ひとりで本をつくることについて
1)
本の話をする前に自分のことを少しだけ書きます。
僕は今、神奈川県の西端にある港町にいて、そこで暮らしながら詩やエッセイなどの文章を書いています。同時に雑誌のために挿絵を描いたり、グラフィックデザインの制作依頼を受けたりするような、一人でできる仕事もやっています。住んでいる家は高台にある賃貸で、天気のよい日は真っ青な相模湾と初島がみえます。春夏の暖かい時期は軒先で野菜を育てています。学生として東京藝術大学の美術学部というところに在籍していて、台東区上野にあるキャンパスへときどき通学しています。
大学ではデザインを専攻する領域にいます。絵を描くことが好きで、当初はグラフィックデザインに興味がありました。グラフィックデザインは色彩や形態というビジュアルなイメージ(あるいはそれらと文字情報)を組み合わせて何かしらの感情を喚起させる視覚的な表現手段の一つなのですが、そういうものに可能性を感じていました。ひとくちにグラフィックデザインと言っても、そこには細かなジャンル内訳があります。広告の企画を走らせながら展開をディレクションするADのようなものから、ミュージックアルバムのジャケット、パッケージ、webサイトのようなUI・UXまで、さまざまです。そして上記に含まれない前衛的な活動を扱うデザインの実例も多岐にわたります。
なかでも自分はブックデザインや装幀と呼ばれるような、本に関わるデザインの分野に興味を持つようになりました。本というのは奇妙なものです。著者によって立ち上げられた思考の軌跡が文字として紙の上に印刷され、物理的にそれらを束ね、一塊の重みを持つ物質につくり上げること。それが書店の棚に並び、本を買った見知らぬ誰かの暮らしの中で長い時間をかけて読まれていくこと。そのような営みが遠い過去から受け継がれてきたことに不思議な感情を覚えながらも、本の誕生に立ち会う仕事に憧れを持つようになります。そして自分でも本をつくりはじめます。つまり、自作の本を自分でデザインするということです。
本を出すためには企画が必要です。どんな内容を扱い、どんなテーマの本にするのかをイメージする必要があります。あるいはすでに毎日続けている日記や連作のようなものがあって、その集積を一冊の本にまとめようというケースもあります。全体のボリュームが想像できるようになると紙面の構成や大まかな流れがみえてきます。そのうちにだんだん本としての内側が決まってくるので、今度は本のあり方を考えます。例えばどのような紙にどのような印刷をするのか。造本設計や表紙の外観、背の形や小口の厚みはどのくらいか。いわゆるデザイナーの視点から理想的な本の姿を考えます。この時、ブックデザインは包装紙のように外側を煌びやかに飾り付けるものではなく、本の内容と密接に関係した固有のビジュアルとして/手触りとして/体験として、ある程度の必然性をもって表面に現れてくるように感じます。自分の実感をもとに言い換えると、ブックデザインは本の外観ではないのかもしれません。本の中身のいちばん外側として、読者や外の世界と接しているように思えるのです。それが、自分が本のデザインに惹かれる理由の一つです。
そのようにしてこれまで何冊か自作の本を出版しました。印刷や製本にかかる費用は自分で持ち出すので、発行はいつも少部数なのですが、ありがたいことに手に取ってくださる方がいらっしゃり、作家が直接買い手に発送するというシンプルな方法で送り届けてきました。本の内容もイラストとエッセイからなる日記のようなものから、写真を収録したZINE、小さな雑誌など、さまざまです。その時々の生活を送るなかで、今これを何かの形に残しておくべきだと自身に命じてつくっているところがあり、誰に頼まれるでもなく手を動かしています。そのようなセルフパブリッシングの活動を続けながら暮らすうちに、いつしか文章を書くことそのものに対する関心が自分のなかで高まりつつあったのでした。
