私の母の日本軍③大学中退とバシー海峡
バシー海峡
それは、太平洋戦争時、南東諸島に兵員や物資などを補給するための航路
太平洋戦争時にはヒ船団やミ船団等の石油輸送船団、フィリピンへの増援輸送船団など、日本の重要輸送船団が多く航行していたことから、アメリカ海軍によって「コンボイ・カレッジ」(英語: Convoy College;船団大学)とあだ名され、潜水艦部隊の格好の作戦場と見なされた[1]。そのため、戦争後半にはアメリカ海軍の潜水艦が多数配置されて通商破壊に従事し、多くの日本輸送船を沈めたことから「輸送船の墓場」と呼ばれた
出典: wikipedia バシー海峡
食糧や弾薬の補給として重要だが、アメリカに多数の輸送船が沈められたという
山本七平の『日本はなぜ敗れるのか 敗因21ヶ条』に面白い記述がある
一体何が故に制海権のない海に兵員を満載したボロ船が進んでいくのか。それは心理的に見れば、恐怖に訳が判らなくなったヒステリー女が確実に迫り来る訳の判らぬ気味悪い対象に手あたり次第に無我夢中で何かを投げつけ、それをたった一つの「対抗手段=逃げ道」と考えているに等しかったであろう
だが、この断末魔の大本営が、無我夢中で投げつけているものは、ものでなく人間であった。そしてそれが現出したものは、結局、アウシュヴィッツのガス室よりはるかに高能率の、溺殺型大量殺人機構の創出であった。
船員たちは広さが1畳のスペースに7人が押し込まれていた(アウシュビッツ収容所より劣悪な環境)
僕が医学部を卒業して医者になる事は、半ば厳しくなっていた。だが、決められた作戦を途中で逃げ出すわけにはいかない
医学部を続ける事で多大な時間とお金が散っていった。それが、バシー海峡で多大な損害が出た事とリンクしたのかもしれない
大学4年目(3年生の2回目)
留年は、初めての挫折だった
学費の留年分は親に360万を借りるという約束になった。奨学金は利子がつくと親が言っていた事も影響している。大学を卒業して医者になってから返すという形だ。契約書を書いた。僕には大学を辞めるという発想が無かった。話し合いはほとんど無いまま医学部を継続した。医者になるかは分からなかった
医学部にいるとどうしても医者になるという選択肢しか無い。周りは全員が同じ職業の医者になる。医者以外の道は、医療系の研究職や厚生労働省だ。大学と称した医者養成の専門学校だった
自分はそもそも医療への興味関心が薄かった。医学部には多額の税金がかかっていて、医者になりたくても医学部に入れない人はいる。自分が医学部にいる事への罪悪感と葛藤が苦しかった
相談する友達や先輩はいなかった。医学部にしかコミュニティが無く、他の分野の知り合いも少なかった。違う分野のイベントに参加するうちに友達は増えたが、相談は出来なかった。そもそも、留年したと言う事すら恥ずかしかった
医学部だと言うと「就活がなくて、良いね〜笑」という反応もあった。テキトーに受け流していたが、「医者になるか悩んでいます」とは言えない
カウンセリングに相談するという発想もなかった
そもそも留年したのはただの努力不足だけなのかもしれない。親の影響は、只の言い訳だ…自責の念に駆られていた
日中は医学部の研究室のバイトをしながら、サッカー部は継続し、暇な大学生活を送っていた
その間、自分の興味の赴くままに活動していた。農業系の団体、国会議員のインターン、自衛隊のサマーツアー…一貫性が無い事に、一貫性があった。自分のやりたい事を探していたんだと思う
医学部は、解剖学のテストに合格する事だけが進級条件だったので(なんと1単位のみで360万だ)なんとか突破し、4年生になった
大学5年目(4年生の1回目)
引き続きサッカーをしながら、授業を受ける毎日だった。学校が忙しい事もあり、目立った課外活動はしていなかった。ただ、テストがあると基本は勉強時間0で挑み、全て不合格だった
夏休みに印象的だったことがある。女の子とデートした後にラインをして、「服部君は空っぽだよね」みたいに言われて、ショックだった。何も熱中してないし、医者になるかも分からない宙ぶらりん状態。サッカー部も引退してやる事もなくなった。女性の直感は鋭い
慶應医学部に在籍するものの、自分には自信が無かった
「なんで医学部に入ったの?」
という問いに答えられない
聞かれるのが怖かった。
慶應医学部に所属する事の優越感は少なかった
