2023.05.26のスケッチ

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　箱根の仙石原に湿原の植物がみられる園のようなものがあって、行ってきました。箱根湿生花園というところです。この日は丸一日予定がなかった。目覚めて少し仕事をしたあと、洗濯物を干し、軒先のプランターに水をやった。電子レンジに凍った炊き込みご飯の包みを入れ、2分間温めて朝食をとった。それから荷物をリュックサックにまとめた。これはずいぶん前に無印良品で買ったものだが、今ではもうところどころブラックが褪せて赤みが出てきている。それでもまだしばらくは丈夫に使えそうなので、こういうラフな外出の際には重宝している。

　9時ちょうどに真鶴を発つ電車に乗って小田原で書店に寄る。ラスカの有隣堂はまだ閉まっていて、東口にある三省堂は開いたばかりだった。三省堂ではキャリーケースを引いた大学生くらいの女の子たちが2人で1つの旅行雑誌を覗き込んで何かを話していた。どちらも色の濃いサングラスをかけて、Tシャツを腰の高いところにインしていた。ゴールデンウィークはこのあいだ終わったばかりだし、夏休みにはまだ早い時期だけど、駅はそれなりに活気があるみたいだった。

　箱根登山バスの乗り場は小田原駅西口にある。目当ての4番停車場へ行くには一度駅の地下に潜って、案内表示に従いながら適切なエスカレーターに乗り、再び地上へ出る必要がある。9時50分発の桃源台行きには外国人旅行客が4人ほど乗り合わせていて、みんな縦に長い登山用のザックを抱えていた。平日の午前中だからなのか、元々そういう路線なのかわからないけれど、あまり人が乗り込んでこない。だからバスのほうもどんどん停留所を飛ばして小田原市内を走り抜ける。

〈次はビーバートザン前、ビーバートザン前〉というアナウンスが流れる。ビーバートザン前？　思わず車内前方へ掲げられた四角いディスプレイをみる。そこにはビーバートザン前という停車場の名前が白い光で映し出されている。ビーバートザン前、ビーバートザン前。バスは速度を緩めないまま、停車場を通過していく。僕は窓に額を寄せて停車場の姿を確認する。それからおそらく周辺に存在するであろう〈ビーバートザン〉の正体を見定めようとする。しかしそこには何も存在しない。灰色の道路に水を撒く老人と、草木を挿したカゴを揺らしながら自転車を漕ぐ少年の姿があるだけだ。僕はシートに座り直す。そしてじぶんが住処を離れ、短い旅に出ている最中だということに気がつく。

　箱根湯本に到着するとさすがにそれなりの乗客があり、ほとんどの座席が埋まった。複数の香水が混ざり合った匂いが車内を満たしてにぎやかになる。駅前通りの店構えも全体的に元気がいい。なんというか、一帯の観光アクセスにおけるハブ的存在感を全面に押し出しているような印象を受ける。乗り込んできた人たちもそれに呼応してエネルギッシュである。いかにもさあ観光するわよ、という感じだ。真鶴ではあまりそういう集団をみかけない。その手の前のめりな観光姿勢も、箱根湯本が喚起させるある種の成分なのだろうか。

　塔ノ沢のあたりから道が険しくなる。小田原で乗車する際にはいささか大仰に思えた箱根登山バスという名前も、このぶんではそう間違いでもないのかもしれない。右手に座るスーツ姿の男女が駅伝の話をしている。やっぱりナイキが強いですけど、ストライド型ランナーはアシックスの厚底カーボンシューズが優秀ですから──。男のほうが早口に路面とシューズの接地面積の関係を述べている。窓から入る風の匂いが少しずつ変わってくる。

　仙石原案内所という停車場でバスを降りると、なんとなく山の上のほうにやって来たなという感覚が得られる。道路は広く閑散として、青い山肌を背景に宿泊施設が点々と並んでいる。つるりとした観光バスが植込みの前に停まっている。小田原に比べ空気はひんやりとしているから、リュックサックのジッパーを開けて丸め込まれたジャンパーの存在を確かめる。まだ羽織るほどではない。

