モロッコでラーメン屋さん開業までの半生と今の人生の目標について(後編)

就活、そして社会人以降の話です。

小学生〜大学生までの前編はこちら↓

と言う訳で、後編どうぞ。

やりたいことがわからないのなかでの就職活動

「自己分析」
就職活動をしている学生なら絶対に知っているワードでこれをしなければ明るい社会人ライフは見えてこない…らしい。

そんな自己分析だけども当時の僕は自分がどんな人間なのか、何が好きなのかなんてさっぱり見当もつかなかった。

自分の中にあるのはよくわからない敗北感と、世間体と親の目を気にして、名のある企業に入らなければならないという焦燥感だった。

当時はその気持ちを無視していたけれど、とにかく僕の中では世間から、そして親から認められたいという一心での就職活動だった。

まあでも結局何がしたいかなんてことはわからないので、受験と似たような感じで周りの人が受けているメガバンクとあとは有名企業、そしてコンサルとかになんとなく狙いをつけて就職活動がスタートした。
(経済学部だったしメガバンクは採用人数も多いし受験で言う滑り止めみたいな感じで考えていた。)

就職活動では志望動機というものを語らなければいけない。
志望動機ってのは
自分がどういうときにやりがいを感じるか、そして受けている会社の業務内容がそのやりがいにも繋がって気持ちよく働けそうだから働きたいです
みたいな感じで語ることになる。

当時の僕が考えたやりがい、そして就活の軸っていうのは
「相手の課題を解決して、感謝されたときにやりがいを感じるのでそういう仕事がしたい」
だった。

今思うと、単純にこれって自分の存在を肯定してほしいをそれっぽく言い換えただけなんだけど笑

まあ兎に角そういう感じで自分の中で就活の軸と呼ばれるものを作って就職活動に臨んだ。

無事日経に入社…までは良かったけど

今見てもハチャメチャな就活の軸だったわけだが、運良く日本経済新聞社という大手も大手の企業に入ることができた。
(ちなみに他は全滅だったからすごい嬉しくて、電話もらったときは渋谷のど真ん中で叫んでしまった笑)

ただ、さっきも書いたようにぼくの就活のモチベーションは親に認めてもらえるような会社だったから、あとの人生については誰かと結婚して子どもができて平凡な人生送るんだろうな〜なんてしか思っていなかった。

当時の話を、昔の友人に聞いたら残りの人生嫁や子供のためにしたくない仕事を40年し続けていくと思うとめっちゃ鬱だ〜って嘆いていたらしい。

闇深い笑笑

兎にも角にも当時の僕の中では僕の人生は親のためにあり、そしてまだ見ぬ嫁と子供のための人生であったのは間違いなくて、自分のための人生なんてことは欠片も考えたことがなかった。

ちなみに親は鼻高々だったからその点については誇らしく思ったりもできた。
多分僕の人生の中でたった1つ親に対して誇らしかったと言っても過言ではないんじゃなかろうか。

そういう意味ではこの就職活動というのは人生のハイライトかもしれない。

辛い会社員時代

昔こんなことがネットにかかれていた。

仕事には3つの要素がある。
金、仕事内容、人間関係
の3つだ。
この3つの全てが満たされていたらそれは幸せ。
3つのうちの2つなら、その仕事は続けられる。
3つのうちの1つしかなければ、続けることはできない。

僕の場合はどうだったか。

お給料はよかった。しかも新卒にしてはべらぼうに良かった。
1年目にして年収600万円近かったから不自由はなかったし、2年目からは新宿駅近くの家賃9万円のお部屋で裕福な生活をしていた。
だからお金には満足していた。

けれども、他の2つである仕事内容と人間関係については当時のぼくからみたら最悪だった。

まず仕事内容だけれど、新聞社に入ったにも関わらず、そもそも新聞なんかこれっぽっちも読んだことなかった笑
もはやなぜ入社できたか謎であるが、入れてしまったものは仕方ない。
(入れたことについてはいろいろな人の手助けを借りてのものであることは付記しておきたい)
また、他のマスコミであるテレビも見なけりゃ雑誌やラジオなんかもわからず、芸能人の名前なんかほとんど知らない状態だった。

そんな状態でぼくは新聞紙面の紙面広告を営業するわけだけれど、その効果なんてこれっぽっちも信じられるわけがなかった。
だって自分が新聞読んでないんだもの。
そんな訳で営業に行くときは、お客さんに対していつも詐欺をしているような申し訳ない気持ちを持っていた。
それに拍車をかけたのが新聞広告というものの陰りだった。
ネット広告がバンバン伸びている情勢の中で、新聞広告を売っていることがどうしてもいけないことをしているような罪悪感を当時常に感じていた。

