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母さん、ゴメン。慶應医学部を卒業したから、医者にならない〜プロローグ〜

※この記事は8記事の内の一つ目です。8記事の内容がつながっています。分かりづらい方がいるみたいなので、最初に全記事を貼ります
1→母さん、ゴメン。慶應医学部を卒業したから、医者にならない〜プロローグ〜
2→私の母の日本軍①慶應義塾大学「教」医学部「学派」
3→私の母の日本軍②〜カルト宗教と受験戦争 とガダルカナルの戦い〜
4→私の母の日本軍③大学中退とバシー海峡
5→私の母の日本軍④病棟実習とインパール作戦
6→私の母の日本軍⑤卒業と玉音放送
7→受験システムが無い新世界
8→母さん、ゴメン。慶應医学部を卒業したから、医者にならない〜エピローグ〜

プロローグ

慶應医学部を9年かけて卒業した。そして、医者という職業は選択しなかった

医学部は1学年100人程度。医者にならない人間は1人いるかいないか。また、僕は医師国家試験の申込みすら拒否した人間、これは勉強をしても受からない人間を除きほとんどいないだろう

勿論、『医学部を卒業したから医者にならないといけない』という法律はない。が、一般的に考えればおかしい

「医者にならないのに、なぜ医学部に行ったの?」
「医者は安定してるし、稼げるのに」

という疑問が湧く。この記事は

なぜ医学部に行ったのか?
なぜ医学部を卒業するのに9年かかったのか?
そして、これから何をするのか?

という疑問を払拭する為の記事だ

また、何故わざわざ記事にして公開する必要があるのか?という疑問も湧くだろう

最大の理由。それは、”スッキリしない”から

自分の悩みをさらけ出せなくて苦しかった。もちろん、言わなくて良いこともある。だが、誰かに相談したかった

ただ、友達に言えず、たまに話しても話が通じない・共感して貰えない事もあった。境遇が違うのか、僕の贅沢な悩みは聞く価値が無いからなのか…そして口頭だと伝わらない。そして悩みを相談するのは難しく、技術が必要だ。悩みが大きすぎる事に加え、元々の相談をしない性格から、ほとんど誰にも言えなかった。

カウンセリングに行けばなんとなく気持ち良くなる。だが、翌日になれば元通りになり、次第に足が向かなくなった

精神科や心療内科には行かなかった。行けば良かったかなとも思う。うつ病の気もなくは無い。統合失調症やSSRIなど精神科の勉強も一通りしているから知識はあったが、いざ自分が投薬されると思うと少し怖かった部分もあったの。また、自分が言いたい事を言いスッキリした事から、このnoteを書けば気持ちが晴れると思う節もある

だから、このnoteを書いて公開しても調子が良くならない場合、精神科に行く事になる。笑

まずは、幼少期・中学受験までを纏めていく

勉強マシーンの誕生〜超エリート街道〜

横浜で生まれ育ち、地元の幼稚園と小学校に入る。七田という知育教室にも通う。祖母に迎えに来て貰い、ココアを買った記憶がある

母親は専業主婦。優しかった。漫画とかゲームは色々買ってくれた。何かを禁止されるような事はなく、普通の母だった。ブランドのバッグのセールについて行ったりはしたけど、そーいえば一緒にスーパーへ買い物に行くなどは一度もなかった。そして、心配性だった。小学校の宿題は然り、母は何でも先回りしてやってしまう人だった

父親は、普通のサラリーマン(と言っても、有名な会社勤務で年収1000万円ぐらいだから裕福な家庭だ)。小さい頃からほとんど喋らなかった。怖い印象だったから。休日は父と2人で出かけるが、緊張感があった

塾は2年生から行っていた。この頃は遊びだったので、テストとかがあったわけじゃなく、知育の様だった。加えて、水泳とピアノ教室に通う。大変とは感じず、卒なくこなしていた

夫婦仲は悪かったのかもしれない。夜になると喧嘩をしていた。後述するが、母のご飯が不味かったのも原因があると思う(炊飯器を使うにも関わらず、ご飯がうまく炊けない)

4年生から塾(四谷大塚)に本格的に通う。中学受験の為だ。週3ぐらい。自分から中学受験を言い出した訳では無い。なんとなく、始まった

同じように中学受験をする同級生は、30人いて2~3人位。僕はレアキャラだった。ちなみに、小学校では騒がしかったそうだ(昔の友達に、暗くなったねと言われた。笑)

その辺りから母親が厳しくなった気がする。教育ママの誕生だ

なぜ、中学受験をしたかというと、母がずっと私立に行きたかったから(公立学校の治安が悪かったのだろうか?)

