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旅する本が生まれるまで

過去の話|冊子『Un petit carnet Japonisme』について



2022.08.27

 夏の終わりに本を発行した。『ひょっとして、旅』というタイトルの雑文集。少部数の発行にもかかわらず、発売開始から時を置かずして、いろいろな人たちのところへ渡っていった。ここでは本ができるまでの話をします。

イラスト雑文集『ひょっとして、旅』書影


(自分のつくった本が、明日には見知らぬ土地で誰かの手元にある、というのが不思議でたまらない。デジタル・データではない本が、重さのある物質が、すみやかに遠くへ運ばれていく)



 旅、というものはとても個人的な背景を持つ言葉だと思う。旅という言葉をいろいろな人がいろいろな目的のために使っていて、旅という言葉の意味はそのつど再決定されて、更新されていく。ある人は新宿発の温泉街バスツアーを旅だと言い、別な人はそれは旅ではなくて旅行だろうと言った。行ったまま帰ってこない放蕩こそが旅であると信じているらしく、その人は例として14歳の家出を挙げた。僕は黙ってそれを聞いていた。

写真|本文の一部



 僕にとって旅とはなんだろうか、と考えてみる。どのような時に旅に出たくなるのか、考える。 


 この本を書くにあたって、「どのような時に旅に出たくなるのか」という質問に答えるような文章を書こうと考えていたのですが、よくよくふりかえってみると、今まで自分はそのような明確なきっかけ、わかりやすい動機のようなものに引っぱられて旅に出たことは少ないことに気がつきました。僕の場合、旅の多くは無意識のうちに始まってしまっているものでした。あるいは、あとになって「あれはもしかすると旅だったかもしれないな」と気がつくようなものなのでした。

 たとえば、ある冬の晩にどうしても温かいコーヒーが飲みたくなって、アパートの階段をつま先立ちで降り(神経質な隣人を起こしてしまわないように)、午前1時の住宅街をコンビニエンスストアのほうへ肩をすぼませて早足で歩いてゆく時──。その時の自分はコーヒーのことで頭がいっぱいかもしれませんが、これはちゃんと旅の一部です。冷たく耳を刺す通りの空気、腹をすかせた野良猫の足取り、煌々とした隣家の明かり。特別な場所でなくても、風景というものはあります。風景のあいだを通過してゆくことが旅なのです。夜の町を通過しながら僕の目や耳、肌を通して触れることのできる記憶の中に旅はあります。そのことを知ってからというもの、旅という言葉はいつも僕の感受性のいちばん近いところにうずくまっています。平坦で抑揚を欠いたようにみえるわずかな一幕にも風景があり、風景と共にあるのは僕自身の感情の記憶です。でもそれは、あらゆるものが旅になりえるのだから一瞬たりとも気を抜くな、という意味ではありません。
(本文より)





 特別な場所へ行くために特別な資本を投下して、そこで特別な体験をする、という旅ももちろん素敵なのだけれど、僕の場合、そこまできちんと手配された興行にうまく誘導されていくことができないから、途中で落っこちてしまう。東大寺の脇にすっとしたアルメリアがいくらか生えていたりしたら、迷わずそちらへ進んでいってしまうと思う。今みたいほうをみにいってしまうと思う。有名な観光名所はたくさん巡らなくてもいい(みたい時にみたい所へ足を運ぶと思う)。


(旅の持ち物を紹介する頁)



 休日にすることを考えてみる。古書店で飼われているトイプードルに会いたいから古本を買いに行くし、海までの道を歩きたいから海に出かける。これも僕は旅の一つに数えるだろう。僕にとっての旅の数々に、共通しているものがあるとするなら、目的地に目的があるとは限らないということかもしれない。点と点を結ぼうとマーカーで線を引くにしても、紙に線を引くびゅうという手応えが思ったより楽しくて、そちらに夢中になってしまう。ことに似ている。


(紙面デザインのラフスケッチ)