また、営業なので数字をつくることが大事な仕事であるわけだけれど、これはもう全然やる気がわかなかった。
仕事なんだからやれよっていう意見もわかるのだけれど、やる気がわかなかったものはもはや仕方ない。

そんな訳で、売っているものについても、数字を作るという根本の仕事についても興味がなかったし、やる気がわかなかった。

そして人間関係。

さっきも書いたように人間関係は悪かったんだけれど、会社の人たちが悪かったっていうだけじゃない。

とりあえず率直な事実を述べると、
人間関係が悪かった要因の1つ目は僕の直属の上司は社内でも有名なパワハラ親父だったこと。
そして、僕の仕事へのやる気のなさが2つ目。

一概に会社が悪いとは言わないけれど、兎に角心理的安全とは程遠い職場環境だったのは間違いない。

パワハラ上司にみんなの前で罵倒されるのは日常茶飯事だったし、直属の先輩も細かいタイプで都度つどミスに対して、なんでこうしたの?どうしてこうしたの?と答えようのない詰め方をされて消耗しきっていた。

そして、2年目の夏には適応障害の診断が下って会社を2週間ほど休むことになった。
その休みが明けて、結局何も変わらないでもとのポジションに戻されたこともあって、日経に勤め続けてても誰も守ってくれないし、不幸過ぎて会社を辞めようと思い始めたのはこの辺。

衝撃の外食事件

そんな辛い日々を送っていたときの僕の生活は酷いもんだった。

休みの日は朝からお酒を飲んでいたし、夜は夜でTinderという出会い系アプリを使って女の子と遊ぶしかやることがなかった。

ここで出会った子たちのお陰で、会社を辞めるきっかけのひとつをもらえたのはまた別な話なのだけれどまあそれは置いておいて。

兎に角、会社では居場所がなく、家では一人暮らしだったのもあって寂しくて鬱まっしぐらな生活をしていた。
(女の子と遊んでいたのも寂しさを紛らわすためだったんだと思う。)

そんな生活の中、親と久々に外食に出かけるというイベントがあった。
恐らく2週間の休職をした後だったと思うけれど、当時の生活が辛すぎて外食をしていたレストランで親の前でみっともなく泣いてしまうこととなる。
(ちなみに親には休職のことは一言も言っていない)

その当日はどうしたどうしたみたいになって、実家にそのまま帰ったんだけれど、後日母親に言われた言葉が衝撃的すぎた。

曰く、
「あんな場所で泣かれて恥ずかしい思いをした」
だと。

言われた瞬間、というよりも親の毒の支配下にあったときは何も感じなかったんだけれど、それでもやっぱりなにか心に刺さるものがあった。
いまになってよくよく考えたら悲しい気持ちだったんだなーと思う。

でもこれをきっかけにして、親の期待に沿って生きていってもきっと助けてもらえることはないんだ、お金とかのサポートはしてくれるのかもしれないけれど、精神的な心に寄り添うってことを求めるのは無理なんだと悟った。

そしてこのときに、親の期待に沿って生き続けるのは不毛だし、そしてこれまででもう十分に親の期待には応え終えたんだから、もういいんじゃないか?って自分の中で納得ができた気がする。

それから、会社をやめる方向に向かうことができた。

3人の女の話

会社をやめることを考えたときに、今後の人生というのを深く考えた。
そこで僕が考える中で材料になった3人の女の人がいる。

そのうちの二人はさっきも書いたTinderで出会った女の子。
そしてもう一人は、会社の先輩。


まずはTinderの女の子二人の話から。

この二人の女の子は当時の僕の狭小な価値観で言ったら負け組であった。
というのも、ふたりとも端的に言ったらお金がなかった。
ちゃんと働いてはいるけれど、一人は中学の先生、もう一人は美容師さんで大して稼げてなかったから。
そんなことでしか人を測れなかった当時の自分が浅ましい。

けれども、そんな当時の僕からしたら負け組のはずの彼女たちはとっても輝いて見えたのだった。
なぜなら、彼女たちは
「自分のやりたい仕事を誇りを持って行っていた。」
一人は先生になるために、有名な附属校でめっちゃ頑張って実習を受け、先生になっていたし、もう一人は、美容師になるためにカナダから日本に単身で渡って来てまで仕事をやっていた。

