見出し画像

映画評 52ヘルツのクジラたち🇯🇵

(C)2024「52ヘルツのクジラたち」製作委員会

2021年本屋大賞を受賞した町田そのこ原作の同名小説を『八日目の蝉』『ファミリア』の成島出監督で映画化した人間ドラマ。描きたいことが十分に理解できる一方で、ドラマとして描いた方が良かったのではないかと思わざる得ない作品であった。

自分の人生を家族に搾取されて生きてきた女性・三島貴瑚(杉咲花)。ある痛みを抱えて東京から海辺の街の一軒家へ引っ越してきた彼女は、そこで母親から「ムシ」と呼ばれて虐待される、声を発することのできない少年と出会う。貴瑚は少年との交流を通し、かつて自分の声なきSOSに気づいて救い出してくれた安吾(志尊淳)との日々を思い起こしていく。

「52ヘルツのクジラ」は、高い周波数で鳴くため、他のクジラには声が届かない、別名「世界でもっとも孤独なクジラ」と呼ばれている。本作で登場する人物らは、様々な事情から生きづらさを抱えている。親からのネグレクト及び虐待、家父長制、ジェンダーフリー、原作ではマッチョイズム要素も強く描かれる。SOSを発信しているものの、他者へと届くまでには至ってない。手が差し伸べられず、孤独を強いられているのは、まさに52ヘルツのクジラのようだ。

(C)2024「52ヘルツのクジラたち」製作委員会

夜明けのすべて』のように、様々な生きづらさを抱える人たちを描こうとしているが、起きてしまった現象として、監督過去作『八日目の蝉』と似る。野々宮と丈博の不倫関係、野々宮の友人宅での出来事、エンジェルホームでの生活、小豆島での安堵と崩壊、それぞれ掘り下げがいがある章立てで、じっくり描くことで感情移入及び理解が深まるにも関わらず、それぞれで断片的な出来事しか描かれない。描きたいことは分からなくはないが、駆け足感及びハイライト感が否めなくなっていた。

貴瑚がネグレクトを受ける描写は、重苦しく描けているが、より時間をかけて描いた方が、時の残酷さと親子関係の呪縛を体現させることができたはずだ。また、安吾と牧岡(小野梨花)と出会い、協力してもらい、親から解放される展開までトントン拍子で呆気なく終わるため、これまでの人生が大きく変わろうとしている決断が軽く見えてしまう。決断するまでの葛藤や行動に移す勇気を描くべきだ。

安吾は貴瑚に対し常に「幸せを願っている」と語る。貴瑚のこれまでの経緯を理解しているからこそ言える台詞であると理解できるが、時間をかけ丁寧に交流を深める様子や貴瑚の悲惨な過去を描くことで言葉の説得力が増す。断片的に描いた関係性だけでは齎せる深みも齎せられない。また、安吾がトランスジェンダーとしての葛藤にも、より感情移入できた。自分は救っているのに自分は救われないジレンマや言い出せないカタルシス、男らしさへの呪縛などを複合的に絡ませることができ、知られたくない人にバレてしまったことによる、感情移入がよりできたはずだ。また、信頼できない語り手としての最大限の効果も発揮できた。

(C)2024「52ヘルツのクジラたち」製作委員会

主人公の貴瑚がカタルシスを簡単に解放させてしまう『約束のネバーランド』と同じ現象には目をつぶれない。エマがことあるごとに台詞で心情を説明し、かつ観客を感動させようとするような台詞回しをするように、貴瑚も同じく何度も台詞で心情を吐露する。しかも太刀が悪いことに、カットの切り替えがなく延々と役者が喋ってる姿を延々と映すだけのワンパターン演出。感動ポルノを乱用する成島監督の腕の無さが際立つ。

カタルシスの解放は、登場人物と観客が重なり、感情移入し感動を覚える見せ場中の見せ場だが、解放したら溜めなければならない。何度も連発してしまえば、研鑽しきれてない質の悪いものを解放させることと等しくなるため、2時間程度の物語が構成される映画では何度も連発して良いものではない。だがドラマであれば、1話ごとに1回から2回解放できる。45分計6話であれば最低でも6回は解放できるため、駆け足で詰め込むことなく、じっくり丁寧に描いた後に、より良い見せ場を演出することができたはずだ。同じ人物で何回もカタルシスを解放させたかったのであれば、ドラマの方が相性が良かったかも知れない。

他人に薦めるのは吝かでは無く、描きたいことは重々に理解できる。良かった所もあった。であるからこそ、ドラマとして描いた方がもっと良くなっていたのでは無いかと思うと、残念で仕方がない。

この記事が参加している募集

スキしてみて

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?