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　目当ての箱根湿生花園はいわゆるビニールハウス状に囲い込まれた屋内植物園とは一線を画している。そこでは仙石原の幽玄な湿性地帯が広大な範囲で保全・管理され、季節ごとにさまざまな野草の姿を楽しむことができる。来場者は高原に敷かれた木道を踏みしめながら青空のもとハイキングするような格好になる。このようにアクティブな探索をするには5月は良い季節です。雨雲はまだ遠くのほうで鳴りを潜めているし、それほど過酷な直射日光もない。というわけで、この日はくまなく園内を歩けた。

　一組の老夫婦が、揃いのトレッキングポールを携えて目先の木道を進んでいく。おばあさんのほうがたまに立ち止まって「これねえ、イヌザクラ」とおじいさんに向かって花の名前を報告する。それから短く息継ぎをして「これはあの時咲いてたわよねえ、ほらあそこの、なんだったかね」というところまで言って口をつぐむ。おじいさんは何も答えない。いかなる反応も示さない。おばあさんの顔を見返したまま言葉を失い、樹木のように立ち尽くしている。おばあさんもそれをじっと覗き込んで静止している。少なからぬ時間、おじいさんは固まっている。僕は花をみる素振りで時折それを眺めていて、あるいはこれは本格的に無視を決め込んでいるのかもしれないと思ったところでようやく、おじいさんはゆっくりと確実な言葉で、その花が以前どこに咲いていて、それをみた時どんな風だったかをおばあさんに教える。細長いサワオグルマの茎が足元で揺れる。その時僕は彼らにとって一つの事実を確認することになる。溶け出した記憶の気配が質量のある言葉を見つけ出すまで、長い時間を要するのだということを知る。2人は静かに歩き出して立ち止まる。そしてそれをほとんど永遠に繰り返している。

　園を出てからいくつかの住宅と保養所の敷地を抜け、大通りを目指す。しばらく進むと瓦葺きのこじんまりとした平屋がみえてくる。行きにバスを降りた時、この辺りに感じの良い定食屋があったのを覚えていたのだ。中へ入ると奥の座敷はけっこうにぎわっていて、丸太を縦半分に割った長テーブルの端へ案内される。壁へかけられたホワイトボードには〈日替わりランチ〉の文字がある。〈ぶりの生姜醤油焼き・手羽元のさっぱり煮・豆もやしと小松菜の和え物〉。これらの3点セットが重箱へ詰められたものを頼んでみる。

　座敷の角に置かれたテレビモニターではちょうど1日前に長野県で発生した猟銃立てこもり事件の臨時ニュースが立て続けに放送されていた。現場では付近に住む女性2人とそこへ駆けつけた男性警察官2人が死亡している。犯人の男は31歳だった。繰り返し映し出される長野市街の上空映像とモニターを赤く埋めて点滅するテロップを、店内で昼食を囲む客の多くが談笑の止み間に食い入るようにみつめていた。濡れた割り箸の先で手羽元の肉を骨から引き離しているうちに、意識は次第に銃弾によってもたらされた肉の痛みについての想像をはじめていた。ヘリコプターの鈍い羽音が続いている。しかし箸をとめて考えたところで、その痛みについて具体的でありありとした実感を手にすることは難しかった。あるいはどこまでいってもその想像的接近は定型の虚構の域を脱しなかった。モニターへ映し出された家の屋根や生垣や道路が、ひどく遠くに置かれた小さなジオラマみたいにみえる。僕らはその風景をとても高いところから見下ろしている。そんな風に町を眺めることはあまりない。ひょっとするとこれはほんとうの現実ではない。だってテレビをみずに再び手羽元を食べることだってできるのだから……。昼食の味は悪くなかったはずなのだけれど、よく覚えていない。

　食後はそのまま仙石原案内所からバスに乗ることもできたが、なんとなく道なりに歩いてみようという気分になり、ほぼ車道に面した狭い歩道を30分かけて下っていった。そして小塚入口という停留所まで辿り着き、やって来たバスをつかまえ、箱根湯本へ着くまで後部座席で少し眠った。

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　14時を迎える箱根湯本は午前と変わらぬ盛り上がりをみせていた。昼時に真上まで駆け上がった太陽が建物の影をどこかに追いやってしまい、じんわりとした暑さを感じる時刻になる。通りでコーヒーを売る露店でソフトクリームをもらい、駅舎裏を流れる川のへりまで石段を降りた。ソフトクリームはあっという間に角を失い崩れていくので急いで吸い込むように食べてしまう。近くへ寄ると水はわりに激しい飛沫をあげていて、対岸では数組の若いカップルが日傘を放り出してそれぞれの角度で抱き合ったり、肩を組んだりしていた。

