休みが明ける金曜日に申し込めば、土曜日には届けてくれるというので、居間を片付けて準備し、お盆が明けたタイミングですぐに業者へ連絡を入れようと思っていました。

居間の片づけになんとか目処がついた頃、病院から急に連絡が。
父が突然高熱を出したというのです。

体内に癌を持っているので、「腫瘍熱」が出るらしい。
一時は39度まで熱が上がったのだとか。

主治医の先生から呼び出しがかかりました。
今後、腫瘍熱が出たり下がったりすることが増えるだろうから、家での介護は難しくなるのではないか、とのこと。

私は実家で父と二人暮らし。
もし父が帰ってくるのであれば、仕事をしながら父の介護を行わなければなりません。

週二日は在宅勤務ができるものの、家に居たとしても、自室に篭ってずっと仕事をしなければなりません。
その他の日は出社ですから、デイサービスなど介護の方法を考えなければならない。

目が離せない父と共に生活するのは、難しい状況になってしまいました。

退院支援の担当者からは、急に熱が出てもいいように、医療老人ホームも紹介できると言われました。

家に帰すか、ホームに入れるか。
もちろんすぐには決められませんが、いずれ決断せねばならない…

主治医の先生と退院支援の担当者からの話が終わり、父の顔を見に病室へ。

急に決断を迫られ、悩みながら父の顔を見ると、父の口から…

「早く帰りたい」

その言葉で腹は決まりました。

◆ 

次の退院支援の話し合いで、一度父を帰宅させると話をしました。
仕事も調整し、なるべく家の中で過ごしてもらうよう、私も頑張る覚悟でした。

しかし、腫瘍熱が出たり下がったりする中で、父の体力は日に日に落ちていました。
看護師さんの話では、トイレに行くにも車椅子で移動しなければならないほどなのだとか。
たまに「トイレに行く際に転倒した」と病院から連絡が入っていました。

退院支援の担当者から、一人で面倒を見るのはもう無理だろうと、医療老人ホームの案内パンフレットを渡してくれました。

よくある介護老人ホームと違うのは、最低限の医療施設があり、介護士と看護師が常駐してくれているところ。
もし高熱が出ても、看護師さんが処置をしてくれるので安心ですし、最低限ですがホーム内に医療施設もある。
薬も適切に用意してくれて、飲ませてくれます。

どうやら昨年新しくできたところらしく、最寄駅に行く途中にあるらしいとのこと。
病院側の紹介で見学にも行けるのだそう。

ホームの担当者とも電話で話し、翌週の頭に見学に行くことになりました。
その日はちょうど、朝から市役所の担当者が病院を訪れ、介護保険の審査もあります。その後にホームに見学に行き、午後の面会の時に父に話すことにしました。

介護保険の審査の日。
市役所から女性の担当者がひとりで病院に訪れ、父との一対一の面談が始まりました。
それを私が横で見ています。

質問内容は、認知機能のことが中心。
そして病院での生活ぶりのことなど。

父と審査員との会話を見ていて、直近のことは覚えているものの、昔のことからだいぶ記憶が薄れているように感じました。
その日食べたものは覚えていても、その食材や料理名を覚えていないので、説明ができないのです。

担当の看護師さんと、現状についての話もありました。
その話を聞くに、やはり家に帰ってきてもらうのは難しいと感じました。

看護師さんは昼夜二交代制で面倒を見てくれます。
人数も多いので、様々なことに対処できます。

でも私はひとりだけ。
2交代制にすることもできなければ、体もひとつしかない。
夜にトイレの介助も難しいし、熱が出てしまったらつきっきりになるしかない。

若い頃から「ひとりで親の面倒を見る」と腹を括って今まで生活してきましたが、いよいよその生活も限界に達したのでした。

審査が終わり、昼過ぎから医療老人ホームの見学へ。

施設は小規模ながら綺麗な作りで、全てが個室。
部屋も広く、個別に空調も完備。
ただ、備え付けなのはエアコンと照明、洗面台と介護ベッドのみ。
後の生活必需品は自分で用意する必要があるとのことでした。