なかでもまず惹かれたのが詩という言葉の姿でした。詳しい経緯はここでは書かずにおきますが、詩に関心を寄せるようになったことで、それまで消化することのむずかしかった世の中の曖昧な部分や、まだ名前のついていない心の動き方に、初めて直に触れられたような気がしたのです。今思えば日常的にインターネット上で文章を読み書きする自分にとって、それは世界をゆっくり思考するための、もっともはやい手段だったように思います。言葉という、無色透明にも思える/多くの人々が同じように手にしている/そして使うことのできる/ありふれた/とても長い歴史を携えた素材の、新しい使い方についての驚きです。その時から、自分でも細々と詩を書くようになります。2022年の秋口でした。最近といえば最近です。でも当時は1ヶ月、いや1週間ごとに自分の価値観や好奇心が(自分でも驚くほどに)目まぐるしく変化していました。その年は大学を一年間休学していたので、いろいろなことをあてもなく考える時間が許されていたのだと思います。
2)
それからまた少し時間が経ち、2023年の夏にこの小説『いっせいになにかがはじまる予感だけがする』を書きはじめました。この小説は結果的に大学の卒業制作としても発表することになりそうです。ですが当初は小説を書くつもりは毛頭なく、どうして突然小説を書こうと思ったのか、その決定的なはじまりを思い出すことが今となってはできないでいます。ただ(これは僕が自身の制作活動全般に対して常々感じていることなのですが)、自分は生活をしながらぼんやりと考えているものごとに、絶えず何かしらの形や名前を与えようとしていて、そのためにちょうど良い手段を無意識に探し続けているようなのです。手段を探して、その可能性を確かめながら自分の身体の外に出すことを習慣としている──。そうでなければ、誰にも頼まれていないのに続けることは難しいはずです。つまりこの新しい作品も、おそらくは2020年から2023年にかけて、自分にとって関心のある出来事/関心を持たずにはいられなかった世界の様子が選ばせた、一つの出力装置なのだと考えるようになりました。小説という(そして本という)装置。
一方で困ったことには、自ら小説を書きながらも、一体それがどのような社会的声明を持ち、どのような示唆をもたらすのかは書き手のあずかり知るところではないという事実です。その小説がどのようにして書かれて、どのようなことが書かれているのか、それは未だに自分でもうまくわからないところがあります。そのような解明は小説を書き終えた自分が、その後の長い時間を使って考えていくべき仕事のような気がしています。あるいはこの本を手に取ってくださったどなたかの立場から、拾い上げていただけるものがあるのかもわかりません(小説の内容についての詳細な解説を期待されていた方には申し訳ありません)。自分の書いた小説について今の時点で説明できることは少ないのですが、そのなかでも言葉を尽くしてあとがきのような文章を書いてみました。こちらは別冊版のフリーペーパーとして、展覧会の会場で配布しています。手に取っていただけたらうれしいです。
3)
言葉を書く人間が、言葉をどのような姿で現実世界に存在させるのかということを、自分は手を動かしながら考えていて、その思索のプロセスが小説という個人的なオブジェのごとき形態を持つことになりました。そして小説に関してもう一言付け加えるなら、その販売方法、出版後の本の届け方にはこれまでと異なる新しい特徴があります。ここまで読んでくださった方へ、最後にそれをお伝えしておきたいと思います。
これまでに出版した自主制作のリトルプレスは、オンラインストアのみでの個人販売を受け付けていましたが、この小説『いっせいになにかがはじまる予感だけがする』では流通の道すじをもう少し広げることにしました。具体的には、〈①国内各地の書店さんでの取扱い〉、それから〈②展覧会を通じての発表〉の2つになります。前者は日本国内のあちこちで文化を育む独立系書店さんへ直接取引という方法で本を卸し、お店で販売していただくというやり方です。ありがたいことに、今のところ以下のお店で購入・注文いただけます(2024.02.11更新)。
取扱に至るまでには、本を持って直接足を運んだり、メールやサイト上で連絡を取らせていただいたり、人伝いに紹介をいただくなど、それぞれにさまざまな経緯がありました。上に書かれたお店はどれも、いわゆる大型書店ではありません。それぞれの土地に小さく根ざしながら、本を取り巻くさまざまな人を結びつけ、文化を育んでいる場所の一つです。本と読者をつなげるだけでなく、著者と読者を出合わせる空間でもあります。それぞれのお店がそれぞれに大切なこだわりを持って土地に関わり、本を売るという商いをしています。そのような個人書店を一軒一軒訪ねて、本についての話をするところから始めました。それが唯一、自分にできる営業的な行いだったのです。足を使って本を売るという言葉が近いかもしれません。
