モロッコでラーメン屋さん開業までの半生と今の人生の目標について(前編)

みなさんはじめまして!来年からモロッコでアフリカ唯一のラーメン屋さん、ルリーズラーメンを引き継いで開業予定のスズキシュンヤです。

今回は僕が今抱いている人生の目標と、これまでの半生を振り返りながら、自己紹介をしていきたいと思います。

今のところの人生の目標

1.人生を「ゆるく」生きる
2.毒親育ちの若者を助ける

と、こんな感じ。

人生を「ゆるく」生きるっていうのは、未来のために今を犠牲にせず、ぼんやりしたり、美味しいご飯を味わったりする心のゆとりを持って、自分のための人生を歩む

みたいな感じの意味合い。

その上で、毒親育ちによってやりたいことがわからなかったり、人生が苦しい人たちにとっての1つのロールモデルとなり、手助けができればいいなと思っています。

と、そんな目標を持つにあたった経緯と、僕という人を知ってもらうために今までの半生を赤裸々に振り返ろうと思います。

歯車が狂った小学4年生

人生のターニングポイント、それは就職だったり、結婚だったり、はたまたいじめだったり、人によって違うもの。

僕の場合は間違いなく小学4年生の時だったと言える。

もっと大きなというか、直接の転機という意味では就職かもしれないけれど、何かがずれてしまった、まさしく歯車が狂ったのはこのときだと今なら思う。

それまでの僕の人生は割と勝ち組と言っても差し支えのない人生だった。

足が早くて運動も得意だったし、勉強も得意だった。
友達もたくさんいたし、すごく自己肯定感高く生きてた、と思う。

そんな生活を続ける中でひょんなことから四谷大塚という学習塾に行ってみることになった。

行ってみて、そこの勉強はそんなに難しくなかったからテストなんかもスラスラ解けた。
そしたら、成績優秀者だったらしくなんか賞状とか盾とか色々もらえることになった。

これで僕は勘違いした。

「あれ?俺全国でもすごい方なのでは?」と。

調子に乗ったのである。
でもぼくもそんなに馬鹿ではない。
四谷大塚の中にはそんなに頭がいいやつがいないだけかもしれない。
そう考えた僕は強いやつを求めて彷徨う孫悟空よろしく、もっとすごいやつがたくさんいそうな塾に行ってみたいと思ったのだった。

その当時頭がいいやつが通っているとして有名な塾が2つあった。
四角い頭を丸くするで有名だった「日能研」と、なんだかよくわからないけど賢いらしい「SAPIX」である。

「このどちらかで腕試しをしてみたい…!」
でも日能研は当時、塾生全員がだっさいNの文字がでかでかと入ったカバン(通称Nバッグ)を持たなかればいけない決まりだった。
いっちょ前に恥ずかしく思った僕は、消去法的に親にSAPIXに入りたいと頼んだのだった。

これがすべてを狂わせるとも思わずに…。

THE"競争社会"

「中学受験」とは何か。
それは総力戦であり、エゴであり、エリートになるレールへの入口※である。
(更に早くから小学校お受験というこのレールに乗るためにもがく人達もいる)

SAPIXへの入塾によって、ぼくはこの中学受験という、泥沼に片足を突っ込む羽目になった。まったく期せずして。

このSAPIX、内情はとんでもない競争社会だった。
定期的に行われる組分けテストで、学力に応じたクラスにわけられる。
だけではなく、成績順に座席の位置までもが決まる。(前の方の席の人が成績優秀者)
しかもこれが、受験が近づくごとに四半期に一度、月に一度、週に一度と頻度が上がっていき、6年生の最後の方では毎回しかも単元ごとにこの入れ替わりが行われるようになるのだ。

これは非常に辛いシステムで、たとえ優秀なクラスにいたとしても、みんなの視線を浴びながら一番後ろの座席に座る屈辱感と言ったらない。

また、例え一番上のクラスの一番前に座っていたとしても安心はできない。
次の日には順位が1つ下がるかもしれない。
「別に2番でもいいじゃない」なんて声が聞こえてきそうだが、子どもというのは順番付けとかそういうものが大好きなのだ。
お子さんと触れ合う機会がある人はきっとわかってくれると思う。

そして悔しかろうが、嬉しかろうが、親に報告するのだ。

そうすると何が起きるか、我が子の為にと親まで頑張り始める。我が子に悔しい思いをさせたくない、そんな思いからかはたまたエゴか、兎にも角にも親子共々この泥沼に飲み込まれていくシステムが中学受験という泥沼の本質である。

それでも、小学4年生の間は大したことなかった。まだまだ受験が先なため、進学塾という色合いが薄いからだ。

ちなみに僕はというと、最初の入塾テストで、上から2番目のクラスに振り分けられて、「あ、自分そこまで賢くなかったわ…」って速攻で気付いたので、入塾していきなり続ける動機を失っていた。
でも自分が言ったことだし、あとはそこまで競争が4年生の間は激しくなかったこともあり、何となく続けることにした。

歪み歪んでおかしくなって

5年生も半ばになると、一番上のクラスの最も後ろの席が僕のSAPIX内の定位置になっていた。
2番目以下のクラスの人たちを見下しながら、一番上のクラスでは見下される。しかも1番のクラスと2番目のクラスでは学力に相当隔たりがあるらしく、僕はいつも落ちこぼれ扱いされるのが常になっていた。(1番のクラスの人たちは賢くてしかもよく努力していた)