洗濯は業者がやってくれるので、パジャマとバスタオルを5セット用意しないといけない。
もし入居が決まったら、かき集めるのが大変そう…

午後に父と面会し、訳を話して見学に行った医療老人ホームのことを話し他ところ、父は「お前の負担にならないのなら」とホーム入居を快諾してくれました。

帰りに早速ホームの担当者へ連絡し、入居を申し込みました。
話はトントン拍子に進み、父の退院が9月2日に決定。
即日、医療老人ホームへの入居となります。

9月

退院当日。

9時を目安に出発できるように迎えに行きました。
荷物は看護師さんがまとめてくださったので、まずそれを受け取ります。

父は病院の外へ出るのにも介助が必要になっていました。
それでも持参した普段着に着替えて、看護師さんと一緒に車椅子で病院の玄関へ。

車を玄関前に付け、なんとか後部座席に座らせる。
看護師さんにお礼を言い、これでようやく退院となりました。

父を病院に連れていったのは7月下旬。
そこから約1ヶ月半。
長かった入院生活がようやく終わりました。

医療老人ホームには早めに来るよう言われていましたが、すぐに連れて行くのは寂しいので、少しだけ自宅に戻ることにしました。

自宅の駐車場から玄関まで段差があり、それを登るのにも一苦労。
なんとか転倒せず登り切ると、玄関から居間までが遠い。

いつも使っていたキャスター付きの椅子を持ち込み、父をそこに座らせて車椅子代わりに移動します。

少し前までは自力で行き来していた廊下を、ここまでしないと移動できないようになるとは…

居間に着くと、父はすぐにいつもの場所に寝転がりました。
テレビが正面に見えるこたつのテーブルに足を入れて寝転がるのが父の定位置。
何の躊躇もなくそこへ寝ころんだのです。

梨の季節になったので、剥いておいた梨を渡すと、自ら口に運んで、いくつか食べてくれました。

ただ、ホームへの入居の時間が迫っているので、あまりゆっくりもしていられません。
30分ほど滞在し、移動することに。

父はテーブルの側にあるソファへ。
これから移動する、と言うタイミングで唐突に

「ここは、わしの家か?」

と尋ねてきました。

今までずっと生活してきた場所なのに?
家に帰ったそばから定位置に寝転がったのに?

後で医療老人ホームの看護師さんに聞いたのですが、環境が変わると意識が混濁してしまうらしいです。
定位置に寝転がったのは、今どこにいるか曖昧でも、「日常の記憶」がそうさせたのかもしれません。

移動する直前、父が「トイレに行きたい」と言いました。
今までは何の気もかけなかったのですが、ただトイレに入るだけでも気が気でない。
看護師さんから様々な報告を受け、状況は把握していましたが、実際にその場を目の当たりにしたことがないので仕方がないことです。

トイレで転倒することもなく、廊下を渡り、段差を乗り越え、無事に車に乗り込みました。
いよいよこれから、医療老人ホームへの移動となります。

短い帰宅でしたが、体調が許せば、週末にも帰ってきて過ごしてもらおう。
その時は、そう思っていたのです。

ホームに着くと、すぐに車椅子で介護士さん、看護師さんが迎えにきてくれました。
慣れた手つきで車椅子に誘導し、部屋へ移動。

父が過ごす部屋は、2階建ての建物の2階。
トイレのすぐ隣の部屋を用意してくれました。

スタッフと共に、父は先に部屋へ移動。
体調のチェック等もあるだろうと思います。
私はそこで引き離され、入居案内を受けた広い休憩スペースに通されました。

ここから、神経を擦り減らす長い時間が始まりました。

細かいことは覚えていませんが、入居契約、訪問医療の説明と契約、常服している薬について薬局からの説明、契約、介護プランの説明と契約、看護師との接見、など様々な手続きが次々と。

一体どれだけの資料に目を通し、どれだけ私と父の名前と住所を書き、何度ハンコを押したのでしょうか。

この長い時間に使用したのはすべて紙媒体でした。
河野太郎さんの「段階的にハンコは無くしていく」という宣言は、まだ遠い未来の話なのだな、と思わず感じてしまいました。