だが、祖父に反対されずっと悶々としていた。だから、子供を私立に行かせた方が楽しいと思ったそうだ。そして、自分より学歴の高い大学に行かせたかった。良い大学に入り良い会社に就職するという考えだ。決して間違いではない。バブル崩壊を経験した事も、引き金になった

また、祖母も母に対し大学のサークルの旅行に反対をしたりと少し過干渉気味で、鬱憤が溜まっていたのかもしれない

成績優良者〜競争の激化装置〜

他の子がどうなのか分からないが、僕には親がつきっきりで勉強を見ていた。見てくれと頼んだ訳ではない。寝る直前まで、親と勉強していた。自分で問題を解き、自分で答え合わせをした記憶は無い

5年生になると平日の授業に加え、日曜日のテストが始まった

テストでは毎週順位と得点が出て、それによりクラスが変動する。横浜を含む、東京圏内の受験戦争は中々過酷だ。そして、母も父も受験戦争に巻き込まれる

最初から1番上のクラスだった。一度クラスが落ちてから、悔しくて「勉強時間を増やしたい」と親に進言した。そこから、
小学校から帰り
すぐ塾に行き
2,3時間勉強をし
帰ってきたら、夜12時まで勉強する
朝7時に起きて
土曜日は1日中勉強して
日曜日にテストを受ける
という生活を2年間していた。ただ、学校よりは楽しかった。得点ゲームをしている感覚だったから

そして、塾には成績優良者というシステムがあった

それに載らない、もしくは皆が出来ている問題(正答率が高い問題)が出来ないと怒られる。父には「ばっかだねぇ〜」母には「涙がチョチョ切れる」などと言われた。問題文をよく読まないと「思い込みが強い」とも言われる。小学生には酷だった。だが、親は自分の時間を割いて勉強の面倒を見ていた。点数が取れなければ、怒りの感情が沸き起こるんだろう

「こいつらは何様なんだ」と感じていたが、口には出せない。母は一回言えばいい事を、1時間ぐらいグチグチ説教をした。その時間を勉強に当てればいいが、我慢出来ないんだろう

元々うちの母親はしつこかった。控えめに言うと、”エアコンを消さずに家を出ると、後で1時間ぐらいしつこく怒られる"。この位言わないと、ヤバさが伝わらない。勉強に関しては、それがエスカレートした

そういえばテストの時、机に漢字を書いていた。カンニングだ。1点でも良い点数を取りたかった。良い点数を取らないと、怒られるから

父は僕の勉強のために飲み会なども制限されていた。母親の拘束が厳しかった。可哀想と思ったが、「そこまでやらなくていい」と母に言う事はできなかった

それでも勉強を続けていたのは、親の喜ぶ顔が見たくて頑張っていたからだろうか。子供は親の期待を叶えたい生き物だ(叔母が「サッカーをやりたいのに…」と僕が言っていた事を教えてくれた。嫌な思い出は、記憶から消去されたらしい)

テストで成績上位者になっても褒められた記憶はない。いや、褒められたのかもしれない。だが、怒られた事が多すぎて、褒められてもあまり印象に残らないんだろう

成績上位者になると1000円を貰い、貯金をしていた。時間が経てば経つほど、成績上位なのが当たり前になってきた。一度、全国で10位ぐらいで偏差値70以上を叩き出したが、何を言われたか全く記憶にない。親は喜んでいた気もする、ぐらい。褒められた記憶がない。2000円がポツンと机に置いてあった

そういった勉強の面倒臭さがあったからか、もう受験をしたくないといって慶應に志願した(まぁ、元々中学受験自体もしたくはなかったが)
塾の周りの友達は、栄光や聖光学園といった神奈川の名門私立を目指していたが、僕だけ大学まで内部進学できる慶應を選んだ(進級さえすれば、100%慶應義塾大学に行ける)

自分の考えだと思っていたが、妹の中学受験を見る限り親の考えだ。事ある毎に「今我慢すれば後で楽になる」と言っていたから

そして、医者になるという目標が何故か生まれた。何かの雑誌で医者に関しての記事を読んだのは記憶があって、親にも「医者はいいよ」と言われたのかもしれない。これを、刷り込みというのだろうか

いつからか「慶應中学に入り、慶應大学の医学部に入る」という暗黙の了解が僕の中で、家庭の中で生まれた。医者を目指した理由は特に無かった。父親の仕事ぶりがあまり楽しくなさそうだったからか、サラリーマンにはなりたくないと思った事は覚えている。ただ、医者も開業をしなければサラリーマンであると気づくのはずっと先のことだ

兎にも角にも、春休みも夏休みも年末年始も

勉強!勉強!!勉強!!!