　そのあとは炎天の箱根湯本駅からマイクロワゴンの送迎バスに揺られ、箱根湯本茶屋にある温泉へ向かった。ここには以前訪れたことがある。入湯料を払えば山の斜面に設けられた露天風呂へ浸かることができる。女湯のほうはやや奥まった戸外にあるのに対して、男湯の浴場は渓谷の中空へ突き出すようなかたちで大きく開かれている。なのでなかなか開放感のある眺めです。湯上がり処も充実していて、川へ向かって張られた縁側のような休憩室も用意されている。休日は団体の客も多いのだけれど、平日の早い時間は過ごしやすい。熱い湯に長いあいだ肩を沈めておくことができないから、早々にあがって川のそばの座敷へ寝転び読みかけていた本を読む。ほどなくして網のような睡魔がかぶさってくる。

　目を覚ますと絶え間ない水音が耳鳴りのように続いていた。外はすでに暗くなりはじめている。時刻は17時をまわり、帰りのバスがなくなってしまったなと思いながら、さきほどまで枕にしていたリュックサックを背負い直す。夜へ近づく温泉街を横目に、ごうごうと鳴る須雲川の流れの脇を下へ下へ降りていく。湯に浸かっていた熱の名残なのか、自分の身体の重みをうまく認識できない。ふらりふらりと薄暗闇の石畳へ浮ついた歩みを這わせていく。道端の宿の部屋の明かりがぽつりぽつりと点灯していく。その不確かな灯が一帯に集められるのを、黙って眺めながら歩いていた。

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　そのようにして箱根湯本から電車に乗って真鶴へ戻り、家に帰って夕飯をつくった。この日はそれでおしまいだった。すぐに夕飯にとりかかったのは僕がとても空腹だったからだ。それははっきりと覚えている。でも夕飯に何をつくったのかは実際のところほとんど覚えていないし、何も思い出せない。以降の記憶はひどくぼんやりとしている。

　実を言うと、この短い旅の後にしばらく体調を崩すことになった。それもしっかり寝込むぐらいのハードな症状で、しばらくは部屋の窓から外をみようという気にもならなかった（4、5日のあいだついに一度も）。本当に何もできずにじっとしていた。そのあいだ自分がおよそ人間ではなく、じっとうずくまるべく本能を与えられた妖怪なり昆虫なりであると規定する思考ゲームを課すことにした（何らかの刺激的負荷を与えないと頭がおかしくなってしまいそうだったから／時間はたくさんあったから）。それで僕はたびたびセミの、あの柔らかなセミの幼虫のことを考えた。夏を前にあいつらはまだ土の中にいるだろうか。あいつらはずっと、じっとあそこで何をしているんだ。一体何を考えているんだ。いいからはやく僕のことを助けてくれよ。

　窓の外では激しい水音が続いている。ちょうど嵐が来ているのだ。枝や小石を叩きつける暴力的な音楽が数日間続き、それらが止んでしまうと着替えて家の外へ出た。溢れ出した雨水が砂利道をくまなく覆い、即席の小川として小さな音を立てていた。転がったウメの真っ青な実が、その透明な流れに何度も洗われているのをみた。長いあいだ寝込んでいたせいで身体中の筋肉が縮こまってしまったような気がする。頭も少しこわばっている。

　歪んだ肉体や不完全な精神を時間をかけて元へ戻しつつ、倒れる前まで書いていた日記のようなスケッチの続きを書いてみた。それがこの2023年5月26日の一連の原稿です。だらだらと書き継いでいたら当初の想定より長くなってしまった。失われた日記を修復しながら、この作業は自分が書くことへ健全に回帰していくためのリハビリテーションみたいなものだなと思った。走るためのウォーミングアップとして走る、という感じです。だからこのひとつながりの文章にはあまり意味がないのかもしれない。でもこういう気軽なスケッチは日常的に集めているので、また機会があれば書き起こしてみるのも面白いかもしれません。

公開 2023.06.25