2時間ほど経過した頃でしょうか。
介護士さんに連れられて、父が降りてきました。

「何やってるんだ?ちっとも上がってこないじゃないか!」

帰りが遅くなった時、険しい表情で何度この言葉を投げかけられたか分かりませんが、相変わらずの父の行動です。

でもこの時は、なんだか少し安心しました。
その顔は忘れられません。

ようやく紙媒体から解放され、父の部屋へ赴くことができました。
その頃にはもうヘトヘトになっていましたが。

しかし、この日はまだまだやることがありました。

一旦家に戻って、前日までに買い揃えたものを部屋に設置しなければなりません。

近所で遅い昼食を摂り、買い揃えたものを車に積んで再びホームへ。

購入したのはパジャマ4着とバスタオル4枚。
父が普段使っているものを含めて、案内された通り5セットずつ揃えました。

それらを入れる衣類棚も購入。
やや背が高く、簡易的なタンスのようなものです。

その上に、32インチのテレビを置く予定。
部屋にはアンテナが来ているので、ケーブルを繋げばすぐに視聴できます。

それと、入浴用のシャンプーとボディソープも用意。
それらを入れるプラスティックのバスケットも見つけ出して買ってきました。

あと、私が様子を見に来るときに座る椅子も用意。
折りたたみ式の小さなものです。
それぐらいホームで用意してくれてもいいのに…。

結局、これだけ集めるのに二日ほどかかりました。
退院〜入居の前日が土日で助かった。

父の部屋に戻ると、早速作業開始です。
棚を組み立て、そこへ衣類やバスタオル、フェイスタオルを入れる。

その上にテレビを設置すると、いい感じの高さです。
テレビのサイズもちょうどいい。
やや広い部屋ではありますが、介護ベッドから見やすい位置になりました。

ようやく準備が整った頃には夕方になっていました。
父が摂る食事が運ばれてくる時間でした。

疲労困憊の中、段ボール類を片付けて車に乗せ、その日はホームを後にしました。

ホームに入居してくれたおかげで、その週から仕事も通常通りになりました。
出社も含めて、いつも通りの生活に戻れます。

もちろん、ホームから呼び出しがあればすぐに駆けつけなければなりません。
ホームは24時間365日面会が可能。
夜遅くなっても、前もって連絡すれば会いにいくことができます。

病院に入院していた頃、以前と面会ルールが大きく変わっていて、あまり会いにいくことができませんでした。
面会可能日は平日と土曜日の15〜17時の間だけ。
当然仕事があるので、会いに行けるのは土曜日と、病院から呼び出された時だけ。

面会ルールの変更は、コロナ禍の影響であることは明白。
父が入院していた時も、巷では新型コロナウィルスが流行っていたので、このルールは仕方ないことでしょう。

入居した医療老人ホームは病院と違い、フレキシブルに対応してもらえるのがありがたい。
おかげで、ホームへはほぼ毎日顔を見に行けます。
入口で面会票を書き、体温をその場で測らなければいけませんが。

それに、食事も3食出ますし、お茶も出してくれるので、飲食の面も安心。
薬もホーム側で用意してくれて、看護師さんが飲ませてくれます。

ただ家と違って、身の回りのものが紛失する恐れもあります。

ずっと大事にしていた腕時計がないので、看護師さんと共に探しましたが、腕が細くなってしまっていて腕の方までずれていた、なんてことがありました。

バンドのサイズが合わないのに時計をし続けた結果、遂にはトイレに落としてしまう始末。
何とか拾い上げましたが、ガラスカバーが流されてしまった。

父の時計は、若い頃父親、つまり私のおじいちゃんに買ってもらったという高級なもの。
今となってはかなりのヴィンテージモデル。
このままでは本当に紛失する恐れがあるので、結局家に持ち帰ることになりました。

安心できる面もあれば、一筋縄ではいかない面もあるのですね。

特に食事には制限もなかったので、ちょっとした食べものを持ち込むこともできました。

ある日、父の好物のひとつである梨を剥いて持参。
食事後に食べさせたところ、2切れほど食べてくれました。

翌日、食事前にまた梨を持っていったところ、状況が一変。
一切れ食べさせましたが、様子がおかしい。

うまく飲み込めないようで、噛んだものを少し出してしまいました。
それを機に、痰も絡んでいる様子でした。

その後も、食事が運ばれてきても、口をつけようとしません。
聞いても、食欲がないということでした。

飲み込めないことを気にしているのか、本当に飲み込めないのか…

次の日、ホームから電話。
入浴時も自分では立ち上がれない状況になっているとのことでした。
トイレに行くのも難しいそうです。

会いに行くと、ベッドに寝たきりでした。
車椅子に座ってテレビを見るわけでもなく、起き上がるのも辛そうです。
急な状態変化に驚きました。

しかし、前日何も食べていないことを思い出し、看護師に食事の様子を聞いてみたところ、案の定、毎食ほとんど食べていないようです。

介護記録の一環として、食事を摂ったか、その時の状況はどうだったか等、しっかり記録してくれていたので、数日の詳細な情報を確認することができました。

このまま何も口にせずにいると、衰弱が早まってしまう…。
食事が口に合わないのか?と思って、味変の調味料をいくつか買い揃えました。

また看護師と話し合い、簡単に食べられて栄養価の高いものをいくつか準備。
ドラッグストアには、高齢者介護用の栄養食品がたくさん売られているのを初めて知りました。
簡単に食べられるプリンのようなものから、パックの乳飲料まで。

