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「勇者たちへの伝言 いつの日か来た道」 増山実


「うちらの人生も、この線路みたいに、ほんの一瞬、この街で交わったんやね・・・・・。」




「勇者たちへの伝言  いつの日か来た道」 増山実



♪ アイラブユー アイラブユー
      いつまでも いつまでも



本作に出てくる、小畑実さんの「星影の小径」という歌の歌詞の一部です。


僕はちあきなおみさんの歌でこの曲を知りました。切なくて、あたたかくて、心が震えるようなとても良い歌です。


この歌の詩とメロディーが、物語のバックグラウンドになっています。


とても心に突き刺さった作品でした。長い文章になりますが、よろしかったらおつきあいください。


         ◇


放送作家をしている工藤正秋は、50歳独身。妻とは4年前に別れました。


正秋にある不思議なことが起こりました。それは、仕事の帰りに阪急電車・神戸線に乗っているときです。


流れてきた車内のアナウンスに耳を疑いました。

「つぎは・・・・・いつのひかきたみち~」

「次は・・・・・いつの日か来た道~」


そこは、阪急電車の「西宮北口」という駅。


どうやら、そのように聞き違えてしまったようです。


正秋はそのアナウンスを聞くや、反射的に西宮北口駅で降りたのです。


阪急・西宮北口駅は、正秋にとって思い出の場所でした。


そこは正秋の亡くなった父とたった一度だけプロ野球を見に行った、阪急ブレーブスの本拠地・西宮球場のあった場所でした。


その球場跡地は大型ショッピングモールになっています。(阪急ブレーブスは、 昭和63年10月19日 に身売りされました。)


もう無いと言えば、西宮北口の駅にはかつてダイヤモンドクロスといって、電車の線路が十字に交差する場所もありました。


正秋は思い出につき動かされるように、運命と時空がクロスする「いつの日か来た道」を歩き出します。


歩いていると、子どもの頃の光景が甦りました。それは、小学校2年生の頃のことです。


正秋は、小学校の廊下に置いてあった痰壺を割ってしまいます。


悪い事に、それを見ていた者がいました。悪ガキのヒトシです。


ヒトシに見つかった正秋は弱みを握られ、嫌がらせやイジメを受けるようになりました。


それは正秋にとって、辛い、辛い地獄でした。


この状況からなんとか抜け出したい。でも、正秋には勇気がありません。


正秋の家の向かいに、江藤という名前のおっちゃんが住んでいました。


ある夕方、板塀にボールを当てて遊んでいた正秋に、江藤のおっちゃんは言います。

「正秋君、阪急ブレーブスって知ってるか」


江藤のおっちゃんは、正秋の様子がおかしいと感じたのでしょう。

「ブレーブス、いうのはな、勇者たち、いう意味や。

勇ましい者と書いて、勇者や。正秋君には勇気はあるか?

