siba
郊外の住宅地に点在する小さな公園は廃墟のように見える。鉄棒、滑り台、砂場、いつも誰もいない。 ベンチにのっかってスズメが盛んに頭をふってあたりをうかがっている。鳥というものはいつ見てもせわしなく頭を動かしている。 私は人間だから、せわしなく頭をふったりしない。スズメの頭の動きはわかっても、眼の動きまでは観察できないが、人間の眼に比べて可動範囲が狭いので、頭を動かすことで補っているのかも知れない。 ハトが上空を通過するのが見える。同じくそれを見上げるスズメ。今スズメの眼
揚げ物の油の跳ねる音と、 雨が降りはじめた音と、 区別がつかないときがある。 窓から聞こえてきたパラパラ降りはじめた雨音を聴いて、なぜか口の中が物寂しくなったりして串揚げを食べたくなる、といったことがある。 私は自分の意思で何かを感じた記憶がないような気がする。なにか先立つものによって、自ずと感じさせられてきた。 個人個人の意識においては、自ら自由に振る舞っているかのように感じられる。でも、他人を観察すれば、人間は自動的に幸福になるし不幸にもなるし、歴史家の話を聴
昼間、部屋で寝っころがって窓を見あげると空が見える。夜間、部屋の蛍光灯をつけて同じように窓を見あげても空は見えないことがある。夜だから見えないのではない。窓に近づいてみれば夜空は見える。 これは夜景の灯を捨象できるような視角で窓を見上げるということが必要条件であることは言うまでもない。 最初は夜空だろうと思い込むのだが、本当は黒い闇の遮蔽によって夜空の星さえ見ることはできない。例えば、底が見えない井戸の中の暗闇を覗きこんでいる感じ。底無しの四角い井戸みたいだ。 しばらく
池の真ん中あたりで蛇が泳いでいる。文字通りのS字型蛇行で滑るように進んでゆく。私は石を投げてみる。蛇のすぐそばにポチャンと落ちた。波紋が広がり、S字型蛇行は速度を増した。 野良犬が対岸からこちらの様子を伺っている。蛇は岸辺に達したようだ。干渉波が池全体に広がってゆくが、しばらくすると波立ちがおさまり、水面がのっぺりとした一様な表面に戻ってゆくと同時に、ジワジワとあたりに緊張感が漂いはじめた。 ふと対岸を見ると犬はいなくなっている。その池はまたもや鏡面のような完全無欠の状態
住宅街が苦手だ。人が住む場所なのに殺風景に見えるのは何故だろう。人が、家族が生活している場所なのに、あまりにも整然とし過ぎてはいないか。 下校途中のランドセルの小学生を見かけるとホッとするのだが、数日前、知らない子供に突然「こんにちわ」と挨拶されたことがあった。予期せぬことにぎこちなく微笑み挨拶を返しながら、自分がすこし緊張していることをその子に見透かされたような気がした。 昨日の昼下がり、散歩途上の曲がり角を曲がろうとしたとき、数メートル先にいた見覚えのない子どもと目が
少年時代、今から見ればずいぶんと残酷な遊びをやっていた。 ザリガニを理由なく殺した。ミツバチの腹を割いて蜜袋を啜った。カエルの口に爆竹を差し込んで粉々にしてやった。ウシガエルの太ももをソテーにして食べた。蛇を叩きのめして半殺しにした。 よくそんなことができたものだと我ながら呆れる。 今それをやれと言われてもできない。なぜそんなことをしたのか問われてもまともに返答することもできない。今でもこんな遊びをしている少年はいるのだろうか。田舎に行けばいるかも知れないが、そもそもこ
1、他人が知人に変わるとき 2、二つの顔 3、諸例 4、他人の顔は記憶可能か 5、同定と非同定 6、「図」と「地」 そして 記憶としての現実 1、他人が知人に変わるとき 数十年ぶりに偶然再会した知り合いの顔を見ただけでは、加齢変化などもあって、その知り合いであることがわからないことがある。それが、その人だとわかった時、記憶のレイヤーが重なって目前の他人の顔を懐かしいあの人の顔に変えてしまう。 私にとっては、ほとんど瞬時に他人の顔が旧知の顔に変わってしまうことは驚異的
数年前、池袋サンシャイン水族館にての出来事。 食べられちゃうよ!! 小さな女の子が巨大な水槽に走り寄りながら叫んでいた。周囲に観客が十数人ほど居ただろうか。巨大な水槽の中では女性ダイバーが遊泳している。様々な魚類に混ざってサメが泳いでいた。 なんで食べられないの? 両親は笑いながら女の子を見下ろして何かしらその子に説明していた。大丈夫だよとか何とか言っていたと思うのだが、要するに現実にはそんなことは起こらないことを伝えていただろう。ここではふたつの現実観が対立していた