それらをいくつかピックアップし、さらに栄養補給のためのエナジーゼリーも購入。
「10秒チャージ」のアレです。

病室に持ち込んで見せると、エナジーゼリーを自ら手に取って飲み始めました。
みるみるうちに一つ飲み干してしまいました。

これはいける!
慌てて近くのドラッグストアに行き、7つほど手に取ってレジへ。

目の前に並べると、追加で2つも飲み切ってしまいました。
エナジーゼリーならひとつ100kcalほどなので、何も食べないよりは安心。
とにかく、栄養を摂ってもらわないと衰弱が早まりますし、私も心配です。

結局お腹が空いていたのでしょうか。
これなら飲み込めそうだと安心したのかもしれません。
それとも、ホームではなく自分が用意したから安心したのでしょうか。

ただ後から考えてみましたが、この時状況は既に深刻になっていたと思います。

その翌々日。

前日もゼリーや夕飯のおかずを少し食べたとのことでした。

でも、血圧がかなり下がっており、長年飲み続けている降圧剤も段階的に止め始めているとのことでした。

夜に会いに行ったところ、苦しそうに手を挙げたり、カーテンを触ったりしています。
痰は絡んでいないようですが、呼吸がうまくできていない様子。

看護師を呼んで診てもらいましたが、酸素飽和度や血圧に問題はないとのことだったので、その日は帰ることにしました。

「帰るよ」と伝えると
「明日は来るか?」と弱々しく聞いてきました。
「明日は休みだから夕方に来るよ」と返答。

父は手を挙げて答えてくれました。


それにしても、半月でここまで状態が変わってしまうとは…
何より、明らかに苦しんでいるのをただ見ているだけなのも精神的にしんどかった。

あの姿をこれからも見続けなければならないのか…
その夜は外食し、夜の街をうろうろしてしまいました。

家に帰ってもすぐに寝ずに、夜更かしをしてしまいました。


翌朝6時。
ホームから何度も携帯に連絡が。

夜から呼吸量が著しく低下し、酸素飽和度の数値も急降下し、酸素吸入が必要になったとのこと。

このまま衰弱する可能性があるため、付き添った方がいい、とのこと。
シャワーを浴びてすぐに駆けつけました。


父は酸素吸入機をつけて苦しそうにしていました。

2017年に肺がんを患い、治癒はしたものの左肺の半分を切除しており、その影響もあって余計に苦しそうでした。

1時間半ほど様子を見た後、親戚に連絡。
伯母(父の妹)は京都にいるため、すぐに来ることはできません。

母方の親戚は関東に住んでいるので、明日なら様子を見にこれるとのことでした。

親戚の皆さんには、この3連休で危ないかもしれない、と伝えました。

部屋に戻ると、ベッドの位置が少し高くなっていて、角度も低く完全に寝ている状況。
先ほどよりは少し楽な姿勢になっているようでした。

顎を上げて深い呼吸をしていましたが、朝よりはやや落ち着いた様子。
寝ているのかな?と思ってそっとしておきました。

次第に呼吸のスパンも短くなってゆく。

看護師さんを呼ぶと、体温はそれなりにあるものの、酸素飽和量も測ることができず、血圧も極めて低い状態。
瞳孔の反応もほぼない状況になっていました。

ベッドの脇で父の手を握り、ずっと顔を見るしかできませんでした。

普段は顔なんてろくに見ずに過ごしてきましたが、これが最後。
じっくり顔を見つめる。

思えば、入院してからようやく顔を見ながら話をしたと思います。

母を亡くして9年、ほぼ一人で家にいさせたこと。
入院してからなかなか会いに行けなかったこと。

二人で暮らしてみて、父が「寂しがり屋」だったことも知りました。

夜遅くなっても帰らなかったらすぐに電話をかけてきたのは、私のことを心配していたのではなく、自分が寂しかったからなのでしょう。

「心配するじゃないか!」
この言葉は言い訳で、ただ自分が寂しいだけだったんじゃないかと思います。


父の傍らでそんな思いを巡らせていました。


深い呼吸が次第に止まり、喉の動きも静かに止まりました。

顔を撫でると、少し動いたような気がしました。

看護師さんを呼ぶと、その時が来たと伝えられました。



2024年9月21日11時40分頃、父は旅立ちました。

母が迎えに来てくれたのだろうと思います。

正式な確認は医師の診断を持って判断されるとのことでした。
医療老人ホームですが、医師は常駐せず、「訪問医療」の扱い。
医師が到着するまで1時間以上かかるとのこと。

