私には虹が見えなかった
梅雨時、久しぶりに晴れ間が広がった時のことだった。トイレからアトリエにもどると、さっきまで制作に熱中していた会員がいなくなっていた。たったひとり残っていた会員が虹がでていることをおしえてくれた。
皆、屋上に駆け上がっていったらしい。その虹はアトリエの窓からでも、向かいのビルの上にわずかに垣間見ることができたが、それはすでにビルの影に消え去りつつあるところで「ほら、あそこ、あーっビルに隠れちゃう、、、」窓辺の傍でそういった声を耳にしながら、私はいくら眼を凝らしても、それを見ることが出来なかったのである。
人間は、自分には見えないものを他人に見えるなどと言われると納得がいかないものだろう。彼女はこの時、本当にビルに隠れつつある虹が見えていたのだろうか。いや、消えゆく虹はその時すでに消え去っていて、彼女は自身の眼球の網膜や脳内に残っている残像を見ていたのではないのか。
あるいは私が、存在していたはずの虹を見ることができなかったのだとすれば、虹が消え去りつつあるその最後の像は、「像の出現と消滅」という現象の進行全般に渡る持続的体験の一部分であるのだから、その全過程の最後に中途参加した私にはそれを見る資格が与えられなかったのか、、、。
ところで、虹などの自然現象は人間にとっては幻影に近いといってもよいくらい存在感が希薄なものであるのに、私たちは虹のイメージをはっきりと頭に描くことが出来ることは不思議なことであると思う。「虹がキレイに出てる!」と驚きの声をあげるのは、(現実の虹)が(イメージとしての虹)によく似ているからであって、逆に(イメージとしての虹)から何かしら欠落した姿が、私たちが通常よく見る(現実の虹)の姿であるとしたらどうだろう。であるからこそ、現実の虹は多様な美しさを讃えているのではないだろうか。
さて、虹は徐々に消えゆくものだと思うのだが、私はそれが消え去るところを見たことがない。逆に、それが現れるときは、やはり徐々に現れるものであるのだろうか?誰か現れつつある虹というものを見たことがある人はいるものだろうか?空を眺めていたら、うっすらと色彩が感じられてきて、やがて虹が全貌を現すというような感じでその現象は起るのだろうなどと想像してみる。
像の出現と消滅は、その現れ方消え方 (fade in and fade out) において等しいように思われるが、実際の私たちの経験ではちょっと違うのではないだろうか。虹という像を発見する時というものは「ハッと気がつく」という表現がしっくりくる。「あっ虹が出てる!」と気がついて、しばらく眺めるうちに消えてゆく。虹の出現頻度をもとに定点観測で一部始終をビデオで撮影することができれば、虹が徐々に現れる様子も見ることができるのだろう。現実には、虹はいつどこに現れるかわからないのだから、虹の出現に立ち会った人はほとんど居ないだろうと思われるが、もし居ればその時の話を聞いてみたい。
私が言いたいことは、像の出現においては「それに気がつく」のであり、像の消滅においては「それが消えゆく」のであるから、像の出現と消滅は、人間の知覚認識においては同じではないということだ。
してみると、やはり私には消えゆく虹を見ることが可能であるような資格がなかったのだろう。私の眼球の網膜にも消えゆく虹が映ってはいたが、先行すべき「ハッと気がつくような経験」が欠けていたので(脳裏にそのような像が刻まれていなかったので)(その延長として確認されるはずの)ビルの影に消え去ろうとしている虹を捉えることができなかったのだと思う。
アトリエに残っていた彼女は、ビルの上に虹が架かっていることに気が付き、それを眺め、しばらくそれから目をそらす時間を過ごした後であっても、ビルの向こうに消えつつある最後の瞬間を見ることができた。
それが見えるためには手続きが必要な場合がある。その手続きを踏まないと見えないものがある。このことは絵画制作においてよく経験することでもあるが、さらに言えば、通常私たちが見えると思っているものは、すべて、何かしらの手続きによって見えるようになったものなのだから、手続きさえ踏めば、見えなかったものが見えるようになることは、人間の成長と共に絶えることはない。
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