勇気を持ちや。生きていくのには、勇気が必要や。勇気が欲しかったら、いっぺんお父さんにブレーブスの試合連れてってもらい」


正秋は、お父さんにお願いします。野球にまったく興味のなかったお父さんだったので、断られるかと思いきや


「いつ試合あるんや」


とお父さんは正秋に言いました。


そして


正秋はたった一度だけ、お父さんと西宮球場にブレーブスの試合を見に行ったのです。


生まれてはじめて目にした野球場は、
まるで西洋のおとぎ話に出て来る城塞だった。


その日の試合のブレーブスは西鉄に負けてしまいましたが、正秋は勇気が湧いてきました。


正秋はお父さんに阪急ブレーブスの野球帽が欲しいとねだると、お父さんは、野球帽を買ってきてくれました。


その勇者の野球帽と江藤のおっちゃんの言葉に後押しされた正秋は、勇気を出してヒトシのイジメから抜け出したのでした。


あれから、四半世紀近くが過ぎた。
そして今、自分はまたこの街を歩いている。


正秋のお父さんは、49歳で交通事故で亡くなります。かつて父といっしょにこの道を歩いたことを思い出しました。


球場跡地のショッピングモールには「阪急西宮ギャラリー」という場所があり、阪急電車やブレーブスの展示がされています。


そこに、西宮球場の巨大なジオラマがありました。


正秋はしゃがみこみ、子どもの頃と同じ目線で西宮球場を眺めました。時を忘れ、閉館の時間まで正秋は西宮球場を眺めていました。


ショッピングモールの出口をさがして歩いていると、ちょうどこのあたりが、父と見た一塁側の内野スタンドだったと記憶がよみがえってきました。


すると


空耳


やはりどうかしている


いつのまにか、意識がぼんやりと

「おーい、ぼく」
「そんなとこ、上がったらあかん。そこから先は立ち入り禁止やで」


階段を上がると、そこにはあの日と同じ光景の西宮球場があったのです。


なんと


正秋は昔、お父さんと阪急ブレーブスの試合を見に行った、あの西宮球場にタイムスリップしていたのです。


「おもしろかったか?」

「負けたけど、おもしろかった。父ちゃんは、おもしろかった?」


正秋は父の忠秋に聞きましたが、観衆の声に消されてどう答えたのかわかりませんでした。


今、自分は、死んだはずの父といる。そうだ。これは夢なのだ。正秋はそう了解した。

ならば、まだ醒めるな。醒めないでくれ。

三十五歳の父の傍らに、もっといたかった。


球場をあとに、2人は「ひびき食堂」という店に入り、カキ氷を注文します。お父さんがお手洗いに立ち、入れ替わりに店員がカキ氷を運んできました。


「もうこんな大きな子供がいてはるんやね。今日はお母さんは?」

「お母さんって?」

「あんたのお母さん。安子さんっていうたかな」


正秋のお母さんの名前は、安子ではありません。


「父は、母と違う女性とこの店に来たのだ。」と正秋は思いました。


お父さんが戻って来てしばらく話を楽しんだあと、正秋はお父さんの真実を知りたくなりました。


「父ちゃん、びっくりせんといてな。ぼく、ほんとうのこと言うわ」

「・・・・・・ぼくな、五十歳やねん」


こんなことを言っても、信じてもらえないのはわかってはいましたが、父に未来の出来事について真剣に語りました。


父が49歳のときに、交通事故で亡くなることも告げました。最初は冗談だと思っていた父でしたが、息子に未来のことを尋ねました。


正秋は未来のことを父に語り、「全部本当のことを話したから、父ちゃんも本当のことを教えて」と迫りました。


「これは、きっと夢、やな。夢なら、目が醒めたら全部消えるんやな」


父・忠秋は息子に自分の「秘密」を語ります。


生まれの石川県から大阪に出てきた忠秋は、西宮北口にあった「洗濯屋」で働きました。この球場に来たのも、初めてではありません。


かつて阪急西宮球場は野球をやっていないとき、競輪場になっていたそうです。忠秋はその競輪にはまりました。


いきなり、あてずっぽうで買った券が当たって有頂天に。まじめに働く気持ちがふき飛んでしまいます。


しかし


ある秋の日の最終の前のレースで忠秋は、すからかんになってしまったのです。


外野のスコアボードの下には、ホルモン屋の屋台がありました。母親と20歳くらいの娘がやっているお店です。


屋台の台の上には、お金が置きっぱなしになっていました。


忠秋に、魔が差しました。


この金で、ひと勝負したら、勝てる・・・・・・


ポケットにお金を入れた忠秋に、娘さんが声を掛けました。お金を盗ったのを見られていたのです。


「おにいちゃん」
「高倉健に似てるな」


とその娘は忠秋に言いました。


お金を盗んだ忠秋に「高倉健の映画に連れて行って」と娘はせがみます。その娘・安子は忠秋を見逃したのです。


忠秋と安子は映画を見た帰り「ちょっと歩こう」と日野神社に行きました。


「うちな、いつもいやなことがあったら、ここ来るねん」

「いやなことなんか、あるの?」

「あるよ。いっぱいある」


「うちな、朝鮮人やねん」


安子は12歳から母といっしょに、この競輪場のホルモン焼の屋台で働いてきました。


「学校なんか行かんかった。学校へ行ったら、朝鮮人や、ていじめられる。競輪場が、ずっとうちの遊び場やった」


辛いとき安子は、ここ、日野神社に来たと言いました。


忠秋は、自分をかばってくれた安子に何かお礼をさせて欲しいと頼みます。


安子は何も欲しくないようでしたが、忠秋が「言うだけでもいいから言ってほしい」と頼むので「自転車」と言いました。


しばらくして


「武庫川健脚大会」というマラソン大会がありました。三等は「自転車」。忠秋はマラソン大会に出ます。


走り出しは順調。3位についていました。残すところ、あと5キロ。


懸命に 走る!・走る!・走る!


