私の母の日本軍④病棟実習とインパール作戦

インパール作戦

それは、日本軍がインパール(イギリス領インド帝国北東部の都市)攻略を目指すが、誰1人辿り着けず3万人が死んだ作戦 

撤退路は、白骨街道と呼ばれる(出典:wikipedia インパール作戦

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医学部の実習をインパール作戦と同様に扱う事は、いささか誇大的妄想に近い(と自分でも思う)

だが、小中高の学校生活を一度も嫌だと思わなかった僕が、学校へ行くのが億劫で1日中起き上がれない事は初めてだった


病棟実習が始まる

病棟実習(通称、ポリクリ)は、2週間毎に色々な診療科を回る(外科、内科、産婦人科、精神科etc…)

2週間で外来見学・手術見学・講義・レポート・プレゼン・回診・受け持ち患者さんへの問診・早朝のミーティングなどをやり、忙しい。普通の学生の10倍はハードだと思う

7年目(1回目の5年生)の最初の週は、一番厳しい(と噂の)実習だった

担当の先生に開口一番「なんで医学部に来たんだ?」と聞かれた

口をつぐんだ。何も答えられなかった

レポートがあまりにも多いので学校の近くに家を借りるという噂も立つぐらいだったが、年度が代わり緩くなったのか忙しいものの充実していた。レポートは2週間で2本書き、糸結びの練習、手術・外来の見学と色々な事をこなしていた

そこまでは良かったが、最後の口頭試問でつまずいた。勉強する気が出なかった

指定の教科書を見ても何も頭に入ってこなかった。試験対策のプリントを印刷しても、眺めるだけ。何も覚えなかった

そのまま試験に突入した

全ての質問に、答えられない

「再試だ。1週間後に来い」

また試問を受ける事になった。それもダメだった。また呼ばれた。またダメ。自分から日程を送らないといけないが、それのメールすら送れなくなった

レポートも合格していないので、書き直そうと思ったが、やる気が出なくて書かなかった 。もうやりたくなさすぎて仕方がなかった。でも、先生に遅れましたという報告をするのも怖かった。逆にそれがカンに触るんだと思う。「連絡ぐらいしろよ!」と。それすら出来なかった。連絡をしないまま


その後の実習では、カウンセリングを勧められた。あまりにもやる気が無さそうだったからだろう(中学頃から、元々やる気が無さそうな事を指摘されていた)また、講師に質問をされてあまりにも答えられなさすぎて「こんなに分からない学生は、初めてだ」と言われた。精神的ショックが大きかった

課外活動

実習の傍ら、違う活動をし始めた。ブログを更新しない様になったから

インターンを色々探してみた。教育系に興味があったので、Qubenaとかリタリコなどを受けたが、何か違和感を感じた。ビジネスモデルが違ったのだろうか

医学部という事もあり、医療系のインターンに応募すると簡単に合格した。だが、長続きはしなかった。良さげなモノが無かったので家庭教師や日雇いのバイトで日銭を稼いでいた。業務委託で記事を書いたりもしていた

年下の子と一緒に多世代の人が交わってスキルを物々交換するシェアハウスを作ろうとしたが、家を借りる段階で色々な面倒さが生じ途中で力つきた

教育系のプロジェクトをやりたかったのだ。参考まで↓

googleドキュメント

また友達が起業し、その手伝いなどをしていた。営業なども少々。ビジコンに出たりもしていた。楽しかった

ちなみに、7年目だと医学部の標準年数の6年を超え、初対面の人と会うときは最初に「7年生です」と言う様にしていた(途中で留年の話をするのが、面倒くさかった為)

留年をする事をカミングアウト出来る様には、なっていた。だが、「学費いくらかかってんだよ笑」というイジりが頻発した。勿論、イジられないのも変だし、それで笑いを取る分には嬉しかった。と同時に、好きで留年している訳じゃないし金を注ぎ込んでる訳ではない…悶々していた