 僕はそこまで記憶能力に長けていないので、基本的に人の話を全然聞けていない。でも、そういう僕の問題点と僕の考える旅には深い関係があるし、旅をするというのは、どこかしらが大胆に削られた記憶の彫刻を時間を超えて持ち帰ることだと思っている(いくぶんポジティブな見地から言うなら)。

 元々僕の保持している記憶はいつもどこかしらが損なわれていて、偏っていて、いびつなアウトラインをとっています。よく覚えているものごともあれば、うまく思い出せないものごともあります。僕は他人の頭の中をのぞいたことはありませんが、おそらくこれを読んでいる方々の多くも、程度の差はあれ、そのような記憶のムラを通じて生活しているのだと思います。そのような記憶の性質は時として不便な成り行きを運ぶこともありますが、反対にすべての出来事を均一にくまなく記憶できてしまっていたら、それはそれでとても息が詰まることでしょう。そのような状態において、僕は一つの基本姿勢を決めています。それは、〈拾い上げることのできる記憶は、拾い上げるだけの理由があるのかもしれないと考える〉というものです。不確実な記憶の海の波間に、浮かび上がってきたものは何であれ意味あるものだとして受け入れてみるということです。僕の場合それはきまって不恰好で取るに足らない、一笑に付してしまいそうなものばかりで恥ずかしいのですが、そこから読み取ることのできる風景や感情を改めてみつめてみることにしました。なぜなら、その他愛もない断片が僕の唱える旅そのものであり、記憶的なアイデンティティと呼ぶべきものであるからなのです。この本に『ひょっとして、旅』というタイトルがもたらされたのも、あらゆる記憶がひょっとして、旅なのかもしれないという力みのない眼差しによるものでした。あるいは旅という言葉から複雑な期待を取り払って、自分の側にできる限り近づけていたいということなのかもしれません。
(本文より)





 なので、そういう寄り道的な、ふつうあまり明るく輝かないようなできごとを主に書いた。ハイなテンションで名勝地を語るようなものではないので、旅行の手引きにはならない。


 でももしかすると、似たような旅を過去にしたことがありますという人がいるかもしれない。そういう旅をみつけましたという人がいるかもしれない。もしいたら、教えてください。この本はそうした移動と共に生きている人たちのところへ届くといいのですが。

 あるいはこの本で取り上げたいくつかのシーンが、誰かの日常の(特筆すべきことのない)一幕を何かしら手触りのある記憶に変えてしまうことがあるかもしれない。それはひょっとしてすばらしいのかもしれない。


(旅にまつわる本をいくつか紹介しています)



 既に本を手に取ってくださった人から文章を受け取った。鞄へ入れて遠くへゆくのだそうだ。感想を伝えてくれた人もいた。みんな、みんなこれからどこへゆくのだろうか。言葉を本にして送って、言葉が返ってくるのは2000年代における往復書簡のようで、不思議なことだった。何かの感想を他人に伝えることを僕はあまりしないので、そういう感性の飛距離を持つ人が少しうらやましい気持ちになった。


2022.09.03

 自分が触れている生活の実感を別のかたちにして発表するということを、ここ数年はしばらくつづけていて、表現のあり方を少しずつ変化させながら、これまでにいくつかの本を発行している。僕をとりまくいくつかの実践については、SNSを観覧することである程度表層をさらえてしまうのかもしれないけれど、本当に伝えたい文脈はやはり本としての速度で世の中に出していきたいと今のところは考えています。なので、これらの本を手に取ってもらえるのはありがたいことなのだと思う。


 個人的な本の発行とは別に、最近は詩歌や小説をはじめとした文芸の創作に興味が出てきたので、僕自身もいろいろな本を買い漁っては、日夜浴びるように通読している。時間だけは唯一潤沢に与えられている今の生活なので、このあいだにやりたいことに向き合っていようと考えています。また何かつくったら話をします。



p.s.

これまでにつくった本は下記のオンラインストアにて販売しております。個人出版のため在庫は少数ですが、ご興味のある方はこちらからご覧ください。


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