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新人ライターや編集者に教えている「文章は“リズムと通り”で読みやすく」

今宵、本の深みへ。
編プロのケーハクです。

先日、とある大物の某先生が、某通信社との修正のやりとりで交渉決裂したという文章を、SNS上に公開するといった出来事がありました。

なにやら担当編集が「体言止めが美しい」という理由で、20ヶ所以上の赤字を入れてきたことが原因なのだとか。

「なるほど」

この展開からすると、完全に編集者が悪者になる感じだな〜と思っていたら、やはり「直す箇所がない!」といった執筆者擁護の反応がほとんどを占めていました。

そもそも、寄稿文なのだから、決裂してしまうほど体言止めにこだわる編集もどうかと思ったりするわけですが、あの文章を見る限り、個人的には「ちょっとだけリズムと通りを良くしたいです、先生!」みたいなお願いはするかもしれないです(当然、地面に這いつくばって大恐縮しながらですが)。

「お前ごときが、大先生に赤字を入れるだと? 生意気な!」と、思われるかもしれませんが、自分がもし編集を担当していたら……と仮定してフラットに述べようと思います。

というわけで今回のテーマは、文章を書くときの「リズムと通り」です。

読んでいて突っかかる感覚

具体的な指摘は避けますが、なぜ担当編集は「体言止め」にこだわったのでしょうか? 実際にやりとりがあったとされる「美しい」という説明は、ちょっと乱暴な気がしますが、なんとなく気持ちはわかります。

実際の文章は、内容的には修正を入れる必要はないと思います(素晴らしいメッセージ!)。が、個人的にはちょっと内容がすんなり頭に入ってきづらい部分も感じられました。読んでいてちょっと引っ掛かる、ないし、突っかかる感覚とでもいいましょうか(本当にすみません、仕事のつもりで)。

これが、いわゆる「リズムと通り」に原因があると考えられます。

文章全体を通して、文末がすべて「です・ます」で完結しています。これは国語的には間違っていないのですが、「記事のライティング」の観点からすると、「読みづらさ」を生じさせる要因のひとつでもあります。

読ませの技術的に「です・ます」は、一文が「完結する・着地する」意味を持ちます。例えるなら、リズム的に、「一拍休み」が入るイメージですね。なので、これが連続すると、一文ごとに完結して立ち止まってしまう感じになり、なんとなくブツ切りの情報を読んでいる感覚になります。

ブツ切りの感覚は、熟読ではなく、リラックスして流し読みしたときに顕著に感じられ、そのために論旨が読み取りにくくなります。特に「ながら」で読むことを前提とする媒体などでは、重要な要素ともいえます。

リズムを意識した「読ませ」の技術

意見を述べる場合の多くは、結論を述べる前に「〜だから〜なのです」と、理由をつけるものです。そして、「理由と結論」の間には、連続性が備わっていないと伝わりづらくなります。

熟読すれば、理解できるものであっても、可能なら「ラクして読み取れる」ようにつなぎを工夫したいところ。この文章と文章の間を連続的につなげる技術のひとつが、「体言止め」です。

「体言止め」は、読ませの技術的には「文章が長くならないように、一旦切るね」的な意味を持っています(国語の観点ではありません)。

「このまま説明を続けると、一文が長くなりすぎて論旨を追いづらくなる」みたいなときに、体言止めは、ひとまず文章を収め、そのまま意見のつづきを述べる場合のつなぎとして役立ちます。リズム的には「半拍休み」みたいなイメージに近いでしょうか。

また、体言止めのリズムは「半拍休み」なので、早いテンポで読ませたいときに意図して多めに使用することも。それが、雑誌やウェブ記事の原稿で多用される理由のひとつともいえます。

文章のリズムというのは、「文節の長さと、文末に置かれる言葉の組み合わせ」で構成されます。音読と黙読では、文章のリズムは変わってきますが、経験の浅い新人さんには、「音読」してリズムを確認することをすすめています。

音読して突っかかったり、息が続かないような長さだったりするのは、読みにくい文章であるというのが、わかりやすい指標になるからです。

さらに、リズムがよく、情報がすんなり頭に入ってくる「通りの良さ」も文節の長さと、文末の言葉選びの組み合わせが影響してきます。

ちなみに、体言止めを連続させて使うケースもたまに見かけますが、これも「です・ますの連続」と同様に、情報のブツ切りの感覚を誘うため、他の言い回しをうまく組み合わせることが必要です。

修正指示には説明できる理由が必要

このように、記事の内容を読者にわかりやすく伝えるためには、「リズムと通り」を意識することも大切です。そして、そのための手段のひとつが体言止め。決して「美しい」という曖昧な理由で使っているわけではありません(笑)。

今回のケースにおいても、ロジカルに説明し、そうするに値する理由がきちんとあるとすれば、どんな執筆者でも納得してくれると思うのですが、いかがでしょう? 

それほどの理由がなかったとするなら、執筆者の意向を尊重すべきかな〜と個人的には思います。

文/編プロのケーハク

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