見出し画像

リモートワークの先 オフィスでも自宅でもない場が職場になる未来


通勤はしたくない。でも自宅でも働きたくない。

2027年11月26日
私はいつも通り7時半に起床した。起きるとすぐにジョギングをしに行く。こんな生活ができるのも、思い返せば通勤時間が大幅に減少したおかげだ。満員電車に揺られる時間を近所の河原でのジョギングの時間にあてられている。近所の人も大体同じメンバーがジョギングやウォーキングをしたり、犬の散歩をしている。

2020年の新型コロナウイルスの流行により、日本でもリモートワークの流れが推し進められた。体力と時間をすり減らした満員電車での通勤時間や、無駄に長かった会議の時間は大幅に削減された。それ以前に唱えられていた働き方改革が、強制力を伴って断行されたのだ。改革を阻んでいた、ご年輩の方の持ち合わせていた古き良き日本の考えは、人と人の接触を8割以下に削減せよという政府からの要請によって、台風を前にしたちり紙のごとく軽く吹き飛ばされた。
オフィスで机に向かって仕事をしていた多くの人が自宅を職場として働きはじめた。最初の2週間から1か月ほどは、通勤時間や紙至上主義、ハンコ文化などからの解放に喜ぶ人々が大半を占めた。しかし、リモートワークの開始後、1か月ほどしたあたりから、改めて自宅を職場とすることの弊害が問題として顕在化し始めた。自宅が職場となることで、確実に仕事から切り離された場であった空間が失われたことは、多くの人の精神面を徐々に蝕んでいった。自分の家の中のこと、自分や家族の身の回りのことだけをやっていればよかった自宅は、その安心感は急速に失われた。そして満員電車に揺られる厳しい時間であったとはいえ、通勤時間は気分転換になっていたことに気付かされたのだ。満員電車に乗る必要はない。けれども日常生活と仕事をシームレスには繋げたくない。仕事だけが全てであった時代の人間とは違うのだ。
もちろん一部の人は自宅が職場となってもあまり気にはならなかったようだ。特に元々自宅でも仕事をしていたような人や、大学時代に家でも研究や作業をしていた人は自宅が職場となることを弊害と思わなかったようである。自宅にある誘惑に打ち勝ち、なおかつ切り替えを容易にできる人々である。
しかし、自宅と仕事は切り離したいという人、気分を入れ替えるために、10分15分は離れたところで働きたいという人、家があまり広くなく、同居する人の片方は自宅外で仕事をしたいという人などは家の外に職場を求めた。職住一致ではなく、職住近接を多くの人は選択した。

8時過ぎ、「いってきまーす」と言って息子はサッカーシューズだけを持って小学校へ向かった。ノートも教科書も電子化されているから持って行く必要はない。家では別の端末を開けばいいだけだ。肩が痛くなるような教科書を毎日持って行っていた私たちの時代とは全然違う。
そしていくらリモートが進んだと言っても、体育の授業や、校庭で友達との遊び、などはできない。学校の授業は基本的には学校でやる。別に本人が嫌じゃないのであれば、やはり親としても子供は校庭でのびのびと遊んで欲しい。
私は10時に家を出て、10分ほど歩いたところにある駅併設のワークスペースへ向かう。コロナの流行る前は、1時間もかけてぎゅうぎゅうの満員電車に揺られて通勤していたけれど、今は歩いていくだけでいい。
スーツも着る必要はない。気持ちを切り替えるには部屋着から普通の服に着替えるだけでいい。まだスーツじゃなければというご年配の方はいるが、もう時間の問題だろう。
妻は今日は取引先との大事な打ち合わせがあるらしく、都心に向かわねばならず、息子が出ていってからすぐに出かけて行った。流石にスーツを着ていったようだ。

私のように首都圏に住んでいて、リモートワークができる人の中では、郊外の駅にある小規模な単位でシェアオフィスや、個人用ワークスペースを利用する人が多くいる。当然地域によって立地密度は違うけれど、都内の職場に行くよりははるかに楽で、近い場所にワークスペースがある。もう少し田舎へ行くと、ショッピングセンターに併設されている。
ただ、社内外での大人数での会議や、重要な打ち合わせがある時は多くの人は出勤しないといけない。多くの会議はオンライン通話でいいし、重要なのもオンラインも許されている。けれど、情報伝達の速度の面ではやはり対面の方がまだ速いと思う。それに週に1回は少なくとも部署の全員が出勤し、情報の共有や雑談のような新規プラン検討を行う。単純作業をするためにオフィスに向かうのは無駄だけれど、同じ空間にいることで生み出されるアイディアというのもある。それに、いつも家族としか直接顔を合わさないのは案外つらいものだ。