このまま行けば、3位、あと2キロ。


そこで


大きな声が耳に入ったのです。


「アボジ、ヒムセネヨ (がんばれ)!」


すぐ後ろに朝鮮のランナーが迫っていました。


終わってみれば、忠秋は4位。参加賞のタオル一枚だけもらっただけでした。


忠秋は、休みの日に安子の部屋に遊びに行きました。


「うち、これでもちょっとは弾けるねんで」


安子は、部屋にあったギターを手にして、小畑実の「星影の小径」を歌います。


素敵な時間が、2人に流れました。


しかし


それを引き裂くような、夢であってほしい哀しい運命が、安子と忠秋に忍び寄ってきていたのです。


夏の気配を感じさせる夕暮れ、忠秋は安子に日野神社に呼び出されました。


ある雑誌を安子に見せられました。そこには、きれいな外国の写真が載っていました。


北朝鮮、と書いてある。

日本におる朝鮮人は、希望すれば誰でも無料で北朝鮮に帰国できることになった、という記事やった。

「帰ったら、誰でも、希望どおりの好きな職につけるって」



「北朝鮮で小学校の先生になりたい。」そう、忠秋に告げます。


それに北朝鮮には、安子の父のお墓があるという。


忠秋は疑問を投げかけました。「知り合いも誰もいないだろう?」と。


「知り合いはおらん。けど、差別する人もおらん。うちの祖国やもん」


安子は忠秋に言いました。


ある夜、軒先で雨宿りをしていたとき、阪急神戸線と今津線が直角に交差しているその電車の独特な音が聞こえてきました。


うちらの人生も、この線路みたいに、ほんの一瞬、この街で交わったんやね・・・・・。


と安子はしんみりとつぶやきまました。


「一緒に北朝鮮に行こう」
「夫婦やないし、日本人は北朝鮮には行けない」

「ほな、結婚しよ」
「あかん」


忠明が北朝鮮に行っても幸せになれんと安子は言いました。「私の勘は当たるんや」と。


夏が過ぎて秋の気配が漂ってきた頃に、安子は「野球を見に行こう」と忠秋を誘いました。


安子は、夜の西宮球場が見てみたかったのです。


夜の野球場がこんなにきれいなもんやって、父ちゃんも安子もそのときはじめて知った。


最終回、阪急の選手が2人のいるスタンドにホームランを打ちました。


忠秋はそのボールを拾い上げ、安子に渡しました。


その日以来、出発の日まで安子は忠秋に会おうとしませんでした。


出発の日


忠秋は国鉄(現・JR)の西宮駅に見送りに。


いつまでも手を振る安子の姿が見えんようになったとき、父ちゃんははじめて後悔した。

なんで、おれは言えんかったんや。安子、北朝鮮には行くな!おれと一緒にずっと日本におれ。

(中略)