彼女らの仕事へのスタンスは、辛いことももちろんあるけれどそれでも前向きに明るいもので、ぼくとは真逆のそれだった。
そしてそれは、人生に対しても同じようなスタンスでいるようにぼくには感じられたのだった。

一方で僕は、前向きとは程遠く、世間体はいい会社でも不幸真っ只中である。そのことを思ったそのときに、世間体でしか人を測れない自分はなんて愚かなんだと恥ずかしさでいっぱいになった。

ぼくも彼女らのように輝きながら仕事をしたいと心の底から思ったのを覚えている。
この二人の女の子には今でも感謝している。
名前は出せないけれど本当にありがとう。


次に会社の先輩の話。

その先輩は、同じ大学の出身であったけれどお世辞にも仕事はできなかった。
会社の中の人からバカにされていて、ストレスのせいかわからないけれど、脱毛癖があった。自分の髪の毛を抜いてしまうので余計に社内では気持ち悪いとバカにされ、悪いけれど、とてもこうなりたくはないなと思わせる不幸なオーラがあった。

そんなに辛そうなのに、なんでこの先輩は会社を辞めないんだろうって考えたときに
「きっと見栄とプライドが世間体のいい会社をやめることを許さないんだろうな」
というのがぼくの推測であった。
聞いたわけじゃないけれど、でも合ってると思う。

そしてそこまで考えてふと気づいた。
「これは10年後のぼくだ」
と。

向いていない仕事につきながら、見栄とプライドで会社を辞めることもできず、ストレスの脱毛癖で前髪がなくなってしまっているこの不幸真っ只中の先輩は、会社を辞めずに残った10年後のぼくだと直感した。

この先輩の存在もまた他山の石として(ごめんなさい)、会社をやめるうえで大きな助けとなった。

辞めたら何をするか問題

辞めたほうがいいかもなと思っても、じゃあ何をしたいのかと言われるとこの答えはなかった。

けれども一つだけ言えたのは、「幸せになりたい」ということだった。
そしてなぜ自分が幸せじゃないかといえばそれは、自分が子供の頃から周りに流されて自分のやりたいことや自分の気持ちを素直に表現できなかったことが原因であると言うことまではわかっていた。
今ならば、それは親との関係性の中で持っている性質なのだとわかっているけれど、当時のぼくはそれが日本の画一的な教育システムによるもののせいだと考えた。
(もちろんそれも僕と似たような人が多い一端であるとは思う)

だからこそ、日本の教育システムを変えれば、僕のような子供が救われて、結果として僕も救われるんじゃないかというのが当時僕が考えたことだった。
(原因に気づいているのに、その原因を作った親との関係に目がいかないのが親による毒の根深さだと思う。)

じゃあどうするか、と考えたときに、
「先生になって、子どもたちの自己肯定感を高めるキャリア教育ができる先生になろう」
と思い立ったわけである。

それと同時に、幸せってなんだろう?はぼくの大きなテーマだった。
とくに、給料はたくさん貰っていたけど幸せじゃなかったところからお金と幸せの関係についてめちゃめちゃ悩んだりしていた。

そんな折にふとしたきっかけで、青年海外協力隊というものの存在を知ることとなる。

なんとなく調べてみると、発展途上国に2年間お金をもらいながら住むことができるらしい。
しかも先生の枠での募集もある。
これ、いいかもと思って早速応募してみることにしたのが多分休職したあとくらいだったと思う。

当時のぼくの認識では発展途上国、特にアフリカの人なんかはそのへんに生えてるバナナとか食べてお金はないけど幸せ〜
みたいな感じなんだろうななんて思ってた。
(実際そういう面はあった笑)

だからこそ、そんな日本からしたら考えられないような幸せの形を見に行ってみたいと思ったのが応募した動機で、周りの国際協力したいんです!みたいな人からしたら不純でしかなかったけど、僕の一生にかかわることで僕からしたらめちゃめちゃ真剣だった。

退職、そして、協力隊としてアフリカのベナンへ

すんなりと青年海外協力隊については合格をもらうことができて、会社をやめることになった。退職については特に語ることもないんだけれど、親には猛反対された。
せめて3年はやれ。とか。
3年の根拠が意味不明だったのでガン無視したし、段々と幼い頃からの仕打ちについて怒りを感じるようになっていたので、そこから一切会っていない。

あ、ただいざ辞めるということを決断するのはとてもキツかった。
自分が築き上げてきた全てを投げ捨てて、かつては自分が負け組だと断じた道へと行くのだからそこへの葛藤は大きかった。
けれども結局やめることを決めたら、あとはすんなりと物事が動いていった。