1日8時間は当たり前だ。10時間は勉強した

テストでは基本的に毎回偏差値は60超えが基本だった。算数が1番得意で偏差値は70程度、理科社会も60は毎回超えて、国語が少し苦手だった(登場人物の気持ちが理解できなかった。今でも分からないが…)

第一希望の慶應義塾中等部の日程が2/5で、偏差値は68・合格率は80%だった(これは決して100%にはならない。80%は、余程のミスをしなければ絶対に受かるという指標だ)他の志望校も全て80%、余裕だった

そして、中学受験は大成功。慶應義塾(普通部・中等部・SFC)は全て合格(SFCは2次試験で落ちる)浅野は余裕で合格、聖光の2次は落ちた

6年間男子校は嫌だな〜と思って共学の中等部にした

合格した時、親に褒められた記憶はやはり無い

慶應義塾中等部に入学

中学に入ると最初の試験の出来はあまり良くはなかった(皆が勉強するから)だから、成績のことを母親に聞かれた気がする。この時は既に医学部に行くことが目標になっていた。医学部の進学は高校の定期テストの成績のみで決まる。が、母親の心配性が「中学の成績が、もしかしたら関係あるかも」と言葉と雰囲気で伝えてきたので、敏感に察知した。テスト勉強を完璧にするようになった。地元塾では、数学と英語を習い出した

学校生活は最初に調子に乗り、女子に目をつけられキツイ部分もあった。男子からはイジられたりしたりしてたが、寧ろ関係は良好だったと思う

部活は山岳部と模型部(1年で辞める)というマイナーofマイナーの部活に入る。土日に活動するのは疲れる、という消極的な理由だ。受験勉強で色々疲れたのかもしれない。なんだかんだ山岳部の先輩は面白く、楽しかった

当時、天然パーマが気になり1年生が終わった春休みに縮毛矯正をかけた。思春期の真っ只中だった。そして、少し事件が起きる

中学2年に健康診断で引っかかる

体重が減り、身長は伸びていなかった。この時には160cmぐらいあって、周りに比べると身長は高い方だった
父親が180cm、母親が155cmぐらい。理論上は、175cm位にはなるが…周りが身長を10cm伸ばしている中、3cmぐらいしか伸びなくショックだった

慶應病院に通ったが、何故身長が伸びないのかはいまいち分からなかった。しっかりと教えてくれなかった。いや、言ってたのかもしれないが…文章にして残すべきだろう

単純にご飯を食べる量が少なく、必要な栄養が取れなかった為に、身長が伸びなかったという仮説のままだ

とすると、最大の要因は”母親のご飯”という事になる。それもそのはずだ。母親はご飯が不味い。小学校の時は昼は給食、夜は塾に行く前に軽く食べて塾でも弁当を食べて、運動もあまりしない、という生活もあり太っていた(今は痩せているので、想像できないだろう)

それが慶應義塾中等部に入る事で、往復の電車通学、部活動(山岳部なので、運動強度は低いが)、また1日3食という理想的とされる食生活(昼ごはんは弁当でそこまで美味しくない。夜は冷凍食品のオンパレードで不味い)で1年で5kgは痩せた

ご飯が不味いから食べる量が減り、身長が伸びなくなったと当時は感じた(原因は違うのかもしれない)テレビなどのメディアの影響から、自分の家庭のご飯は不味いのかもと思った。それは期待しすぎだったのかも。ただ、もっと美味しいご飯が食べたかった

そして不整脈と診断され、運動が制限された。山岳部というマイナーな部活に入っていたが、それも休むことになる。その間、トレッドミル負荷試験(といえば、医療関係者は分かるだろう)をやり、心拍数モニターをつけ学校に行った日もある

母への信頼は--受験期もそうだが--更に低下した。ご飯を食べなかった事と身長が伸びなかった事を関連づけ、母のご飯が不味いことが許せなくなった。友達に「コンビニ弁当の方が美味いじゃん」と言って、ポカーンとされた事もある

ここから、母は冷凍品を辞める様になった。けど、ご飯を炊くことさえできなかった。ご飯というのは、白米のことである。電気炊飯器だから線に合わせて水を入れるだけなのだが。。

勿論、自分で料理をすればいいという意見もある

母には
「文句を言うなら自分でしろ!」
「頑張ってるだろ!!これ以上頑張って、死ねって言うのか!!!」
と言われ、沈黙した

正論だ。だが、自分で家事が出来るなら夫や妻、子供の役割分担は不要だし、主婦がいらないのなら家政婦を雇えばいいと感じていた

そして僕は勉強を頑張っていた、偏差値で言えば70だ。その点、母の主婦偏差値は40ぐらいだと感じた。手作りの美味しい料理、整理整頓された家、優しい性格、TVドラマや漫画にある母の理想像と比較し、それら全てが欠落していた

