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補足&『ザッヘル=マゾッホ紹介』から捉える教育観

目次

・はじめに
・「サディズム」と「マゾヒズム」の異質性(補足)
・本書はあくまで文学(マゾッホ)論
・『ザッヘル=マゾッホ紹介』から理解する「教師」と「教育者」の違い
・持論


はじめに


前回のInstagramの投稿で、ドゥルーズの『ザッヘル=マゾッホ紹介』を取り上げましたが、ざっくりその要約をしておきます!

と言っても簡単で、「サディズム」と「マゾヒズム」は根本的に異なるため、両者の臨床的な概念について研究するのであれば、「サド」と「マゾッホ」の各々の著作を読むべきだ~というお話です!


「サディズム」と「マゾヒズム」の異質性として、「否定」と「宙吊り」をこちらの投稿では紹介したのですが、以下こちらの投稿では、(簡単に列挙するだけに留めますが)その差異をいくつか並べてみます!

未読の方や精神分析を全然知らない方には、「???」に感じると思うのですが、この羅列を通じて、どれだけ「サディズム」と「マゾヒズム」が異質で無関係的なものかを掴んでいただければなと思います!

「サディズム」と「マゾヒズム」の異質性(補足)


・サディズム の「論証(教師)」に対して、マゾヒズムの「教育(教育者)」
・サディズムの「否定」に対して、マゾヒズムの「否認」
・サディズムの「理念」「思考」に対して、マゾヒズムの「理想」「想像」
・サディズムの「無感情」に対して、マゾヒズムの「感情」
・サディズムの「父との同一化」に対して、マゾヒズムの「父の排除」
・法に対するサディズムの「制度とアイロニー」に対して、法に対するマゾヒズムの「契約とユーモア」
・サディズムの「超自我との同一化」に対して、マゾヒズムの「超自我への嘲笑」

ざっとこんな感じです笑
この羅列は、岩波書店から出ている『思想 no1144』の鹿野祐嗣「〈書評〉ジル・ドゥルーズ『ザッヘル=マゾッホ紹介』を参照しています!

そこで印象的な言葉があったので、少し長いですが引用だけして、次の話に移ります!

マゾヒストの空想の中の加害者でさえ、実はサディストでなく、マゾヒズム的な空想に組み込まれた一要素であり(マゾヒストのための加害者)、同じくサディストの空想の中の犠牲者も、実はマゾヒストではなく、サディズム的な空想に組み込まれた一要素に他ならない(サディストのための犠牲者)。」

(前掲書、147頁引用)

本書はあくまで文学(マゾッホ)論


さて、こちらの書評で鹿野先生は、ドゥルーズの『ザッヘル=マゾッホ紹介』は、あくまでも「マゾッホの著作」に立脚した文学論(マゾッホの著作に対する注釈)であり、そこから乖離して、法学的・政治的・ジェンダーの話にもっていくのは、ドゥルーズの主張と異なるものだと指摘しています!
(149-150頁)

なので、本書から何か考察を行う際は、マゾッホの文学論という観点から離れるわけにはいきません。

但し、ドゥルーズの主張から離れてしまうのは敢えて承知の上で、本書から学んだ発想を文学論(マゾッホ論)から別の場に持ち込むこと自体は許されるのではないかと考えました。

その場合、ドゥルーズが当テキストで述べていることとは異なりはしますが、そのうえで「接ぎ木」するように、『ザッヘル=マゾッホ紹介』から新しいものを考えてみたい…(←怒られそうだけど(笑))

というわけで、本書から「教育」というものについて、少し考えてみたいと思います!

『ザッヘル=マゾッホ紹介』から理解する「教師」と「教育者」の違い


まずは、引用から見ていただきましょう!

あらゆる面でサディスト的な「教師」と、マゾヒスト的な「教育者」が対立するのだ。

ドゥルーズ『ザッヘル=マゾッホ紹介』、河出文庫、28頁引用

ポイントは、「教師」と「教育者」を分けているという点です。
前者がサド的で、後者がマゾッホ的と言われていますが、順に見ていきましょう!

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