たとえどんな差別を受けても、全部おれが守ったる。北朝鮮に行くより、ずっとずっと、幸せにしたる・・・・・・。


正秋は、そう語る父の前で言葉が出ませんでした。


北朝鮮への帰国事業が打ち切られたのは、昭和59年なのだそうです。


このときの忠秋は、まだ北朝鮮のことを現在のようにわかっていませんでした。


昭和35年、安子さんが乗った北朝鮮への帰国船が新潟港を出てから、半世紀余り。「現在」に生きる人間は言える。あの帰国事業は失敗だった。


帰国船で北朝鮮に渡った人々は、写真で見せられた都会とはほど遠い辺境の地へ送られたといいます。


希望の仕事に就けることもなく、配給制の食糧はいつしか途絶え、不衛生な住居に医療も満足に受けられなかったそうです。


地元の朝鮮人からは差別され、不平を言えば収容所へ送られる。


これが、宣伝された「地上の楽園」の真の姿でした。


夢なのか現実なのか、よくわからない不思議な体験をした正秋は、元の50歳の正秋に戻っていました。


夢であるかのようだった父の「秘密」をひびき食堂で聞いた正秋。


後日


正秋は、ひびき食堂をさがします。


店をやっていたご夫婦はすでに亡くなっていて、その息子夫婦に会うことができました。


すると


正秋の名刺を見て、何か心当たりがありました。


忠秋と正秋宛に手紙が届いているというのです。


差出人は、北朝鮮に行った安子からでした。


いったい、なぜ・・・・・・
どうして彼女が、自分の名前を知っているのだ。


手紙には安子と彼女のお母さんが、北朝鮮に渡ってからの生活のことが書かれていました。


安子は北朝鮮に着いたとき、違和感を肌で感じたといいます。


安子とお母さんに割り当てられた仕事は、炭坑の賄い婦と洗濯婦でした。


「地上の楽園」とは、まったくのウソで、自由というものが全くない、と手紙には書かれていました。


そのうえ


お互いが監視しあい、怪しいことがあれば上級のお偉いさんに「密告」されるのです。


「密告」した者には、報酬が与えられ、「密告」された者は、強制収用所に入れられました。それは、家族にまで塁が及びました。


誰にも決して心を開くことができません。


北朝鮮で5年が過ぎたある夜のこと、安子は家の裏にある山に登り、持ってきたギターで小畑実の 「星影の小径」 を歌います。


背後から人が来ました。


「小畑さんと知り合いだった」とその男は言いました。また、小畑さんは同胞だとも。


男とそんな会話を交わした次の日


「生活総和」で安子は、つるし上げにあい、この国の恐ろしさを感じます。


「密告」されたのです。


「資本主義の手先である日本の歌を歌っていた。共和国に対する反逆行為だ」


安子は懲役5年の労働懲役刑を受け、教化所に入れられてしまったのです。


安子は地獄の日々を耐え、教化所を出ました。


帰る列車の中で、ある人と出会ったと手紙にありました。


左脚の悪い足の引きずった若いやせこけた男の人が、安子のはす向かいの席に座りました。


脚は、強化所で垂直跳びを連続で千回やらされて痛めたと男は言います。


彼は、野球の才能がありました。


彼は、甲子園に何度も出た強豪の高校のピッチャーでしたが、肩を壊してしまったため甲子園には行けませんでした。


そこに声を掛けたのが、朝鮮総連の幹部でした。


「祖国で野球を教えてみないか?」と。


やはり、彼も騙されていました。


人を絶対に信用してはいけないこの国で、私はもう一度だけ、誰かを信用してみようと思いました。今、目の前にいる、このひとを。


安子は、彼と結婚しました。日本名 江藤星規


そう、正秋に勇気を与えたあの江藤のおっちゃんの息子だったのです。


やがて2人に子どもが授かりましたが、たった4ヶ月で息をひきとってしまいます。


安子はもう、何もかもやる気が起きません。


夫が、安子を夜中に散歩に誘います。


「昼間だと人の目がある。
散歩していても、誰に何を言われるかわからないだろ」


2人は、山の茂みに隠れた丘の上のような場所に行きます。


「あの歌、歌ってくれないか」


と彼は安子に言いました。


♪ アイラブユー アイラブユー

いつまでも いつまでも


彼の手は安子の手を強く握り、安子の頬には涙が。


それ以来2人は辛いことがあると,、暗闇の中で手をつなぎ、山の茂みに隠れた丘の上にやって来ました。


安子は歌を歌い、彼は阪急ブレーブスやバルボン選手の話をしました。ほんのささやかな幸せの瞬間でした。


もともと食糧が不足していた北朝鮮。


1994年頃からさらに深刻になり、配給まで止まったそうです。


食糧不足はやがて飢饉に変わりました。このままでは、餓死してしまう。


2人は、川にいるヘビやカエルを捕り食糧にします。


周囲でも、人がばたばたと死んでいきました。盗みが横行し、捕まった者は公開処刑されました。


そして、ついに


夫が、栄養失調で亡くなってしまいます。安子も死を覚悟しました。


安子はやせ衰えた脚をひきずり、気がつくと清津駅に来ていました。


「どこかに食糧があるかもしれない。」


安子はゆっくりと階段を降りたところで、意識が遠のきました。


そのとき


大歓声が聞こえたのです。


かつて、忠秋と行った夜の西宮球場でした。


幻を見ていると思いました。


阪急の最後のバッターが三振し、試合が終わりました。


人ごみに交じり、球場を出た安子が目にしたのは、忠秋と息子の正秋です。


ひびき食堂に入った彼らを、店の外から耳を澄ませて聴いていました。


ここで子どもの名前が「正秋」だとわかったのです。


忠秋は子どもの姿をした50歳の正秋に、安子のことを語っています。


安子、北朝鮮には行くな!おれと一緒にずっと日本におれ。

(中略)