夏休みに小児科の再試があり、ほぼノー勉で挑んだ。本試の時に試験官が「絶対通すよ〜笑」といった事を真に受けたのかもしれない。再々試があるから「まぁ、テキトウでいっか」という気持ちもあったんだろう
小児科の再試は不合格だった。そして、掲示板には後で呼び出すと書いてあるが、呼ばれる節は無かった
自分の過去を話す
夏休みのとあるイベント。自分の過去を洗いざらい話すとワークがあった。皆が親が離婚した事、虐められていた事、自分の夢、色々な事を語り合っていた。それに対し、厳しく痛烈な意見が飛び交いつつも、打開策について本気で議論していた
自分の番になり、言うしかないと初対面の人に自分の過去を話した。親の事も含めてだ。すると
「お前みたいなクズやろうが、医学部にいるのは間違っている!法律を変えてやる」
という風な事を言われた。自分の言い方が良くなかったのかもしれない。長時間のワークで、集中力が限界で姿勢が悪い事を年配の男性に叱られていたから
とはいえ、他の人へのフィードバックに比べ、僕への当たりはダントツに厳しかった。精神ダメージが甚しい
「よくあんな言われて、大丈夫だね」なんて逆に褒められた
将来が約束されている医者にしょうがなく入ってしまったという言い草は、嫌味と思われたのかもしれない
自分の過去を話す事はそれっきり無かった
ブログを始める
夏休み後は、塾のバイトを増やしつつ悶々した日々を過ごしていた
テストは平常運転で勉強時間0で、集中する事が出来なかった。再々試になってやっと不安感が出て、勉強して試験に合格していた
その頃、仲の良い友達と合コンのような男女が集まる飲み会に行っていた。すると、その友達は自分の面白い体験談で、場を支配していた
それが堪らなく悔しかった
サッカーも別にレギュラーで試合に出ているわけでもなかったし、医学部も成績は最下位で、自慢できる部分は無かった。何か面白い事をしたいという思いもあった
そんな時、あるブログの記事が流れてきた
面白かった。そして同時に
「あ、これなら自分でも書けそうだな」
と思った。mixiで日記を書いていたので、ライティングには少し自信があった
また教育に興味がある事から、本当はふざけた記事に教育的な記事(考えや教育系のベンチャーをインタビューしようかなと思ってた)を織り交ぜようと思ったが、やらなかった(結果的に、ただのふざけたブログになった)
ブログを始める前、CBTの勉強を年末年始から始めた(CBTは今までの医学の総復習で、選択式のコンピュータ上のテストである)
あまりやる気が出なかった。だから、FBで「自分の隣で勉強するのを監視して欲しい。時給1000円出します」という投稿をした。コメントが結構ついて、面白がってくれた。
1人だけホントに監視をしてくれる人がいた。(その友達とは何かコミュニティが被っているわけじゃないのに、たまに会っている。奇妙な縁だ)いつも一緒にいる友達が連絡をくれる事はなかった。そんな簡単な事で時給1000円も出すのが皆冗談だと思い、怖かったのかもしれない
CBTは、400pの問題集5冊を皆が買う。僕が勉強したのはvol2,3の800pを、なんとなく勉強した(2,3だけでもしっかりやれば合格する)2月の事だ
普通に落ちた
CBTの再試を受けることになった。再試代は2万5千円、屈辱だった
その後、ブログを始めた
最初の記事は意識の高いドラえもんという記事だった。当時流行っていた、意識の高い桃太郎のパロディーだった。一本歯下駄で山手線一周という記事も書いた。あのバイタリティーはどこから出ていたのか、不明だ。ゴールドマンサックスのインターンも受けた。ふざけすぎて、落ちたが
また、いばや通信のブログにハマっていた。記事はどれも面白かった。特に、
この記事がとても面白かった
世の中には『タブー』と呼ばれているものがある。以前のわたしは「セックスと、死と、金。これらの3つの話をすることが、世間的にはタブーと言われている」ような感覚を覚えていた。しかし、最近では「実際問題、最大のタブーとは『家族』なんじゃないだろうか」と思うようになった。
(中略)
家族という集合体は、当たり前に存在をしているようで「その内部では、とんでもない独裁政治が行われている閉鎖的な空間」でもある
確かに、家族について友達話した事は一度も無かった。皆、家族の深い悩みを抱えているが、他の家族は自分とは違い幸せに暮らしていると思い、それを誰にも打ち明けられないからだろうか
