見出し画像

映画評 異人たち🇬🇧

(C)2023 20th Century Studios. All Rights Reserved.

山田太一原作の小説『異人たちとの夏』を『さざなみ』『荒野にて』のアンドリュー・ヘイ監督によってロンドンを舞台に改変し再映画化。監督の性的嗜好を全面的に反映させた結果、原作または大林宣彦監督版が持ち合わせていた面白さの本質からかけ離れた挙句、非常に説教くさい内容に改変された珍作だ。

原作小説及び松竹制作の大林宣彦監督による『異人たちとの夏』から大きく改変された変更点は、主人公がゲイとして描かれていることだ。アンドリュー・ヘイ監督自身がゲイであることが影響しており、アダム(アンドリュー・スコット)が両親にゲイであることをカミングアウトしたり、差別や虐めに遭い、両親から愛されないのではないかと一人悩んでいたことを告白する場面は、ゲイであるが故に抱えていた監督の実体験をアダムに反映させていると見ていい。

さらにもう一つ、同じマンションに住む住居人が女性から男性ハリー(ポール・メスカル)に変更されておりクィアという設定だ。顔見知りでもないのに玄関先までいきなり訪問し「部屋でウイスキーを飲もう」と怪しい雰囲気を漂わせる。だが彼もまたアダムと同じように性的嗜好が要因のトラウマと孤独を抱えた一人であることが語られる。イギリスの大都会ロンドンで2人しかいないマンションに住み、静けさが漂う空間は、より2人の寂しい心情を強調しているかのようだ。

アダムとポールのセックスシーンは生々しく描かれており、『ブロークバック・マウンテン』のように激しく求め合う情熱的ではないものの、一つ一つのプレイをゆっくりと時間をかけ2人の愛を丁寧に確認し合う。また、『ムーンライト』のような映像美も加わり、男性同士で愛し合う行為を美しく描かれている。本作における最もエモーショナルが最高潮に到達するシーンでありながら、愛に飢えていた孤独な二人が愛を分かち合うカタルシスの解放として機能している。

(C)2023 20th Century Studios. All Rights Reserved.

ゲイの恋愛や葛藤をメインとして描いた一方で、亡き両親との再会や共に過ごす時間は全くエモーショナルではなくなってしまったのも事実。原作では、亡き両親との再会を喜び、失われた時間を取り戻すかのように何度も足を運び、人を愛すること人から愛されることを理解する。両親の存在も重要で直接的に言葉で言わずとも表情や仕草から再会を待ち望んでいた。別れの際、すき焼きに手をつけていなかったのは、顔を見れただけでも会いに来てくれただけでも親孝行をしてもらえたと、両親からの愛を感じ取ることができた。

異人たち』では両親役をジェイミー・ベルとクレア・フォイが演じているのだが両者とも深刻そうかつ戸惑った顔をしており、再会を喜んでいるようには見えない。戸惑うのはアダムだけで良くて、両親サイドは喜び歓迎ムードを作らなければバランスが取れないどころか、ここに足を運びたい説得力が薄くなる。片岡鶴太郎と秋吉久美子には到底及ばない。

アダムは両親との思い出話に花を咲かせず、自身がゲイであること、ゲイであることを理由に愛されないのではないかと苦悩していたことを打ち明ける。母親は理解に苦しみ、父親は薄々と感じてはいたが力になる事はできず仕舞い。その後『TITANE/チタン』のヴィンセントがありのままの息子を受け入れられなかったことを後悔しているかのように、両親はアダムを受け入れる。つまり両親が息子の同性愛を理解するかどうかに矮小化されている。

性的マイノリティの迫害や葛藤を強調するために理解なき者を登場させ、反省するという一連の流れが出来ているのだが、性的マイノリティに対する理解促進を目的とした啓発でしかない。理解していない両親に向かってゲイのアダムが可哀想に見える構造には、説教くささが強調され、半ば強制的に観客に受け入れさせようとする魂胆が見え隠れする。アダムの口から発せられるゲイであるが故の苦悩は、ゲイであるアンドリュー・ヘイ監督自身の心情と捉えざる得ず、SNSでの発信やプラカードを街中で歩き回っていただきたい。

アンドリュー・スコットとポール・メスカルの2人が愛し合うシーンや日常に光が見え始める展開、葛藤を抱えている心理描写など素晴らしかっただけに、『異人たちとの夏』を下地にする必要性がなかったことは強く念を押させていただきたい。

この記事が参加している募集

スキしてみて

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?