サイコパス?
少年時代、今から見ればずいぶんと残酷な遊びをやっていた。
ザリガニを理由なく殺した。ミツバチの腹を割いて蜜袋を啜った。カエルの口に爆竹を差し込んで粉々にしてやった。ウシガエルの太ももをソテーにして食べた。蛇を叩きのめして半殺しにした。
よくそんなことができたものだと我ながら呆れる。
今それをやれと言われてもできない。なぜそんなことをしたのか問われてもまともに返答することもできない。今でもこんな遊びをしている少年はいるのだろうか。田舎に行けばいるかも知れないが、そもそもこれは遊びなのだろーか?
こーゆーことは、大人たちの眼を盗んで行われた。とゆーことは、これは悪いことだと知っていたことになる。たまに通りすがりの大人に見つかることがあった。たちまち皆凍りついて立ち尽くしていた。
私の教室の子供たちからサイコパスという言葉を聞くことがよくある。ビニールに入った金魚を指で押しつぶした、、、だからサイコパスだと言う。我々の世代は私を含め、かなりのサイコパスがいたということになる。
どのような人格をしてサイコパスと言うのかは知らないが、私の周辺では、犬や猫など哺乳類を殺した者は特別視されていた。そんなやつはめったにいるものではなかったが、稀に噂でそんな話を聞くと、そいつは普通ではないと恐れたものだった。
Q なぜそんなことをしたのか?
私 なんとなく
Q 可哀想だと思わなかったのか?
私 ちょっと思った。
Q 生き物を殺すとき快感を感じたの?
私 気持ち良いわけじゃない、、、。
Q 人間も殺したいと思うのか?
私 思わない。
Q カエルやザリガニなら殺して良いと思う?
私 そーも思わない。
Q じゃなぜ殺したの?
私 うーーーむ。いけないことだとは思う。
でもかな、だからかな、、、。
Q いけないことと知りつつやるのは犯罪だ。
私 、、、、。
Q 二度とやらない?
私 はい、、、でもわからない。
そういえば、私はいつ頃こんなことをして、いつからしなくなったのか、はっきりしない。おそらく、小学5年から中1くらいの時期だったと思う。
なぜしなくなったのかと問われてもよくわからない。その後はカエルを殺すなどということは一切なくなってしまった。
倫理的な葛藤はあったと思う。私が思うに、子供の倫理的感情は幼い頃から備わっており、それは内面の葛藤として経験される。親や学校の躾、教育はほとんど意味がない。親や先生がいくら言っても、参考程度にはなるが、倫理的判断は子供自身が下すのだ。
私の場合、なんとなくそーゆーことをしたくなくなってから随分と時間がたった。もーしたくない、ということは私の意思である。本当にしたくなくなったのだ。
さらに言えば、本当に殺したくて殺したわけでもなかったのである。
「それをする」 ことの動機の曖昧さが、 「それをしたくない」 という意思の明確さに変わる。
ただそれだけのことだった。
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