日本人の殺人の約半分が、親族間だという。漠然と”家族”をどうすれば、より良いものにすれば良いのか考え始めていた
そして、キングコング西野の後輩のホームレス小谷が1日を50円で売ったりしていた。後々、ブログで真似をすることになる
未知な体験、面白い人の出会いに飢えていた
CBTの再試/小児科の再々試の通知が来ない
2月になっても小児科の再々試の件について、半年経っても呼ばれる節は無かった(その前に、聞きに行くべきだった)
「これは、もう落ちたな。留年ほぼ決定だ」
そう思った
そして
「次留年したら、もう学校をやめよう」
という思考が生まれた。周りに大学を中退した人間はいない。素直に、自分の思いをシンプルに言語化した結果なのかもしれない
お金と時間の無駄だった
もう疲れていた
楽しくない
皆にバカにされる
何をやっているんだろう
医学の勉強をしたくなかった
医学部にいるのが嫌だった
CBTの再試は3月。勉強したようなしていない様。CBTの再試に合格したとしても、小児科が不合格なら留年だった(医学部は全科目が必修なので、1科目でも落とすとダメ)
正直、小児科の再試が落ちている時点で進級できる見込みは薄かったから、 CBTの再試も本気ではなかった。ブログを書きながら、CBTの勉強をしていた
CBTの再試を受けた。本試より、出来た気がした。多分、合格かなーって
掲示板に貼られる合否の結果はメーリス(一斉メールのこと。現時点ではサービスが無くなった)で届いた
番号があれば、進級。なのだが
自分の番号はなかった。そして、2回目の留年が決定した
2回留年して…
当時、1番仲の良かった友達に連絡した
「留年しちゃった、どうしようかな。学校辞めようかな」
友達は優しかった
「とりあえず、飲みに行こうぜ」
あの時は泣いていなかった気がする。あんまり思い出せない。大学を辞めようと踏ん切りがついていたから、全てがどうでもよかった
友達とバーに行った。相談をしても「辞めないほうがいいんじゃない?」って。
こっちの事情を知らなければ、普通の反応だ
何かのミスで留年しただけで普通に医者になるなら辞めないほうがいい。僕は色々な事情があって医者にならないルートが100%だから、アテにならなかった
その日は朝まで飲み明かした。いつになくテンションが高かった。バーに行った後は相席屋という女の子(素人)と飲めるお店に行った。友達はいつもと違う僕の振る舞いに驚いたと言う。そのまま、女の子たちと4人でカラオケに行って、トイレの前でキスをして、友達の部屋にその女の子(1人は帰った)と行ってセックスした。タクシーで向かったらしいけど、記憶はもう無い。
友達と同時にセックスをしたわけではないから、3Pでは無く2.5pだった。すごい楽しかった。全てよくわかんなくなっちゃって、どうでもよくなってた。一部始終を記事にしたら、先生に優しいお叱りを受けた(至極、当然だ)
その1週間後に自宅に成績表が届いた。母親は自分では開けられないと言ったので、僕が開けた。結果は既に知っていた
「原級だ」
と言った
嗚咽する母親
母親に何かを言われて、僕は怒りを抑えられなかった
私「もう学校辞めるから!!!」
母「パパに言わないと…」
私「うるさい!!学校辞めるんだよ!!!」
家を飛び出した
長年溜まっていた怒りが爆発した
なんでこんな事やらないといけないんだって
周りは皆就職しているし、自分は意味が見出せない事をやっていた。医学部に無理矢理入れられたって感じてたけど、それを言ったら「他人のせいにすんな!」って言われそうで怖かった。でも、自分ではどうにも出来ない。医学部は世間で高評価だから相談する人もいなくて、毎日何をやっているのか分からなくなっていた
その日の夜は元々女の子と飲む予定だった。家に帰りたくなかったから、終電ギリギリまで粘ってラブホテルに行った。事には及ばなかった。そんな回りくどい事しないで、留年したから家に帰りたくないって言えばよかった
朝起きてからは、スマホの電源をつけられなかった。親からの連絡が怖いからだ。その日は、友達が所属している学生団体のイベントがあった
イベントが終わってから電源をつけた。親から鬼電とメールが大量に来ていた
帰ったら、「助けられるのは親だけなんだ」と言われた