自分は優等生を演じている--母が求めた理想像--にも関わらず、その見返りがなかった。代償は学歴や将来の収入だろうが、美味しい料理・居心地の良い環境が欲しかった

何より母の料理が食べたかったから、自分で作る事は無かった

そう言った経験が食への興味を募らせた。と同時に、母にご飯を作る能力を与えなかった教育機関への憎しみの原点はここにあるのかもしれない


勉強に関しては、何の問題も無かった。皆が勉強しなくなる中、ノートをしっかり取り、中学2,3年は(女子も含め)クラスで一番だった

全ての授業を起きてノートを取る、今では考えられない--大学では、ノートという存在すらない--

親がテストの時だけ、「頑張ってね」と言ってくるのは、子供さながら違和感があった。無言のプレッシャーを感じる

そして、卒業

中学生活を振り返ると、総じて楽しかった。だが、毎日が楽しくて仕方がなかった期間は、約2週間。友達が回顧する様に、「あの頃に戻りたい」と言う程ではない

その後、慶應義塾高校に進学する。と同時に、塾に入った。遠山塾(まぁまぁ有名?)に一瞬行った後、PICという塾に入る。後述するが、ここの目がドブのように腐った塾長に母親は毒されたのかもしれない

内部進学にも関わらず、何故塾に行くのかというと、医学部に入るため。1年生の最初から良い成績を取る為だった。母は心配性だ。僕も勉強に対し嫌悪感は無く、断る理由も無かった。なんとなーく言われるがまま、塾に通うことになる

慶應義塾高校に入学

慶應高校に入学する。ここでも、最初は全員テストの点数が良かった。時間が経つと勉強しなくなるのだが

メジャーな部活に入ると週6で拘束され(勉強が出来ない)、ゆるい雰囲気が好きだった事もありESSとバドミントン部に入った(バドミントン部は1年で辞めた)最初はゴルフ部に入ると言って、「ナイスショットォォォ」と一発芸をしていたが、部員を絞るためのラントレがきつすぎて諦めた

医学部に行くつもりで、勉強していた。今思えば、あのゴミの様な授業を全て聞き、ノートを取っていた事が信じられない。成績はクラスで1番か2番だった。1年生はESSとバドミントン部に行きながら、PICが週2回、そして地元の個人英語塾に週1回行っていたのでそこそこ忙しかった

成績は1年時が8.3(10段階中)だった。成績が8.5以上が成績優良者だったので、微妙に届かなかった。だが、2年生からは成績が上がる(家庭科や情報など成績を取りづらい科目がなくなり、中国語など成績の取りやすい科目が増えるため)ので心配は無かった

高2の始めは女の子と一悶着があり、テンションが著しく低かった。それがテストに響く。少し成績が下がったので、親に注意された。医学部に行く可能性が減るからだ

部活(ESS)は楽しかった。体育会系の様な上下関係の厳しさがない事は、とても居心地がよかった。部活をゆるくやりながら、数学と英語の勉強は毎日怠らず、他の科目に関してはテスト2週間前から本気で勉強をしていた

体育会系の部活をやらない事による、逆勉強コンプレックスはあった(勉強しか出来ない)ただ、毎日をそこそこ幸せに過ごす

冬頃に、交通事故に遭う。AKB48を聴きながら自転車に乗り、十字路で車と衝突した。5mは吹っ飛んだ。車のフロントガラスにはヒビが入っていた。痛みは無かったが、親に電話するのが怖かった。怒られるからだ

轢かれた場所の目の前に文房具があって、代わりにおばさんに電話をかけてもらった。病院に行って、MRI撮って脳とかには異常はなくて無事だった。ただ案の定、怒られた。「家族に迷惑をかけるな」と。失敗は許されなかった

高校2年生はよく勉強をしていた。テスト前は12時に寝て、3時に起きるという意味が分からない時期もあった(冬だと3時は寒すぎて、勉強をし始めるのに1時間ぐらいかかっていた)何かに迫られるように、机にかじりついていた

その結果、高校2年の成績は8.8だった。医学部は1,2,3年を通じて8.3あれば、医学部に進学できると考えられていた(年によって違う)
高3の成績を今まで通り維持すれば、ほぼ100%の確率で医学部進学は間違いなかった

特に理由もなく、医学部に行く事が当たり前だった

ここまでの人生は順調だった。エリート街道一直進。出来が良すぎて、挫折経験(熱中できるモノ)が無い事を友達に相談したぐらいだ

だが、今までの人生は虚構だった。母の日本軍が目を覚まし、気づく事になる

※ 記事はプロローグから、エピローグまで8記事あります。読みやすさを重視して分割しました。
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