このあいだ、大学生の会員が二十歳になったから堂々とお酒が飲めるようになったと言うので、赤ワインの試飲を勧めた。ちょこっと味見をした程度である。 第一声が にがい であった。赤ワインがにがい? しぶい ならわかるような気もするが、、、。 お酒っておいしいんですか? そう問われると酒好きの私は戸惑いを覚えた。そもそもこのワインはうまいとか、このビールはまずいとか感じることはあるが、酒がうまいと感じたことはない。 つまり、酒の類いを飲むようになった後に、うまい酒まずい酒が発
ものごとが期待通りにいかないときに陥る落胆は、己の期待が裏切られたことが直接の原因であるが、その結果が己を裏切ったわけではないだろう。 つまり、どのような結果であれ、結果それ自体が人の期待を裏切ることなどあり得ないのだ。なぜなら期待は人の心情だが、結果は人の心情や思惑とは無関係に生じるものなのだから。 なのに人はその結果に対して落胆するのである。またはそのような結果しか出せない自分に落胆する。しかたがないから結果に期待をかけること自体をあきらめようとする。あるいは、良い結
青イ花 トテモキレイナ花。 イッパイデス。 イイニホヒ。イッパイ。 オモイクラヒ。 オ母サン。 ボク。 カヘリマセン。 沼ノ水口ノ。 アスコノオモダカノネモトカラ。 ボク。トンダラ。 ヘビノ眼ヒカッタ。 ボクソレカラ。 忘レチャッタ。 オ母サン。 サヨナラ。 大キナ青イ花モエテマス。 草野心平 草むらを棒切れで掻き分けて散策していたときに、カエルがヘビに飲まれるところに出くわしたのは、私が小学生の低学年の頃だった。怖かった。そして怒りのようなうねりが心底から湧
昨夜は少し落ち込み気味だったので、気分を変えるためにAmazonプライムで映画を観ようと思った。選んだのは数年前に見逃した一本。私が大好きな監督デビッド・リンチの娘が撮ったLuckyという作品。実父のリンチが脇役で出演していることも楽しみだった。 こんな時、落ち込んでるからコメディを観るとか、へこんでるからサクセス・ストーリーがよいとかいうものではないということは言うまでもないことだが、それにしても自分の今の気分を見極めることは意外と難しく、どんなものが気分転換に繋がるのか
草原に仰向けになって空と対面すると、青空を青空足らしめている光によって、あなたの視覚には眩さが与えられるだろう。 眩しさに慣れて、しばらく眺めているうちに微妙な変化が認められて、そこに通常の距離のようなものとは違う隔たりが感じられてくるのだが、それが近いのか遠いのか、空がどのくらい離れているものなのかそれを感じるための取っ掛かりは見当たらない。 さらに時が経つと、それまでは感じられなかったそこはかとない不安や恐怖のようなものが感じられてくるだろう。それは僅かに感じられるよ
夏のある日、道端に落ちていたミンミン蝉の死骸を、モチーフになるかと思って教室に持ち帰り、棺桶を真似て牛骨のカケラに乗せたら、それに応答するようにして、当時小学生だった子供が弔辞のような言葉を紙に書いて添えてくれた。 「セミさん あなたはよくなきました さよーなら」 これを読んでつい笑ってしまった。一途に鳴きつづけたことへのねぎらいが表現されているわりには、別れの言葉があっさりしすぎているし「よくできました!」という大人が子供に与える評価を、子供が(代行して)蝉に与えてい
以前の現実は目前に広がるそれであったし、私たちは自由に振る舞うことができた。しかしコロナ渦中の私たちは目前に広がるものを前にしてどのように振る舞えばよいのかを、ニュースや専門家や政治家の御託に頼らなければならない。 コロナ渦であるから以前のように振る舞うことが許されないだけのことなのであり、早くもとの現実に戻ってほしいと多くの人々が願っている。 私が行動変容を強いられてはじめて思い至ったことは、コロナ以前の行動様式もまた、強いられて出来上がったのではなかったかというこ
梅雨時、久しぶりに晴れ間が広がった時のことだった。トイレからアトリエにもどると、さっきまで制作に熱中していた会員がいなくなっていた。たったひとり残っていた会員が虹がでていることをおしえてくれた。 皆、屋上に駆け上がっていったらしい。その虹はアトリエの窓からでも、向かいのビルの上にわずかに垣間見ることができたが、それはすでにビルの影に消え去りつつあるところで「ほら、あそこ、あーっビルに隠れちゃう、、、」窓辺の傍でそういった声を耳にしながら、私はいくら眼を凝らしても、それを見る