別に、中学受験がしたくて入ったわけでもない塾で、周りからバカにされめちゃめちゃ辛い生活だった。

でもそれ以上に辛かったのは、この頃から母親に他の子とすごく比較されるようになったことだった。
「〇〇君は何時間勉強しているんだって」とか、
「✕✕ちゃんに(成績)抜かされちゃったね」とか。

そう、母親もこの中学受験という競争社会の泥沼に沈んでしまったのだ。しかも僕より深くズブズブと。

別に塾にいる動機も無くなってるんだし、辞めちゃえばよかったと言えばそれまでなのだが、気づいたときにはもう戻れなくなっていた。

学校終わりに塾に行くため着替えと沢山の教科書を持って、最寄り駅で待ち※、塾からプリントをたくさん出されればそれを切り貼りしてノートにまとめ、そして迎えに来たりなんだりとしているうちに母親は関節性リウマチになった。
そんな状態でも僕のためにと一生懸命な様子の母親がいて、当時の僕はもはや「辞めたい」なんて言えそうにない雰囲気をひしひしと感じていたのだ。

でもだからといって、勉強にそこまでやる気があるわけではない。上がらない成績に親がヒステリックになることが増え、怒鳴られたり比較されることがますます増える。塾でも馬鹿にされる日々。ぼくの自己肯定感はめちゃめちゃ下がっていった。

かけっこの青いメダル事件


子どもの気持ちは純粋。
ただ親に認め、共感してほしいだけ。
嬉しいときは一緒に喜んで、悲しいときは一緒に悲しんでほしい。
そんなお話。

そんなこんなで家と塾の放課後は辛い日々が多かった小学校の高学年時代。
でも学校のことは大好きだった。
いい先生に恵まれて、友達ともうまくやってた。
それに運動も、そして学校では勉強もできたからのびのびと過ごすことが出来てた。
多分学校生活まで辛かったらぼくの自己肯定感はきっと爆散していたに違いない。

そんな学校生活だったけど、僕には1つだけ悔しいことがあった。
それは、
運動会の徒競走で青いメダルを貰ったことがないこと。

僕の小学校の運動会では、個人、団体に関わらずどんな競技でも3位には赤、2位には緑、そして1位には青いメダルが渡されることになっていた。

ぼくはこの青いメダルを徒競走で貰ったことが一回もなかった。
というのも、ぼくは学年で足が2番目に早い人だった。
早いものは早いものと組まされるのが小学校徒競走界の絶対の掟であり、僕は毎年徒競走では2位という辛酸を舐めさせられていたのである。

その話を当時の担任の先生にしたら、可哀想に思ったのか、小学校最後の運動会では鉄の掟を曲げ、僕とその一番足が早い子を別の組にしてくれたのだった。

そんなことを知ってか知らずか、僕は無事に徒競走で1位を取ることができた。
夢にまで見た念願の青いメダル。

内心はとっても嬉しかったけど、でも照れ隠しもあって親には
「多分先生に1位とったことないって話したからきっと組を変えてくれたんだ〜」
なんて伝えたような気がする。
でも、たとえ本当の意味で1番ではないにしても1番を取れたことが誇らしかったし、親にもその喜びを一緒に共有して認めてほしかったんだよな。たとえ塾の勉強はだめでも。

そして口を開いた母親は一言
「先生に感謝しなきゃね。」
って。

たくさん集めてたメダルだったけど、捨てちゃったのかどうしたのか、いつの間にかなくなった。

比較され続けた学生時代

そんな辛かった中学受験も終わりを迎え、僕は第2志望(別にどこに行きたいとかなかったから偏差値の高い順で受けてた)の学校に合格することができた。
塾のクラスメイトたちは、僕が落ちた第1志望にしていた中学に行く子達が多かった。
でも別に、落ちたところでその中学に思い入れはなかったし「そんなもんか」って感じで、むしろ僕からしたら「やっとこの生活も終わる」っていう安堵感と満足感のほうが大きかった。

しかし、受験の闇に飲み込まれた母親にとってはそうではなかったようで、中学の間ずっと、あの時の「〇〇君は第一志望に入ったのに。」などとことある毎に言われるようになった。

それは、中学高校大学と延々と続き、手を変え品を変え、部活の話や大学受験の話などひたすらに比較され、けなされ続けるのが学生時代の常だった。

また、中学高校での立ち位置は小学校のときと違って、平均的なものでしかなかったので、自己肯定感は小学校のときよりも、さらに下がっていた。

大学時代の恋愛について

そんな僕でも、高校の頃や大学の頃は彼女ができて、人並みに恋愛をしたけれどどの恋愛も別にうまく行かなかった。
それはひとえに僕が、母の代わりに自分を認めてくれる愛を相手に求めていたからだと今になっては思う。

当時、ぼくは彼女が幸せだったら僕も幸せだと本気で思っていたし、彼女に対してもそうやって言っていた。

この
「キミが幸せなら自分は幸せ」
って言葉、聞こえはいいけど呪いみたいだと最近は思う。
なぜなら、自分の幸せはキミ次第、つまり俺のことを幸せにしてくれっていう寄りかかりでしかないからね。

そんな重たいものを相手に背負わせるお子ちゃまとは付き合えるわけがないよなあ。と今はそう思う。
だから大学時代の彼女たちには申し訳なく思っている。


と、ここまでで学生時代の話はおしまい。
長くなってきたから就活、社会人になってからの話は後編に引き継ぐことにしようと思う。

後編はこちら↓

現在モロッコにあるアフリカ唯一のラーメン屋さんruly's ramenを引き継いで
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