その1時間は本当に長かった。

父のために部屋に持ち込んだ、父の好きだった一口ゼリーや一口羊羹を食べながら、十六茶のペットボトルを飲みながら待っていました。

父の手を触ると、次第に冷たくなっていくのがわかりました。


医師が到着し、診断が始まりました。
すべての機能が停止したこと確認。

12時46分、父の死亡が正式に確認されました。

医師の手で酸素吸入機のスイッチが切られました。

葬儀屋に連絡を入れると、15時には迎えに来てくれるとのことでした。
一度帰宅し、居間へ父を向かえるために布団を敷き、再びホームへ。

ほどなくしてストレッチャーが到着し、父を載せてホームを後にする。
出口まで、ほとんどの職員が出てきて、並んで見送ってくれました。

病院を退院した際に立ち寄って以来、父が帰宅。
無言の帰宅となってしまいました。

その夜は、遅くなっても母方の親戚が父の顔を見に来てくれました。


伯母に連絡したところ、その日は父の父親、つまり私のおじいちゃんの命日だったそうです。

私が生まれる前に亡くなっているので、おじいちゃんには会ったことがありませんし、命日も知りませんでした。

恐らく、迎えに来たのは母ではなく、おじいちゃんだったのかもしれません。

空の上から父を迎えにきてくれた。
よく頑張った。もう辛い思いをする必要はないよ、と。

そう考えると、気持ちが少し落ち着きました。

お通夜と告別式はその週の週末に執り行うことになりました。

体の腐敗が進んでしまうので、父の体にはドライアイスがいくつも並べられました。
ただそれにも限界があるので、週の半ばには葬儀屋の安置所に収めてもらうことになりました。

それまでの間、夕食には父が食べたかったであろう食事を作って、お供えしました。

父が長い間食べられなかった納豆。
昔はよく食べていましたが、血液サラサラにする薬はビタミンKに作用するため、ビタミンKが豊富な納豆はずっと食べられなかったのです。
薬が不要になった今、食べてもらうことにしました。

2日目はカレー。
父はカレーが大好物でした。
牛すね肉と牛筋をたくさん入れたカレーを作ってお供えしました。
いつも3日は食べられる量を作っていたので、2日間はカレーです。

そして、父が家を出る前日は、大好物のうなぎを用意しました。
半分はかば焼きにして、半分は卵焼きを巻く「う巻き」にしました。

とにかく、この2カ月は病院食ばかりで好きなものを食べられなかっただろうと思い、できる限り好物を供えました。

水曜日、再び父が家を出ました。
次に帰ってくる時は、父はもう小さくなっていることでしょう。


9月27日(金)にお通夜、翌9月28日(土)に告別式。
その間は準備に追われましたが、小規模ながらも無事に執り行うことができました。

告別式も終わり、父の棺は火葬場へ。
母の時と同じ火葬場でしたが、リニューアルされてかなり綺麗になっていました。

火葬が終わると、父の姿はすっかり小さくなってしまいました。
母の時と同じように壺に入り、火葬場を後にします。

せっかく親戚が集まってくれたので、母の墓にも案内し、葬儀が滞りなく終わったことを皆で報告。
長い1日が終わりました。


その日の夜、ジャイアンツがリーグ優勝を決めてくれました。

我が家は一家三人でジャイアンツファンでした。
私が幼少の頃から一家で応援していました。
もちろん、球場にも家族で足を運んだことがあります。

私が小学生の頃は父がチケットを取ってくれて、夏休みに母と見に行くのが恒例。
私が社会人になってからは、チケットを取って3人で観に行ったこともあります。

父が旅立った特別な日に、阿部監督率いるジャイアンツが優勝を決めてくれました。
こんなに嬉しいことはありません。

二人の遺影を抱き、優勝の瞬間、そして阿部監督が10回宙を舞う姿を見守りました。
目に涙を浮かべながら。

今後のことについて

1万文字にも渡り、ずっとネガティブな内容だったかと思いますが、最後までお付き合い頂きありがとうございました。

私は結婚もせず、ひとりで親の面倒見ることを若いうちから決めていました。

30代最後の年、母が私の目の前で倒れ、急に天に召されてしまいました。
死因は大動脈解離。
母はちっとも病院に行かなかったため、全く気づかないうちに病状が進行していたことに気づいてあげられませんでした。