家に帰ると、親には激昂した。長年の怒りが爆発した。全く興味が出ない勉強を6年続けてきて、我慢の限界だった。そして、そのことを言えばいつも「自己責任だ」と言われていた事が許せなかった
こちらは最後のカードである「大学を辞める」という手に変わった。親としてはそれはマズいと焦り出した。急に下手に出始めた
大学を辞めて、大学中退(高卒)になる事は、どういう事か分からなかった。ただ、医学部にいるのが嫌すぎてそこから逃げたかった。生き延びたかった
ただ、親がこちらの話を聞く気配もない。そもそも、親には僕が医者をやるという選択肢しか無かった。話し合っても平行線だった。毒親はテロリストである、と言った人がいる。本当にそうなんですよね。話し合いは通じない。だから、そもそも交渉してはいけなかったのかもしれない
途中で、今まで絶対に感謝も謝罪もしない母親が初めて謝った。心が揺らいだ
決断を先送りに
4月末に大学を続けるか辞めるか決めないと行けなかった。でも、相談できる人はいなかったし授業も無くお金もなく家に引きこもって考えていた
おば・おじ夫婦に勧められてカウンセリングに行った。これが良い選択だったのかは、分からない
「休学はどうですか?」
この”決断を遅らせる決断”はどうだったのか。そして親には説得の時間を引き伸ばすという意味で好都合だったのだろう。学費を払うのは10月まででも大丈夫、そこで休学をするかしないかを決めるということになった
大学を辞める=戦争を辞めて平和調停、をする事は無かった。もちろん、大卒という資格が世間的にはあった方がいい。しかし、360万/年というお金と時間を大量に浪費し、医者になる確率は0.001%(これは、友人が全員目の前で病気で死に、自分が医者だったら救えたのに…というレベルの経験をすれば)だった
2回目の留年はミッドウェー海戦だろうか(日本海軍は投入した空母4隻とその搭載機約290機の全てを喪失した)
このまま大学(戦争)を続けても、勝てる保証は無いし、辞めるのは辞めるで大卒の資格が無くなり今までの努力が水の泡になる様な気もした。親(郡の上層部)としては、被害が出ても大学(戦争)を続けたかった
そして、大学を卒業しなくても大丈夫というデータは僕には無かった。元々、家ではプレゼンをする習慣も無かったので説得する元気もなかった。「大卒じゃ無いと就職できないでしょ」と言われれば、「まぁ、そうかもね…」とは思っていた節もあった
10月まで大学をどうするか決断を先送りにした
学校は小児科の試験(8月)とCBT(1月)以外は無かったので、鬼の様に暇だった
ブログを始めると、周りに面白い人が増えていった。この頃から起業家という人生も知ることになる。ブログは、逆VR〜目隠しディズニーランド〜や男1人でお泊まりラブホテル女子会などの記事を書いた。が、収益化は難しく悔しかった
ちなみに、この頃からブログの記事になる様にと日々面白いアイデアをネタ帳に書き込んでいった
8月の小児科の再試は難なく合格した。そして、10月
結局、医学部を続ける事になった。親は「よしっ」と喜んでいたが、複雑な気分だった。720万円の借金と+2年を費やす事になる。そして、また留年しない保証も無かった
また契約書を書いた。今度は、契約書の内容を読み上げ録音された。本当は契約書なんて書きたくなかったが、書かないとしつこく書くように迫ってくるので、一時の我慢だと思って諦めた。お金に関しては頑張ればいいかもと思ったが、「研修医を2年やる」という内容だけは到底無理だった。消してくれと懇願しても、聞いてくれる節は無かったが
母は、医学部に関しての新聞の記事の切り抜いてきた。鬱陶しかった
CBT
ブログはたまに記事を書いていたが、1月にあるCBTの前に燃え尽きた。起業家が周りに増えてきて(医学部でも)、下らない事をやるのに少し嫌気が差していた
CBTを受けた
ギリギリ、合格だった
勉強は結局1ヶ月前からで(結構遅い)、本気になったのは2週間前から
それでも、受かったから嬉しかった。いや、ホッとしたという言い方が正しい
進級が決まり5年生になった(7年目)
医学部の5,6年は病棟実習だ。その前に、白衣式という大学のセレモニーがある。5年生全員が白衣を身に付け、これからの実習に臨む心構えをする
母が、僕の白衣姿を見て喜んでいた。写真は何百枚も撮った
医学部を辞めるわけにはいかなかった
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