家を出る

そんな折に家を出ようと思った

元々1人暮しをしようかなと考えていたが、金銭面でキツかった。ならば、流行りのシェアハウスだと思い、色々探し回った結果、アオイエというシェアハウスに住む事にした

何故、そんなに嫌なのに家を出なかったんだ?と聞かれればなんとも言い難いが、一人暮らしでもしようものなら「余計な事するなら、お金返せ!」と言われるのが、キツかった

親からは反対された。家に住む事を決めてから、親に報告した(初めてだ)ただ、言うのが怖くてシェアハウスに住み始めてから2ヶ月後に親にバレた(自分で言うのは怖かった)それまでは家とシェアハウスの2拠点生活だった

アオイエに入った後、父と母が来た。「友達のせいでおかしくなった」と住人に言った様だ

シェアハウスに入った理由は、面白い人達に囲まれれば教育系のプロジェクトを進められるかもと思ったからだ。だが、「え、医学部なのに何故?」と言われて、少し心が折れた

病棟実習

実習は無断欠席をする日があったり、遅刻をしないで全出席したりと、気分にムラがあった。レポートを出していなかったり、手術見学を途中で退出するなど平均的医学生に比べればクオリティは圧倒的に低かった

朝に起き上がれない日が出てきた

なんて連絡しよう
風邪だと言って休むか
それはズル休みだしな
病院に行って、偽の診断書を作ってもらうか
いや、虚偽は良くないか…

微妙な真面目さと無駄な正義感が頭の中を駆け巡った

うつ病だったかもしれないから(今もだが)、精神科に行けば良かったんだろう

ただ、連絡も無しに休めばどんな事情があろうとも関係ない。怠惰な医学生だと認識される。だが、自分の事情を話せなかった

実習は2週間おきに診療科が変わる。無遅刻だったり、無断欠席をしたりと気分にムラがあった。レポートも、実習終了時に出さなくてはいけないのに出す事が出来なかった。1行も書けなく、謝罪のメールを入れるのも怖かった。学事の方が各教室に連絡してくれ、出さなくてはならないレポートなどの要項を纏めてくれた。12月にレポートを5個位一気に出した

2月に外病院での実習が始まった。ここで堰を切った様に、実習を無断欠席した。一度実習を休むと、止まらなかった。態度も悪かったらしい。病院の会議が5分経った所で貧乏ゆすりが始まった。患者さんの前でスマホをいじった。全ての内容が何も理解できず、体が早くここから逃げ出したいという反応だった

家でも彼女の前で泣いた。自分が何をやっているのか、分からなくなっていた

病棟実習は”普通に”やっていれば大丈夫と言われた。僕の”普通”は、皆の”普通”では無かった

3回目の留年が決定した

3回目の留年

実習では留年しない

正直、この言葉に油断していた。少しぐらい休んでも大丈夫かなと自分の中でも高を括っていた

シェアハウスに住んでいたので、週1回実家に返って、話し合いをした。断れば良かったのかもしれない

戦争で言えば、原爆が落とされた状況に近い。もう(戦争終結)間近だった。後は、いつ戦争を辞めるかだけだ。そのデザインが出来なかった。親は僕が医者にならない(戦争に勝てない)事は分かっていただろうが、現実を受け止める事は出来なかった

原爆

そして教授2人と面談した。医者になる事を勧められた。医学部を辞めたい事、医者にならない事は言えなかった。言っても、どうせ説得されると思って本心を隠していた

また、親に医者にならないと言っても信じてはくれなかった

大学を辞めると言うと「大卒じゃないと、就職は無いでしょ!」と言われた。大学を中退した人間は周りにいないので、僕自身はよく分からなかった

大学を続ければ、360×3=1080万円の借金をする事になる。勿論、医者になれば返せる(一般企業に就職しても返せるが)だが、1ヶ月に10万円を返すという約束を親が変える事は無かった。10万円というと新卒なら給料の半分だ。医者の給料でも1/3~1/4、到底厳しかった。だが、お金の話をする事は無かった。すれば、僕が医学部を辞める可能性が高くなるからだ

2年前に留年した時よりも大学を辞める決意は弱かった

そして、大学を辞めるかどうか知り合いに相談は出来なかった。この頃も同年代の友達しか居らず、年配の人やビジネスマン、経営者、高卒・大学中退の人達など、参考に出来る知り合いはいなかった。居たとしても、医学部じゃないしな…と思ってしまう自分もいた