たとえどんな差別を受けても、全部おれが守ったる。

北朝鮮に行くより、ずっとずっと、幸せにしたる・・・・・・。


聴いている安子。


あなたが語るその思い出のひとつひとつに、私は声を押し殺して泣きました。堪えきれず、あの交差する線路の上を電車が通り過ぎるときだけ、私はその音にまぎれて嗚咽を漏らしました。

(中略)

突然、交差する線路の上を走る電車の音が聞こえてきました。耳をふさぎたくなるほどの大きな警笛が鳴り響きました。

私はめまいをおぼえ、思わずガラス窓に手をついてしまいました。ガラス窓が揺れました。

気がつくと、私は、夜の清津駅の前に立ち尽くしていました。


負けても、辛くても、自分の信念を貫く勇者に、幻のような奇跡が起こったのです。安子も正秋と同じように「いつの日かきた道」にやってきていたのでした。


それ以来3年、必死で生きてきました。まさにそれは奇跡だと手紙に書いていました。


夫と住んでいた家は売り払い、夜は清津駅の構内で寝ました。


人々は私のことを物乞いの老女とみていたでしょう。


ひもじい身体をひきずって、闇市を歩いていたそのときです。


「お姉さん、もしかしたら、西宮にいたお姉さんじゃないですか?」


その50歳くらいの女性は、武庫川のマラソン大会でいっしょに土手の上で応援していたと言いました。


忠秋が最後に抜かれた朝鮮人の男の人を、安子のそばで応援していたと。


「アボジ、ヒムセネヨ (がんばれ)!」


その朝鮮人とは、女性の父親でした。


安子の泣きぼくろに特徴があったので、彼女があの時のマラソン大会で応援していた女性だとわかったのです。


「私、お姉さんにお礼がしたいんです」


安子は、驚きます。


あのマラソン大会のとき、忠秋は最後に抜かれたのではなく、わざと脚がもつれたふりをしてスピードを緩めたと。


その女性のお父さんは、娘に「俺に自転車を譲るために、あの男はわざと負けたんだ」と言っていました。


「私、自転車に乗れて、ほんとにうれしかった。一生の思い出です。

あの自転車は、あのお兄さんが私にくれたものです。

だから私、あのときの恩返しを、お兄さんの代わりに、お姉さんにしたいんです」


彼女は安子に事情を聞き、今の困難な状況を理解しました。


そして

安子に「中国に行く気はないか?」と尋ねます。彼女は、北朝鮮の女性を中国に送るブローカーの仕事をしていました。


安子は悩みます。


すると


「勇気を・・・・・・」


という声が聞こえました。


中国に渡った安子は、口が聞けなくて、耳の不自由な60代の男の妻になりました。


夫はとても私を大事にしてくれました。
静かな日々は、平和に過ぎてゆきました。


夜、眠れないときはラジオで大阪の放送を聴き、忘れていた日本語もラジオを聴いて思い出しました。手紙を書くきっかけも、ラジオだったと書いています。


長い手紙の最後には、こう書かれていました。


忠秋さん

いつかまた、どこかで会いましょう。
永遠という名の町の、交差した線路のどこかで。


放送作家の正秋はラジオ番組のリクエストを、別れた妻の片岡さん(ラジオ番組を持っている)に頼みます。


リクエストは、小畑実の「星影の小径」


そして


今度は、正秋が便りに自分の想いを込め、安子さんに向けてラジオの電波にのせました。


日本海を越え、この歌があなたの耳に届きますように。


         ◇


負けても、負けても
苦しくても、辛くても
勇気を持てば
打開できるエネルギーが
感情の中で交差し
埋もれていた力が湧いてくる


自分の中にも良き思い出「いつの日か来た道」がよみがえった、素晴らしい物語でした。



【出典】

「勇者たちへの伝言  いつの日か来た道」 増山実   ハルキ文庫


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