そんなこんなを挟みながら、協力隊に参加したときに最初に感じたのは
「人生いろんな生き方があるんだな」ってことだった。

中高大と似たような属性の人たちとしか出会ったことがなく、僕の周りでは医者か、もしくは名のしれた企業にいる人しか存在していなかったんだけれど
協力隊の参加者には多様なバックグラウンドを持つ人がいて、そしていろんな職業についていていろんな生き方をしてる人たちがいた。
そうして広がったキャリア観はアフリカのベナンで更に広がった。

なんかそんないろいろな人を見ていたら、きっと自分もどこかしらで何かしらをして生きていけるに違いないと思うようになれたのが、協力隊で得た大きな学びだったと思う。

それから、ベナンで得たもう一つの学びは
「自分が先生には向いていない」
ということだった。

こう思ったのには2つ理由があって、
まず1つ目が
「そもそも子どもがそんなに好きじゃない」ってことに気づいたからだった笑
そんなんで先生やろうなんて思ってたなんてみたいな感じだけれど、やってみないとわからなかったんだから仕方ない。

んで2つ目が
「自分の目指す教育と真逆の指導をする自分がいる」ってこと。
キャリア教育に携わりたい、自分のキャリアを自分で自由に決められる子どもたちを育てたいから先生ってのは先述のとおりだけど、そのために必要な要素は子どもの自己肯定感と自己決定だと思っていた。

要するにどういうことかって言うと、子どもたちが自分でなんでもやってみたいことを決めてやってみて(自己決定して)、それで起こったいい結果や悪い結果を引き受けながら等身大の自分を受け入れていく(自己肯定感)ことを助ける教育がしたかった。
けれども、僕がベナンの現場で行っていたのは、授業などを通じて子どもたちを自分の意のままに従わせる、規律を重視したものになっていたのである。

もちろん、ベナンでの教育ってのは難しくて体罰が当たり前の学校現場だから、やりたいことがしづらかったっていう状況ではあった。

しかし、僕の言うことを聞かない子どもたちに苛立ち、従わせようとする自分がいて結局僕は母のように子どもを従わせるような教育しかできないんじゃないかという気持ちになった。
まあ言う事聞かせたいのに子供は言うこと聞かないからあんまり好きじゃないのかもしれない笑

そういうわけで、先生になるのは向いてないなってのがベナンで学んだことだった。

幸せとは何かって話

そうそう、大事な話を忘れていた。

青年海外協力隊として、ベナンに行った目的の
「幸せってなんだろう」の答えと言えるものをなんとなくベナンで見つけられた気がする。

それは、
「美味しい料理とお酒を美味しいと感じる心の余裕があること」

まずベナンは、日本で食べられるものが全然ない。
ラーメンないし、トンカツだって、カレーだってないし、美味しい日本酒や焼酎だってない。

でもたまーに、首都に上がったときとか日本から持ってきた日本食やお酒を飲み食いしたときに感じる幸せってのはこの上なかった。

そのときに感じたんだよね。
「美味しいものは幸せだ」って。

でもその傍らでこうも思った。
「こんなものよりもっと美味しいものを日本では食べられていたはずなのに、どうして日本にいた頃は不幸だったんだろう?」って。

それはきっと心の余裕がなかったからなんだって思った。

辛い仕事があって、人間関係も良くなくて、そして将来に希望がなかった。
こうした全てが心から余裕とかゆとりを失わせて、美味しいものを食べたって何も感じない機械みたいになっちゃってたんだなあって。

だから、幸せってのは心の余裕を無くすような、悪い人間関係とか、金銭的な将来への不安とか、辛い仕事があると感じられないんだと今は思う。

そういう意味で、幸せにはお金はある程度、自分が満足できる分、将来に不安を感じないで済む分くらいは必要なんだとは思う。

お金が目的になっちゃうときっと心の余裕がなくなっちゃうんだろうけどね。

まあそんな感じで幸せとはすなわち心の余裕だというのが僕の今のところの結論。

ここまででぼくの人生の振り返りはおしまいです。
ここまで読んでくださった方がいれば、本当にありがとうございます。

モロッコに行ってからやりたいことは、こちらのノートに書いたので是非こちらを見てください!

それから現在についてはTwitterやInstagramを通じて発信しているので気になる方は是非チェックしてください!

それでは皆様引き続き、シュンヤの物語を楽しんでくれれば幸いです。

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