こんなに自宅の近くにいる時間が増えたものだから、休日はなんとなく自治会などの活動にも前よりも出るようになった。公園の清掃などをするだけで、ほんとに小さなことではあるが、自分の住む土地を大事にしようという意識は前よりも増したと思う。前までは家の近くはあくまでも帰って寝る場所だったが、住み、働き、楽しむ場所となったからだ。

――――――――

「観光」と「生活」は融合し、それ自体が「生活」となる。

2028年1月15日
今日から1か月は秋田に行って仕事をする。どこでも仕事ができるのだから、行きたいところ、住んでみたいところに短期滞在しながら仕事をすることも問題ない。
新幹線に乗り込み、4時間ほどで秋田。在来線で数駅行ったらもう一面銀世界だ。電車を降りて少し歩き、空家を改装して作った短期滞在施設へ。ここには10軒ほど似たような短期滞在施設があるらしい。会社の福利厚生とオフィス提供の一環だから、ここを使うのに私の負担は1か月4万円。これで近くのワークスペース、近隣の公共交通が使い放題なのだから、旅行好きには最高のプランだ。
前回、夏には妻もうまく時期を合わせられたので息子も連れて宮古島に1か月滞在した。海に沈む夕日を眺めながら飲むビールはまた格別のものであった。
今回は水曜は近場の週末には雪の中の温泉巡りをすることを企んでいる。たまには一人で1か月過ごすことも悪くない。子供の学期中に行く時は妻とは交代交代で一人短期滞在、この前は釧路に行っていた。

2020年以前、「二拠点居住」という言葉があったが、それはごく一部の特殊な働き方をする人の居住方法、あるいはあるいは単純に毎週末別荘に向かう人の生活サイクルでしかなかった。地方への移住などの動きもなされていたが、中々都市を捨てて地方へ完全に生活を移すという踏ん切りをつけられる人は多くなかった。
そこで生まれたのが、この短期滞在タイプの地方ワークである。自宅は持ったままに、1か月単位で短期滞在をすることができ、幅広い層にウケている。完全に地方に軸足を移すのは一つ覚悟が必要であるが、これであれば気軽に様々な地での居住を経験することができる。観光の中で「本物」「地元の生活の体験」といったものが求められるようになったその先には、実際に住んでみるという、「観光」を通り越した「生活」が待っていた。「観光」と「生活」を分ける必要はどこにもない。「観光」は「生活」の一部にできる。

あくまでもこれは私の暮らし方だ。どこでも働くことができるようになったことは、多様な暮らし方を生み出した。都心の立地価値はやや減少し、憧れの都心生活を始めた友達もいるし、田舎に土地を買って広めの日本家屋を建て、住んでいる友達もいる。はたまた会社員をしたまま、キャンピングカーで全国をぐるぐるしているやつもいる。時差はどうしようもないが、海外からも簡単に仕事ができる。うまく仕事の都合をつければ同じ会社に勤めながらヨーロッパ生活もできる。もちろん様々な国から日本に訪れ、短期滞在、長期滞在を楽しんでいる。この前宮古島に滞在した時にはかなりの人数の外国人を見かけた。

居住の自由、働き方の自由、移動の自由を新たな段階に進めるには、世代間闘争のような側面が強い、ある程度の戦いが必要だった。まあそんな話をここでしてもしょうがない。とにもかくにも、この3つの自由の概念が拡張された2027年に今、私は生きている。

※この記事は全てフィクションです。

「2028年、リモートワークが消えた日」という記事では、在宅での仕事が描かれていた。それを否定するわけではない。そこで描かれた「デジタルトランスフォーメーション」も、問い直された「人間の仕事」も今の世界が進んでいく方向であると思う。
けれど、在宅のみとなるだろうか?四六時中家にいられるだろうか?そして会話し、遊んで楽しみ、交流して刺激を受け、という人が集まることで生まれる都市の楽しさ・面白さは捨てられてしまうだろうか?否と思いたい。
むしろ遠距離の移動を増やし、様々な場所でそれぞれの楽しさ・面白さを味わうことができる未来を想定したい。


全国の美味しいお酒に変換します。