あの時の事はずっと後悔していますし、それは私が母の元へ行くまで続くでしょう。
でも、その反省を元に、父が体調不良を訴える度に何度も病院へ連れて行きました。

それでも、胆管癌を見つけることができなかった。
普段から定期検診を受けていても、です。
一度癌に侵されると、再発のリスクからは逃れられないことを知りました。

母が亡くなって9年。
ひとりで親の面倒を見ると腹を括った時から、フルタイムで働きながら家事をこなし、父の様子もずっとみてきました。

私が家にいない時は、父はずっとひとりで家のことをやってくれました。

もっと良くしてあげればよかった…と後悔もありますが、私の体はひとつだし、時間も限られる。
正解はないことですが、限られた中で精一杯のことはやったと思っています。

それでも、最後はかわいそうな思いをさせてしまった。
その点は後悔として残りますが、仕方がないこともあります。
全て思い通りにしてあげることは、難しいのではないかと思うのです。

いつまでも感傷に浸っていては先に進めません。

正直、葬儀の準備等で感傷に浸る暇すらないのですが…
(これは、母の時からそう思っていました)

今は四十九日の準備と、事後処理を行なっています。
なんとか年内までには目処が立ちそうなので、これからのことはそれからゆっくり考えていこうと思っています。

ひとり暮らしも3ヶ月を過ぎ、ようやく自分のペースで生活できるようになってきました。
築40年以上の一軒家は、ひとりで暮らすにはやや広く感じます。

まずは、自分が生活しやすいように物を整理しなければなりません。
仕事に家事に追われ、母の遺品整理すらできていなかったので、二人分の整理が必要。
きっと、ものすごい時間がかかることでしょう。

そんな中で、自分がやりたいことを少しずつ実現していけたら…と思っています。

noteの執筆も続けたい。
欲を言えば、「モノを書く」ことについて自分が知らないことをもっと学びたい。
読みたい本も次々と読みたい。

好きな事を追うことも続けたい。
ラブライブ!のライブに行くことも続けますし、モータースポーツも追いたい。
これからは好きなだけサーキットへ足を運ぶこともできます。
元気があるうちにたくさん出かけなければ。

出かける、といえば、今まで行ったことのない場所にも行ってみたい。
乗ったことのない鉄道車両にも乗りたいし、たどり着いた先で初めて見る光景を目に焼き付けたい。
スポーツカーに乗ってロングドライブもしてみたい。
でもまずは、沼津に再訪してゆっくり楽しみたい。

そして、音楽活動も見直しながら再開したい。
ドラムを突き詰めるのはもちろんですが、可能性がある限り他のこともやってみたい。
グルーヴを突き詰めるのもよし、音楽理論を学び直して、もっと他の表現をするもよし。

それに、これからは時間がなくて行けなかった、さまざまなアーティストのライブにも足を運ぶことができます。
そこは躊躇なく行動したい。

他にも、今まで触れる機会があまりなかった分野にも触れたい。
演劇やミュージカルも見たいし、落語や講談も観に行きたい…

やりたいことが次々思い浮かびますが、それらをどれだけ実行できるか。
この9年で疎遠になってしまった仲間との関係を頼るのもいいですし、新たな仲間に出会うこともあるでしょう。

ひとりで活動するのもいいですが、それだけでは限界がありますから。
いい関係性を保てる仲間と活動したいですね。

そして、そんな中で「この人とだったら、残りの人生一緒に過ごしたいな」と思える人に出会えたらいい。


そんなことを、今は考えています。

少しずつ、自分のやりたいことを行動していければと思います。
まずは身の回りの整理からになりますので、noteの更新も滞ることがあると思います。落ち着いたら定期更新もしますので、その時はよろしくお願いします。

最後に、我が家を支え、私に多くの事を教えてくれた、父に感謝を。
本当にありがとうございました。

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