親と話し合いをしても、こちらの意見を聞いてくれる事は無かったので、話し合いの途中でシェアハウスに戻った。医者になるという前提が覆る事は無かった

家を出るときに母が「ゴメン」と謝った

「もういいよ…」

慶應には中学から通って14年いる事になる。正直、慶應大学を卒業するために中学受験をした様なモノで、今更作戦を撤退できなかった。高卒と大卒、常識的に考えれば大卒の方がいいし、1秒で大学を卒業できるなら迷わず大卒の資格を得たかった。だが、それには高いハードルがあった

母の大学を卒業して欲しい気持ちをどうしても振り切れなかった。大学を卒業しないのは親に申し訳ない、親が可哀想という気持ちになった。大学を卒業したいという無意識の欲求があった上の、後付けの理由なのかもしれない

また、大学を続ける事になった

外部の病院の態度が問題になった病院長とかと面談になった。医者をやらない事を纏めた文書を読み上げる気満々だったが、そういった雰囲気ではなかったのでやめた

譴責処分となった。停学などのお咎めは無かった

医者をやらない旨を両親に告げても理解される事は無かった。「病院長や教授があぁ言ってくれているんだから、医者をやらないと!!」僕の気持ちは等閑(なおざり)にされた。また、大学を続ける事になった

大学8年目(5年生の2回目)

医学部にいながらも、やれる事をやろうと起業しようと思った。4,5月辺りの事だ。”教育系”の事業をやりたかった。プレゼンもし、興味を持ってくれる友達もいた

googleドキュメント?

だが、TwitterやFBで発信出来なかった。理由としては2つあり
・医学部でありながら他領域(医学以外の分野)の事業をする意味不明さ
・真面目な事をする恥ずかしさ
だった。前者の理由がほとんどだと思う

友達の医療系のスタートアップを手伝う時は「なぜ?なんで君がその事業をやるの?」とはほとんど聞かれなかった。だが、他領域だと「なんで?」と幾度も聞かれた。これで心が折れた。加えて、「医者をやらないの?親泣くよ」と言われると1週間ぐらい立ち上がれなかった。こちらの事情を知らないのに

投資家に会いに行った。今思えばジャンルが違うから元々見向きもされていなかったんでしょう。相談する人を選ぶ、ということを知らなかった。計画書(と言っても、やりたいことを雑多に書いただけなので、こちらに責任のほとんどがある)は見てもらえてすらいなかった

5月にシェアハウスを出た。親は「家はどうする?」と聞いていたが、帰って欲しそうな雰囲気を出していた(お金が余計に掛かる事が、嫌だったのだろう。シェアハウスに住むお金があるなら、返せと)

僕も特に面白い事をせず、シェアハウスに住んでいる意味も無いと思い、実家に帰った

引越しを父親に手伝ってもらう。荷物を入れた車が帰宅する途中、「家に帰られると皆が迷惑する」と言われた。そしたら、何故家に帰らないでくれと言わないんだ、と思った。父は意味不明だ。母の腰巾着でしかなかった

転部すれば?

留年した理由は、地域実習と整形外科・神経内科・婦人科の単位が取れなかったからだった

2ヶ月のうち2週間だけ実習に行き、それ以外は暇な日々を過ごしていた

留年をすると、勿論学年が一個下になる。普通の学科と違い、実習は人とコミュニケーションを取るので、また新たな人間関係を育まなければならない

6月頃、フリースクールのボランティアをする事になった。フリースクールは、様々な事情で学校に行けない子達が集まる居場所だった。”不登校”よりも、”学校の存在意義”に疑問を持っていたので、学校へ行かない子達がどのような風なのか知りたかった

案外絡んでみると、普通だった。だが、僕の求めるものとは何かが違った

8月頃、中高生と大人を繋ぐためのカレー会を開いた。高校生も何人かきてくれた。2回目も開いたが、3回目になり心が折れた。FBやTwitterで堂々と告知が出来ない事にイライラを感じていた

ある日、イベントで女性と会った。医者ではなく、違う事をやりたいと言うと

「転部すれば良いじゃん」

と言われた

それができたら苦労しねえんだよ
初対面なのに無礼な野郎だな

と、腹わたが煮えくり返った

自分の人生を自分で決められない人だっているんだ…

医学部で学べる事とやりたい事に整合性は無かった

段々やりたい事も発信すらできない。特段何もしないまま、ダラダラしてきた

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