そのような場所に自分のつくった本を置いていただき、売っていただくということは、出版についてまわる営業活動の一部でありながら、ある種取り返しのつかない行動でもあります。商品として卸した本が売れるのかどうかわからないですし、長期的には版元と書店の双方に利益がなければ難しい営みだからです。新刊の営業に行くというのは、お客として書店へ本を買いに行くのとは異なります。そこで用いられるのは互いに個人事業主であるという認識であり、販売を委託する/される取引先という関係性です(それでも書店の方は温かく優しい方が多かったです)。初めての不慣れな営業活動を通して実感したのは、やはり書き手として真剣に良い仕事を目指さなくてはいけないな、という当たり前の前提だったように思います。
それでも書店に置いていただくことで、その地域に暮らす人々や、そのお店を目当てに訪れる方々と本が出会う機会が生まれます。本を買いに来た方や、ただ散歩のついでにふらりと立ち寄った人が、何の偶然かこの小説を手に取って、そのまま持ち帰っていかれることもないとは言い切れません。そのような小さな可能性が文化の豊かさそのものであり、その豊かさを縁の下で支えているのが町の小さい書店なのだと僕は考えています。小説『いっせいになにかがはじまる予感だけがする』はフィクションであり架空の物語を収録したものですが、それが実世界に暮らす人々とのあいだにどのような関係性を立ち上げるのか、書き手としては興味があります。そして、あちこちに息づく小さな書店がこれからも長く存在し続けることを切に望みます。ぜひ、お近くのお店に足を運んでみてください。予期せぬ出会いの喜びがまだ残っていると思います。
(お店に伺うのが遠方で難しいという方へ、この本はオンラインストアでもご購入いただけます)
4)
最後にもう一つ、展覧会を通じての発表について。この小説は以下の展覧会にて出品・発表もする予定です。おそらくこの記事が公開される時点では、六本木のギャラリーにて展覧会に参加している最中です。
現在僕自身は大学をはじめ所属領域の特性上、美術作家として展覧会に参加する機会がいくつかあります。ギャラリーや美術館などで行われる各種の展覧会は、アート作品の発表・観覧を目的とするものが多くあるのですが、以下の展覧会では小説を作品として出品しています。そもそも複製を前提とした小説の展示、それから小説にまつわるアートワークもディスプレイする予定です。会場にて本を買いたいという方のための窓口も設けられたらと思っています。美術作品を発表する展覧会という機会をはじまりとして、来場した皆さまが手に取り、それぞれの生活へ帰っていった後も細く長く関わりを持ちつづけられるような本のあり方を探っています。展覧会が成果発表のためだけでなく、作品との関係のはじまりのための空間になることを望みます。
そして先ほどの書店の話をするならば、これら展覧会の会期と並行して、各地の書店の店頭にも同じように本が陳列されているということになります。小説のタイトル『いっせいになにかがはじまる予感だけがする』は、そのように各地で作品との邂逅がスタートする同時性をイメージしたものでもあります。もしお近くへお越しの際は、ご覧いただけましたら幸いです。前述の別冊版あとがきも無料配布しています。
5)
まとまりを欠いた長い文章になってしまいました。作品に向かっていると、他でもない自身のことがとても遠く、突き放された他人のように思える瞬間があります。ひとまずは今、使うことのできる言葉で自分の活動と新しい小説について書いておきます。ここに書かれた言葉たちが、この先予期せぬ方向へ変わっていくこともあるかもしれませんが、その度にまた言葉を見つけてお知らせできたらと思っています。
著者について)
のもとしゅうへい / shuhei nomoto
東京藝術大学美術学部在籍。2022年より神奈川県・真鶴町へ移り住み、生活と並行して企画・執筆・編集・装幀までのすべてを個人で手がけるセルフパブリッシングの活動を行う。同年に執筆活動をはじめ、2023年冬に「ユリイカの新人」に選ばれる。言葉や視覚表現を用いて、現代における不条理を虚構の風景に置き換え、実世界の姿を別の角度から記録することを試みている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?