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がん治療、すごい経験値の大先輩

私の下咽頭がんの化学放射線治療は2018年2月から始まり、入院、いったん退院して通院加療を経て、再入院して治療完了。体力の回復を待って最終的に退院したのはGWだった。桜の頃は、放射線治療の副作用の痛みが強まってずいぶん体重が落ち、治療の現実にだいぶ心が弱っていたと思う。

当時、病院の桜の前で妹が撮ってくれた写真の私は、弱弱しいぼんやりした笑顔だ。
といっても、その後11月に食道の摘出手術を受けたときは、入院中から退院後数か月、写真なんて撮らなかった。痩せて弱った自分の姿を見たくなくて。記憶を残したくなくて。
だから、まだ1度目の治療中は元気がなくなってきていたとはいえ、まだ「記録しておいたら役に立つかも」みたいな、未来への意欲のようなものがあったことがわかる。


化学放射線治療中は歩ける状態ではあったし、だんだん暖かくなっていく季節だったから、時々、気晴らしに外に出た。病院の敷地の端に、桜やつつじが植えられたスペースがぐるりと楕円形の遊歩道で囲まれた憩いのスペースがあった。桜の木の下にあったベンチに座るのが、小さな楽しみだった。あまり知られていなかったようでいつも静かだったけれど、たまに誰かが座っていると、仕方がないので、その遊歩道を速いペースでぐるぐる何周か歩いて体力づくりをしたりした。


花曇りのある日、夕方近くに行ってみたらベンチには先客が。あぁ、残念。と思ったら、その人が「どうぞ」と隣を勧めてくれた。少し迷ったけれど、歩いて行って腰を下ろした。

高齢の女性だった。座るのかちょっと迷ったのは、たばこの臭いがしていたから。近づくと、彼女はたばこを消して携帯用の灰皿に入れるところだった。
「息子にいつも言われるの。『また不良してるのか』って。でもやめられなくてね。息子はたばこも吸わないしお酒も飲まない、まじめなのよ」。
病院でたばこを吸っちゃう人っているんだ!と驚いていた私の様子を察して、向こうからそのことを白状した。

はっきり覚えていないけれど、その方は、確か40代くらいで初めてがんが見つかって治癒。2度目は50代で、最初と違って肝臓だったと言ったと思う。
「その頃はね、お腹のこのへんを20㎝くらい切ったのよ。今回もまた肝臓だけど、腹腔鏡手術だから、小さくしか切らなくてよかった。全然違うのね」。
がん治療、すごい経験値の大先輩だった。20年経ったら治療がこんなに進歩するのだということを、身をもって教えてくれた。

「もうじゅうぶん生きたから、いいかなとも思ったんだけれど。母親より先に逝くのはしたくないと思って、手術を受けたの」。それを聞いて、この方が70代に見えたから、お母さんは90代…?と考えていたら、「母は90超えてる」と言った。

すごいな。達観してる。3度目のがんがわかっても落ち着いた様子に恐れ入り、心を許して私も自分のことを話した。
「私は、喉の放射線治療を受けてるんですけど、食道にもがんがあるみたいで。今、44歳ですけど、独身で、パートナーと結婚しようかと言っていたところで病気がわかって…」
ここまで言ったら、涙が出て声が震えた。

その私に何かを言ってくれた大先輩の声が、言い終わる頃、涙につまった。
驚いた。何があっても動じないわよ、といった風情に見えていたのに。きっと先輩だって、3度がんを経験した人生で、つらかったこともたくさんあったんだろう。

何て言ってくれたんだったか、「人生は思うようにならないわね」みたいなことだっただろうか。でも、言葉なんてなんでもよかった。「がんの治療が必要」という状況を受け止め、不安と副作用の苦しさにただただ必死で対応していた私は、病院ではほとんど泣かなかった。その余裕がなかった。だけど、心のキャパシティは限界にきていたのだと思う。
私のために先輩が泣いてくれたことで、私はこのときすごく救われたのだ。

私が泣いたから、その後は話も弾まなかったけれど。桜の花びらが舞うベンチに一緒に座っていた。しばらくして先輩が立ち上がり、取り立てて励ますでもなく「じゃ、行くね」くらいにさらっと、去って行った。


その後、そこに行くたびに抱いたほのかな期待はいつも裏切られて、もう一度も会えなかった。
私は病院で医療関係者以外とほとんど交流しなかった。この先輩が唯一、入院中に心を通わせた患者仲間だ。


先週、1年ぶりに喉の主治医の診察で通院したとき、ふと思い出して6年ぶりに桜の広場に行ってみた。ちょうどあの日のように桜が散り始めたその場所は、記憶にあったよりも小さいスペースで、ベンチが2つに増えていた。

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